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能登のルーツを巡る旅

私のルーツの一つは、能登半島の先にある。
父方の祖母が能登出身だった。
兄弟の多い祖母は19歳で結婚して、育った家を離れて金沢で暮らし、父は金沢で生まれ育っている。
私が長年金沢の方言だと思ってた祖母の言葉は、今思えば能登由来の言葉だった。力強さや荒さも含めて心地良く、幼少期からたびたび触れていたから懐かしさも伴って今もすごく好きだ。

私の記憶にある初めての能登の思い出は唐突に始まった。
金沢の叔父、つまり父の弟にあたる人が、当時まだ幼かった私と妹を連れてある日急に車で出かけた。
行き先を聞くと「ひいじいちゃんとひいばあちゃんのとこだ」としか言わない。当時はまだ道路が十分に整備されていなくて、なんの特徴もないグネグネと曲がった山道を延々と走り続けた。5分くらいおきに「もう着くの?」「まだぁ?」としつこく聞いていたのを覚えている。それはそうだ。なんの説明もなく突然車で連れ出されて、両親はいなくて、叔父さんの運転で片道数時間もある距離を走ったのだ。
到着したのは、能登半島の先にある鵜飼(うかい)と呼ばれる場所だった。
日用品や駄菓子が並ぶ土間のような薄暗い店に連れられて入り、初めて会う年配の人たちに声をかけられた。ここがどこでどの人が誰なのかさっぱり分からなかった。
店の奥にある小上がりの和室から、敷居の高さギリギリの背丈をしたおじいさんが出てきて「よう来たな」といった声をかけられた。その光景は今も記憶に焼きついている。祖母の父、私にとって曽祖父(ひいおじいちゃん)に当たる人である。

そこからの数日間は、私にとっては訳がわからなかったけどそれなりに楽しかった。
関係性が理解できなくても皆が親族なのでやがて慣れた。商店にある駄菓子をもらえたので、母がいたらダメと叱られそうなお菓子を選んで食べた。ビニール風船に入ったゼリーのような駄菓子はその時初めて体験した。多少のわがままが許されることが分かってくると、レジを触ってみたいと言って「これは商品を買ってお金を入れないと押せないのよ」とおばさんに繰り返し諭されたりもした。彼女もおそらく親族の誰かだ。
私より少し上か下か、同じ年頃の男の子も何人か出入りしていた。
みんなで海遊びをして、海岸でスイカ割りをした。複雑に割れたスイカの欠片が砂浜に落ちて、大笑いしながら海水で洗って口にしたらしょっぱすぎてまたみんなで笑った。
海岸から少し離れたところに島が見えた。周囲が黄土色の断崖絶壁で、頂上に木々が茂る奇妙な形の島だった。
「叔父さんの頭みたい」と子どもたちでからかって遊んだ。
ほとんどの人の名前や関係性はよく分からなかったけど、親族だからというだけでお互い打ち解けて過ごした日々は、幻のようであり現実の出来事として記憶に残っている。
その後、能登へは大人に連れられて2、3度訪れたと記憶している。
最後にひいおじいちゃんを見たのは、小上がりの和室にあるベッドで寝たきりのまま、棒アイスを食べていた姿だった。
私の両親はともに実家から遠く離れた地で暮らしている。核家族で育った私は、寝たきりの老人と数世代の家族が同居して身近にいるという光景は新鮮だった。

やがて成長とともに能登の鵜飼がある場所を地図で知るようになり、位置関係が理解できるようになった。
海辺に行けばあるもの、と認識していた奇妙な島が「見附島」という全国でも珍しい景勝地であることを知った。
しかし遠方で暮らす私たちは父の帰省に合わせて金沢までは定期的に行くものの、能登まで足を伸ばすことは滅多になかった。
金沢へ行く機会は年々減り、能登はさらに遠ざかった。
大人になって信州で暮らし自分で車を運転するようになってからの方が、金沢を訪れる機会が増えたかもしれない。それでも、年老いた金沢の祖母を伴って能登まで行ったのは数えるほどしかない。墓参りをして、商店を営む祖母の実家へ立ち寄り、近くに住む親族に挨拶をして帰る。
鉄道は廃線のためかなり前に能登の先まで行くことはできなくなっていた。その代わり、かつての山道は整備されて車での移動は早くなった。能登が近くなったねと祖母と話しながら走ったのを覚えている。

私は昔から自分のルーツについて強く関心を持つ性格だった。
それは祖父の性格を大きく引き継いでいるのではないかと考える。
祖父は樺太生まれで、本州からの開拓移民がルーツになる。自分のルーツを長い時間をかけてコツコツと辿って各地から戸籍謄本を取り寄せ、ファイリングし、当時珍しかった専用ソフトを使って壮大な家系図を作成していた。その活動に対して、親族の中で特に反応したのが私だった。祖父の元で育ったわけではないので教育や環境ではなく、遺伝的な要素が性格に大きく影響しているように思う。
能登出身の祖母は家系図そのものにはそれほど興味がなかったけれど、戦時中の経験からものを捨てられない性格で、祖父の持ち物は部屋の一角を長年占領していた。祖母なりにどこに何があるか把握していたのかもしれないが、大半は手入れがされないまま埃をかぶり特有の異臭を放っていた。
真面目で几帳面な祖父は、まだまだこれからという年齢で癌を患いこの世を去った。長生きした祖母も認知症となり、いつか改めて見せてもらおうと思っていた資料の多くは在処が分からなくなってしまった。
祖父とは生きているうちにルーツの話を直接たくさんしたかったし、戸籍を綴ったファイルを保管していた祖母から「持っていくが?」と言われたときにもらっておけばよかったと今でも強く後悔している。
祖父母の家にあった大量の荷物は、祖母が他界した後、近くに住む親族が手配した業者によって一切処分された。

