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【読書感想】〈恋愛〉の現在-変わりゆく親密さのかたち(現代思想2021.9)

「恋愛」はいま、どうなっているのか――恋愛研究の最前線
ライフコースの多様化を背景に、必ずしも結婚を中心としない視座から恋愛を捉える重要性が増しつつある。しかし同時にこの「恋愛」という概念自体もまた、根本的な問い直しを迫られているのではないだろうか。本特集ではポリアモリーやアセクシュアル/アロマンティックを含め、異性愛中心的な「恋愛」の規範が排除してきたさまざまなありように目を向けつつ、その「現在」を多角的に検討したい。

【討議】

○これからの恋愛の社会学のために / 高橋幸+永田夏来

家父長制の崩壊による恋愛への関心から始めて、バブル期の消費と結びついた恋愛至上主義と生まれ変わりのための結婚というゴール、90年代の女性の主体性が「セックスをお預けにして男性から利益を最大限引き出す」から「どんどんセックスする」へ変容し、ゼロ年代以降は分散された「微量の恋愛感情」のやりとりへと変遷していった、という戦後の「恋愛」の経過を辿っている間は永田氏がリード。

10年代以降のリアルに関しては高橋氏の発言に共感する。このあたりは世代の近さもあるのかもしれない。マッチングアプリ、ソフレ(添い寝フレンド)といった実証研究に裏打ちされているのだろう。ところでソフレについては妻とも喋ってみたが、「眠れない」みたいな精神的疾患への治療と捉えれば許容できるが、性的快楽を積極的に求めていく姿勢とすれば規範意識に反するという感覚だった。

高橋氏がソードアートオンラインを引きながら主張する、恋愛の社会的機能を「人格的価値の承認」と仮定すれば、その機能は恋愛以外の関係性で代替する余地もある"にもかかわらず"恋愛は、「家族はもう要らないよね」とはならず、新しい時代に合わせた恋愛や家族の価値化・理想化が起こるという指摘に、機能への因数分解を企図する永田氏が押されている。別にディベートではないのでいいのだが、ここからはもう頷きながら読んでいた。

結婚していなければ「一人前」ではないというような発想は薄れつつある一方、恋愛や結婚は人を人間として成長させる機会であるというような、より個人主義的な言い回しで残存し、社会的抑圧になっている
個人に対して抑圧的に働いていると感じられていたいろいろな規範が緩んでいくなかで、それゆえに、恋愛や家族自体は善きものや人生の希望みたいなものとして保持されている

特にこのあたりは、我々世代が「逃げ恥婚」に対して感じる抑圧を明晰に言葉にして貰えて嬉しかったですね。

【エッセイ】

○もう誰かと恋愛することはないと思うけれど――〝恋愛以外〟のことで考えてみる「恋愛とは何か」問題 / 清田隆之

恋バナをしながら恋愛以外の経験がよみがえってくる事例をスポーツ、引っ越し、推しアーティスト、友だちの母親との不思議な信頼関係などに見るエッセイで面白かった。「エモさ」は恋愛の専売特許ではないと。

○恋を語る言葉 / 石井ゆかり

恋愛相談の内容が「ままならぬ恋の制御」から「恋とは何かが分からない」へと透明度を増しており、その理由として恋は体験しなければ一人前でないとの規範がある一方で、恋を語る言葉が全方位ポリコレのために過度に一般化したからでは、と投げかけている。

【何が語られてこなかったのか】

○恋愛からの疎外、恋愛への疎外――同性愛者の問題経験にみるもう一つの生きづらさ / 島袋海理

○恋愛的/性的惹かれをめぐる語りにくさの多層性――「男」「女」を自認しない人々の語りを中心に / 武内今日子

○ポリアモリーという性愛と文化――愛をいかに自由に実践するか / 深海菊絵

とても良かった。もっと知りたいと思って深海氏の書籍を買った。

フーコーの「性は運命づけられたものではなく、創造的生に到達するひとつの可能性」を引用しながら、欲望に忠実に、しかし配慮とオネスティ(率直さ)を基調とした関係性を絶えずメンテナンスする実践としてのポリアモリーは、なんとなく勝手に抱いていたシェアハウスの中で乱交しているみたいなイメージとはかけ離れた真摯さだった。

