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"たまたま"をパターンや法則に当て嵌めないほうが良い

人間は、あらゆる事象にパターンや法則を見つけようとする。
それが科学や技術などの発見につながり、文明は進化してきた。

しかし、すべての事象にパターンや法則が存在するとは限らない。
いや、むしろパターンや法則が存在しない事象のほうが多い。

そう、世の中の多くはランダムで曖昧なものばかりである。
この事実を念頭に置いて生きたほうが良いと思う。

日常に起きる出来事に対して「これはこういうパターンがある」と自分が最初にそれに気づいたときの高揚感は理解できなくもないが、実際のところただの偶然が重なっただけだったり、一時的にパターンっぽい状態が続いただけ、と後になって気が付くことはあるだろう。

それは、パターンや法則があるように見えて、”たまたま” そうなっただけというだけの話ということだ。 


 
高齢者介護の仕事をしいても、ただの”たまたま” にパターンや法則があると誤解してしまう場面は多々ある。

例えば、いつも無口で表情険しい利用者が、その日は声掛けに反応してくれたり表情も穏やかだったとする。ふと、その方のお部屋でクラシックが流れていたことに気づく。

そこで「そうか、〇〇さんはクラシックを流せばリラックスしてくれるのか」と発見する。そこで、その方の対応のたびにクラシックを流してみると表情が穏やかになる日が続いた。そこで「これで確定だ」と思うだろう。

しかし、しばらくするとクラシックを流しても以前ように無口で表情険しい状態に戻ってしまった。「あれ、クラシックを流せばいいはずでは」と困惑してしまう・・・・・・なーんてことはよくある。

お分かりだと思うが、人間というのは1つの要素だけで精神状態が変わるということはない。この例の利用者の態度の変化は、たしかにクラシックも一役買っていたかもしれない。

しかし、それ以外の要素が大きく影響していただけかもしれないし、それこそ”たまたま” 利用者の機嫌が良くなっただけかもしれない。

いずれにせよ、精神状態とクラシックに強い相関性があると思い込んで、「クラシックを流せば〇〇さんはリラックスする」というパターンを決めつけてかかってしまったのは失敗だろう。 


 
これは成功パターンだけではない。介護現場ではたまに「自分のときになると〇〇さんは介助に応じない」という話も耳にする。

確かに介護は人間対人間であるが、特定の人間のときになると介助困難になるということは稀である。もちろん、全くないわけでもないし介護の仕事をされた方であれば誰だって少なからずある経験だ。

しかし、「自分のときだけうまくいかない」というのもまた、”たまたま” である可能性がある。

もっと検証すれば、時間帯によって介助に応じないという方は珍しくなく、その時間帯と特定のスタッフの勤務時間帯が重なっているだけということもある。

また、「自分のときだけ」と思い込んでいるスタッフが対応する直前に、別のスタッフの対応が悪かったので、それ以降に対応したときに機嫌が悪くなっているなんてことも珍しくない。

そんな背景を知らないまま介助に入ってうまくいかない、そんな”たまたま” が重なったときを指して「自分のときだけうまくいかない」と決めつけるのは早計だと思っていただきたい。 


 
うまくいったときも、うまくいかなかったときも、私たちはそこに何かしらの要因があると思い込みたくなる。それは成功パターンや失敗法則といった定義をつけたいからに他ならない。

パターンや法則を見つけると嬉しいし、周囲から評価される期待もある。
何より、パターンや法則があると以降の対応が楽になるからだ。

しかし、一見するとパターンや法則があるように見えるが、実のところ”たまたま” であることは多々ある。

もしも、何かしらのパターンや法則に気づいたと思うならば、より広い視点で検証したり、そのパターンが常に幾度も起こりうるのかも試行してみてほしい。

そこまでして、そのパターンや法則らしきものが成立するならば、それはもしかしたら新しい発見かもしれない。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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