能登のルーツを辿る旅は、かなり前から構想していた。
合併して珠洲市の一部になった鵜飼のことは記憶に色濃く残っている。七尾市にも親族があり、お寺にある墓参りに行ったことがある。またルーツとは別に行ってみたい場所も複数あった。輪島は有名な朝市と、日本海にある舳倉島への発着港をこの目で見てみたかった。能登半島の最先端にある禄剛崎(ろっこうざき)は灯台と海に囲まれた絶景も憧れる。景勝地としても有名な白米千枚田も訪れてみたい。
地図を見ながらルートを考え、移動時間を計算し、およそ2泊3日の行程で能登半島を一周する計画を具体的に立てはじめたのは2023年の秋頃だった。
そして、このプランに父を誘ってみた。
金沢出身の父は、高校時代に自転車で数日かけて親戚宅を巡りながら能登半島一周をしたことがあると聞いていた。その再現のような形になれば父にとっても良い思い出になるのではないかな、そう考えた。
七尾市、珠洲市、輪島市、と、ルート説明をしていると、父から驚くような発言が出てきた。
「輪島、昔ちょっとだけ住んどったわ」
「えぇっ!?」
初耳だった。
郵便局に勤めていた祖父の仕事の関係で、父が幼い頃に転勤で輪島に住んでいたことがあるらしい。
そーや、そーや、と何かを思い出しながら遠い目をして頷く父の脳裏には、当時の光景が浮かんでいるのだろう。現地に立って風景を見たら、また新しい思い出に触れられるのではないか。その話を聞きたい、と思った。
私が見附島の見える海岸で砂だらけになって遊んだり、薄暗い商店の棚から好きな駄菓子を選んで食べた記憶と光景がいつまでも忘れられないように、子どもの頃に焼きついた光景は映像として脳裏に焼きついて忘れない。普段は開けない引き出しにしまってあるだけで、きっかけがあれば引き出しが開いて蘇る。
それまで輪島塗と朝市くらいしかイメージがなかった輪島は、父によって解像度が一気に上がった。
東海地方に暮らす父には電車かバスで来てもらい、信州に暮らす私は車で行って、金沢駅で合流しよう。
初日は全国区の知名度を誇る和倉温泉に泊まろうか。加賀屋は高級すぎるから、私たちの予算でも泊まれる宿を探そう。のとじま水族館に行く時間は取れないけど、能登島大橋を渡って能登島の地には立ちたい。砂浜を車で走る千里浜なぎさハイウェイにも降りてみたい。
次々と湧くアイデアを取捨選択しながら、2泊3日に収まるように移動時間を計算して宿泊場所の候補を上げて詳細なスケジュールを組み立てる。
予備日も入れて4日は確保したい。暑すぎず寒すぎない季節で、連休を取れる日はいつだろう。
新しく壁に貼った2024年の年間カレンダーを眺めながら、能登を巡る日が来ることを疑いもせず、旅程を繰り返し構想する日々が年末の間ずっと続いた。

ーーーーーー

私たちは誰もがいつか命の終わりを迎えることを知っている。
建物も街並みも、雄大な自然の風景さえも、いつか変化して移り変わっていく。
でもそれはまだ遠い先のことだと思ってしまう。長い時間をかけてゆっくり変化し、気がついたら新しい風景に囲まれていて、写真や記憶に残るいつかの風景を懐かしむ。
そして自分自身や大切な身近な人たちにとって、最期はきっと穏やかに静かに訪れる。少なくとも、そうであって欲しいと願って生きている。

2024年を迎えた始まりの日に能登半島を襲った地震は、町も暮らしも人生も、大地の形そのものも、一瞬で唐突に大きく変化させてしまった。
わずかな時間で一変した光景と大きな衝撃は今も和らぐことはなく、その多くは取り返しがつかない。
私が思い描いていた呑気な能登のルーツを巡る旅の計画はもう実現不可能になった。
倒壊した親族の家屋、連絡のつかない親族の安否、届いてこない情報。
駆けつけたい衝動と、駆けつけたところで縁遠い自分に何ができるのかという自問自答。
焦燥ばかりで何の役にも立たない。
祖母の実家に残っていた祖母の兄嫁とその息子は商店とともに失われた。幼かった私を能登に連れ出した叔父は、祖母が亡くなった後も定期的に能登まで通って親族に顔を出して墓参りを続けていた。「実家がなくなってしまった」と深く悲しむ言葉が今も響く。

寄付をして、現地に向かう人に支援を託して送り出し、ニュースなどから届く情報と現地の声を聞き、復旧を祈る。
ライフラインと身の回り品が整った自宅で寝て起きることの幸せ。明日の予定や週末の予定を立てられることの幸せ。当たり前に明日があると信じていられる幸せ。
能登のルーツを巡る手がかりはその多くが永久に失われてしまった。
それでも、ルーツを巡る旅はできるのではないだろうか。
形が失われてしまった後で、人の記憶の中だけで失う前のものを取り返すことは難しい。何かの方法で形にして残すしかない。
何ができるか分からないけれど、私にできそうな手段の一つが、ここに書いて記録することだと無性に思えて仕方がない。
能登の地で確かにあった暮らしがこの先も繋がり続けていけるように。

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