そしてメンテナンスの手法として、「スケジュール管理」(これは妊活っぽい)や「身体管理」と合わせて、「感情管理」としてジェラシーをコントロールし、対義的な感情であるコンパージョン(パートナーが自分以外の人間を愛していると感じることでもたらされる幸福な感情)へ転化しようとするところにまで至っている。

欲望の告白を権力による統制の契機とするのではなく、純粋な自己形成の契機へと蒸留することができる時代にようやく辿り着きつつあるのだと感銘を受けた。

○クワロマンティック宣言――「恋愛的魅力」は意味をなさない! / 中村香住

自らの獲得したエンパワメントを分配しようという姿勢がビンビンに伝わってきて良かった。「恋愛」という枠組みを取り払った「重要な他者」への「自己投入(コミットメント)」という本質へと近接していく解釈は、カテゴライズされたくない人々に刺さる。

ただ指摘されている「関係性を十分長続きさせるためには、自己投入が必要である」が「万一関係が解消した場合に、将来極めて大きな精神的打撃というリスクを冒すことになる」という構造的矛盾は、冒頭にあるように「付き合う」「別れる」という黙契が「窮屈だ」という直感を説明しているものだが、これっていわゆる”卒業式前にならないと告白できない問題”、つまり「関係性が変わってしまうことが怖いから踏み出せない」と繋がって、いったん恋愛関係に陥ってしまうと、その関係を永続させない限り、「別れ」を体験しなければならないという恐れが関係性の深化(という変化)を抑制する、という前提が背後にあると思われる。

なので「ある時期の「自己投入」を後の時期にソフトランディング(フェードアウト)させられないこと」が問題の要諦で、冒頭にあった「分散された微量の(恋愛)感情のやりとり」の強度を、リモコンで音量を上げ下げするように操作することが「窮屈さ」に対する真の回答だという気がする。

しかし、この論考ではそういった点について、実践の紹介(ハッシュタグ「#友達惚気」を覗いてみたが「配偶者・子ども」との日常会話芸の相手方を「友達」に正しく変換しているように見える)に留まっており、「一緒に歩く」「祈る」といった「自己投入」の強度の穏健化によって精神的打撃を予防しているに過ぎないのでは、と物足りなかった。

○アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向――仲谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から / 松浦優

異性愛規範、性愛規範、対人性愛中心主義といった多数派の有徴化によって、周縁化された性的指向、恋愛的指向を探っており、特に恋愛を「する」ものではなく「見る」ものとする欲望が虚構空間で自立すると理解する。

そして「恋愛のコード」を習得してさえいれば参入可能な「二次元」を対人性愛から切り離す。このあたり二次元に傾倒する指向に対する批判への批判になっているのだと思い、それには大いに賛同するのだが、そこから次の展開がよく見えなかった。

『やがて君になる』はアマプラで配信してないみたい。残念・・・

【〈ありふれた物語〉のゆくえ】

○一九八〇年代、『non-no』の恋愛文化――現在を対象化するために / 木村絵里子

冒頭の対談をなぞるようなバブル期の消費主義と恋愛、その舞台としての都市、という一瞬間のスケッチ。往時の雰囲気を後代の視点でクスッと眺めて読んでしまう私は後生の高慢なのだろうが、しかし楽しかった。

○ロマンティックラブ・イデオロギーというゾンビ / 谷本奈穂

妻とめちゃめちゃ議論できて楽しかった。

「恋愛のゴールは結婚」という規範は死んだように見えて実は「結婚するには恋愛感情が必要」というイデオロギーに姿を変えてゾンビ化しており、死んでいるが故に倒せないし感染する、という話。事例として『逃げ恥』は契約結婚でスタートしたはずがいつの間にか恋愛感情が生じていることと、『この世界の片隅に』が挙げられる。

