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介護サービスは必要性はあるが、それが料金に反映されにくい理由

■ 介護職の賃金と売上の困難性


介護サービスは低賃金と言われている理由として、それは売上という観点から見たときに上限が出てしまいやすいことが考えられる。

と言うのも、介護サービスは介護保険で賄われている事業が多いため、その単価を決める国の采配で売上が決まってしまう。

また、デジタルサービスやモノを提供するわけではなく、サービスを提供する人が利用者(高齢者)のもとに足を運ぶ仕事のため、1人あたりのサービス提供料(生産性)も限界が出てしまう。

もちろん、サービスを提供する人数が多ければ売上は多くなる理屈だし、実際にそれを実現している事業所もあるが、現状としての人手不足が慢性化している現状としては、どこも売上に限界は出てしまう。

売上に限界があるということは、引いては昇給もしにくくなるということである。処遇改善加算を活用しても、この制度は介護サービスの提供量によるため、サービスを提供する人数が固定化されると処遇改善加算も固定化される。つまり、どこかで昇給に限界が出てしまう。

そして昨今のような物価高騰という社会情勢ともなると、介護職は低賃金な仕事と見られてしまうようになる。


■ 必要性が料金に反映されない理由


なんだかネガティブなことばかりだが、本記事では何も介護報酬を決めている国を否定するつもりもなければ、人手不足だから売上に限界が出てしまうという実状を嘆いているわけではない。

何を言いたいのかと言うと、「介護サービスは必要性があるのに、どうして料金単価が上がらないのだろう?」という疑問である。

いわゆる需要と供給によって社会の価格が決まると言う考え方は、多くの人がご存知だと思うが、だとしたら介護サービスはもっと価格が高いとなってもおかしくない。(そして高賃金になるはず!)

しかし、現実はそうではない・・・それはなぜか?

この疑問を考えたとき、1つの考えが浮かんだ。

――「介護サービスを受ける人」と「料金を支払う人」が異なるから。

前者の「介護サービスを受ける人」とは、いわゆる「利用者」である。
介護サービスを受ける必要がある高齢者のことであり、介護サービスを直接受けることになる。

後者の「料金を支払う人」とは、いわゆる「ご家族」である。
自身の親に介護サービスを受けてほしい、あるいは施設に入れることで心身の負担を軽減したい目的がある。つまり、間接的に介護サービスを必要としている。

もちろん、介護サービスを受ける利用者自身が支払いをすることも少なくない。しかし、大抵の場合は支払い管理まで利用者自身ができないため、ご家族が料金の支払いを行うことが多い。(注:あくまで個人的な見立てとして)

これがうまく成立すると、利用者本人もご家族も生活も精神も保たれるが、一方でここで問題が生じる。

それは利用者は介護サービスの価値を直接体感できるが、ご家族は客観的かつ間接的にしか価値を感じることができないということだ。

自分の親のためとは言え、自分が直接体感できないサービスに対して本質的な価値を見出だすことは難しい。つまり、自分が何に料金を払っているのか分からなくなってくるのだ。

もちろん、親の介護を代わりにやってもらうという価値は理解できるものの、介護サービスが継続するにつれて、その料金を払うことに対して不満や苦痛を抱くことだってある。(実際に、そのようなご家族は少なくない)


■ コロナ禍で高値で売れたマスク


少し話がややこしくなってきたので、違う視点でお伝えしたい。

日本でコロナウイルス感染がまん延しはじめたとき、一気にマスクが品切れになった。自作の布マスクなども流行ったが、結局のところ使い捨てマスクが圧倒的に求められた。

開店前のドラッグストアに行列ができたり、インターネット上でも個人販売されたり、マスクなんて一切関係ない業種や店舗でも販売されていた。

そして何より非常に高値だった。
通常価格の10倍以上でも多くの人たちが手を伸ばした。

それは「感染したくない」という強い目的があったからマスクを求めた。
感染予防という社会的な大きなニーズがマスクの値を釣り上げた。

それは大きな価値があれば、値段がバカみたいに高くても、人々はちゃんとお金を出して買うということを証明でもあった。

逆に言えば、価値を感じないものにはお金を出し渋ったり、多少の必要があると思うくらいではお金を出すほどの価値を感じないのだ。

特に世の中を見渡してみると、「安いものほどよい」「コストパフォーマス」なんてことばかり考える傾向にあるため、本当に必要があることであっても、どれだけお金を出しても良いというほどの価値になりにくい。


■ 介護サービスの料金単価を上げるには・・・


介護サービスの価値は大きい。しかし、それが料金に反映されない。

それは社会が介護サービスに対して「そこまでお金を出す価値があるのか?」と腑に落ちていないからに過ぎない。

と言うのも、介護サービスを受けるのは、よほどの資産家は除いて一般の人々だ。自分が求める分のお金を出せない人ばかりだ。

「自分は一人ではオムツ交換ができない! 排泄したらすぐに交換してほしい、料金はいくらでも出すぞ!!」なんていう人ばかりならば、高齢化社会の日本において誰もが介護職になりたいはずだ。

国民が「高齢者のために介護保険料をもっと上げても良い!」と一丸になれるのならば、きっと多くの介護サービス事業所や施設の売上だって多くなる。そうなれば介護職は低賃金なんてならないだろう。

・・・しかし、そうはいかないから料金単価に上限が出てしまう。
それが売上の制限を生み、低賃金な介護職という認識になってしまうのではないか?


――― このような記事を書いているからと言って、別に社会の介護のあり方を非難しているわけではない。

「大きな必要性があること」と「高い料金を出しても良い」と思うことは話が違うということだ。

その顕著な例として、介護サービスというビジネスを挙げたに過ぎない。
介護サービス事業を営んでいる立場として自虐的な内容となったが、だからといってすぐに何かが変わるわけではない。

一方で国が介護報酬を上げるということも考えにくい。そもそも、高齢者数が上がっているということは、社会資源の配分が減るということでもある。

だとしたら、介護サービス事業として、「高い料金を出しても良い」と思ってもらえる独自のビジネス形態を作るしかない。

まあ、それが何なのかは色々と考えて試してはいるが、うまくいかないし、周囲からも同意されないことも多い。(このあたりは愚痴っぽくなるので割愛する)

何はともあれ、必要性と料金が結び付けるような仕組みが重要である。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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