もし、すずが妻でありながら幼馴染の水原と関係を持ったなら。もし周作が結婚後もリンと関係を持っていたなら。もし恋愛結婚でないすずと周作が夫婦になって以後も恋愛感情を持たなければ。いくつもの「もし」があり、そうなっていても作品の価値は損なわれないと筆者は考える。だが一方で「感動できない」「残念」と感じる読者や観客もたくさんいたに違いない…

確かにあの水原との鳥の羽だけ貰う一夜、戦前の規範と実態の乖離が不貞行為によって表現されることを「期待」すらしている自分がいたが、その期待は裏切られて、すずさんの「純潔性」は保全された。

また妻はすずが周作にむしろ恋心を持たず家族愛の範疇に留まった方が「見つけてくれてありがとう」が生きてくる、けど「恋心を持たない」と設定してしまうと、それはそれぞれの不倫相手に傾倒する状況を自然と随伴するゆえに商業映画では描けないことも理解する、という意見だった。

いずれにしても商業主義作品の中では大多数派にリーチする規範として「夫婦愛」が自然と認容されており、それは何かを見逃していないか、という指摘に頷いていた。

○「愛─性─結婚」の現在地――子どもによって繋ぎ止められる日本のカップル / 大森美佐

○「逃げ恥」に観るポストフェミニズムーー結婚/コンフルエント・ラブ/パートナーシップという幻想 / 菊地夏野

男女の対等な関係のもとで丁寧なコミュニケーションにより相手を理解することに重きを置く「コンフルエント・ラブ(合流する愛)」をキーワードに、逃げ恥が「フェミニズム的」言説によってジェンダー不平等を覆い隠しているとの論で面白かった。

【そこでは何が起こっているのか】

○ゴースティング試論――CMC空間の恋愛をめぐる一考察 / 中森弘樹

マッチングアプリでサイレントお祈りする人びとの行動から、現代の恋愛がコミットメントの証明によって表現されており、関係性の切断はコミュニケーションの切断に等しくなり、生/生命への配慮や関心が形成されるためには時間がかかることを分析している。

また、スペックの商品化というマッチングアプリの特質が、ゴースティングを受けるたびに自尊心の低下をもたらすとも。このあたりは恋愛だけではなく就活や転職活動でもそうだよな、と思いながら読んでいた。

○メンヘラ少女たちのオートセオリーのために / 菊池美名子

「メンヘラ」の意味がポジティブに捉えられ始めている昨今の状況を教えてくれた。妻に聞いたら昨今のJKたちはポジティブにメンヘラを自称しているらしい。私は完全に旧世代の厄介女子のイメージで捉えていたので意外だった。

○不安定な自己を叙述する――異性愛関係に引き寄せられる男性のライフストーリー分析 / 西井開

新書『「非モテ」からはじめる男性学』を既に読んでいたので、内容はかなり重なっていたが、選民意識による葛藤への対処や、女性所有が家父長制秩序ではなく自尊の回復の為に企図されている様、階層関係の自己規定における複雑さなどを改めて感じた。

○「家父長制ボイコット」としての非恋愛――韓国社会の変化と若者の恋愛 / 柳采延

とても良かった。西井開氏の論考へのひとつのアンサーにもなっている。

結婚しない・出産しない・恋愛しない・セックスしないという「4B(4非)」の価値観を持つ世代の登場は、10年代以降の親密な関係における暴力問題や望まない性的対象化の問題によって、自己決定規範から導出された「性的自由」や「対等な関係性の構築」などの意味や価値を恋愛に期待できなくなった若年層の認識を反映しているという。

以下しばらく写経するが、この志向は、「非対称的なジェンダー構造によって生じ得る不利益やあらゆる物理的・精神的コストを、異性愛という経路では一切引き受けないという意味を持つ」のであって、その背景として「「社会的弱者」「弱者男性」としての自意識を形成する若年男性層の増加」を挙げる。ここに繋がるのか。

そして、こうした女性たちの非婚宣言を無効化・無力化しようとする男性たちとのフェミニズム戦争の勃発が描かれる。そこでは「女性が性的に積極的であることを「エンパワーメント」と結びつけてきた」先達たちまでも批判の対象となる。

「「男性社会維持のための資源ではない」「男性へのいかなる依存もしない」という女性たちが大挙して登場したことは、既存の「男を選別する女」「経済的に男を利用する女」の表象よりも家父長制にとって脅威」になっている。

そのひとつの帰結として「子どもとの結びつきを強化し、夫やその親族に従属しない形をとった専業主婦像」というのはお国柄の部分を感じはするものの、新書『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』橋迫瑞穂において記述されていた、男性を捨象し母子関係のみに耽溺する女性たちを思い出すし、同世代の女性たちの「結婚したくないけど子どもは欲しい」との所感とも繋がって見えた。

【描き出され、読み解かれるもの】

○二一世紀のラブソングーー現代日本ポップソングの恋愛表象についての一考察 / 中條千晴

本人も駆け足と認めている通り、もう少し具体的な歌詞を読みながら鑑賞したかった。運命論が巡り会った感動から諦めるための対処方針に変容している、重層的な規範が「弱い僕」の表明に繋がる、など。

○映像メディアにおける同性愛表象の現在 / 河野真理江

『おっさんずラブ』や『きのう何食べた?』がセックスを捨象していること、また同性愛でない者が同性愛者を「人間として」好きになる描写に留まることにホモフォビアの根強さを見、『窮鼠はチーズの夢を見る』を一定評価する。

レズビアン作品についても、「彼女」という配信映画を取り上げながら、「百合」や「思春期もの」を超える、サッカー界の「メンズ」文化のようなリアルなレズビアンをキャラクター化した作品が待たれる、とのこと。ステレオタイプを作るなら、リアルに寄せるべきだ、という問題意識と理解。

確かにセックスが捨象された『きのう何食べた?』にベストカップルみたいなラベルをかぶせるのには違和感があったが、異性愛同士でも別に濡れ場の描写は必須でないのであって、その違和感の根源はホモフォビアにあり、作品は視聴者のそうした見たくないものを見ない願望を正しく汲み取って成立していると。

○恋愛を「みせる」こと――恋愛リアリティショーにおけるカップル主義のゆくえ / 田島悠来

恋愛リアリティショーの『今日、好きになりました』と『オオカミシリーズ』を通して、Z世代の自己承認欲求と同調指向が、異性愛カップルの成立だけでなく性別を超えた共同作業や仲間との友情を優先させる姿に現れていると分析している。

これを「恋愛コード」より「友愛コード」を優先し、「純粋な関係性」を模索している、と位置づける。ただそれだけだが、<恋愛>の現在という特集のタイトルにはよくマッチした論考だった。

この論考と松浦氏の論考はいずれも「恋愛コード」(東園子『宝塚・やおい、愛の読み替え』)を引用しており関心を持ったので、原典も購入しました。

○ラブコメの倫理と資本主義の精神 / 日高利泰

タイトル時点でネタ枠感が強い。劇画時代の純愛から80年代の諸星あたるマゾヒズムとあだち充ムフ♡の発明、そして「恋愛関係の進展や成就が阻害され続ける物語類型」へと一般化されるが、現代のタイトルは羅列されるだけで詳細でなかったのが残念。

【未完の〈恋愛論〉】

○ジェンダー平等な恋愛に向けて――大澤真幸の言う「恋愛」はなぜ「不可能」なのかの考察から / 高橋幸

大澤真幸の『恋愛の不可能性について』を批判的に(ボロクソに)検討しながら、不可能性を他者性によって陥るものではなく自己の内的非合理である「選択できなさ」にまつわるものだと捉え直しており面白かった。

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