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『ユートピア』

朝日が決まった角度に達したタイミングで僕は目を覚ます。
その直後に鳴り出した目覚まし時計の電子音を止めると、身支度を整えて外へ出る。

僕の一日の始まりだ。

住居を出て最初の大通りの角にあるゴミ集積場には、この時間はいつも大きなゴミ収集車が停まっている。
たくましい体付きの若い清掃員が、筋肉質の盛り上がった腕で大きなゴミ袋を軽々と収集車へと積み込んでいくのが見えた。
「やぁ、おはよう」
僕に気付いた青年は、日焼けした爽やかな笑顔を向けてくれる。並びの良い白い歯がキラリと光った。
手渡した小さなゴミ袋が荷台に放り投げられ、あっという間に収集車に飲み込まれた。
「今日も一日、頑張ろう!」
敬礼のように片手をピシっと上げてニッと笑うと、彼は運転席に乗り込み、次の集積場に向かって走り去っていった。

かっこいいなぁ。

実をいうとゴミ収集車の清掃員は小さな頃から憧れだった。
でも僕は小柄で力もなく筋肉のつかない体質だった。
その事実を知ったとき、諦めなければいけない夢に悲しい思いをした。

この世界に生まれたら誰にでも必ず才能や魅力があり、それに適した仕事に巡り合える。

体格に恵まれれば力仕事。
料理の才能があれば飲食店。
そして計算が得意だった僕はその特性を生かして、今はこの街の中心部にある研究所で働いている。

ゴミ収集車の青年に朝のパワーをもらって、僕は職場へと向かった。
通り沿いにあるカフェからはパンとコーヒーのいい香りが漂ってくる。
立ち寄ると奥から出てきた赤いスカーフの女性が「いつものね」と手際よくパンと飲み物を包んだ紙袋を手渡してくれた。
中から感じる焼きたてパンと淹れたてコーヒーの温度を抱えて、僕は再び通勤路を進む。

この街で一番大きな交差点には巨大なモニターが設置されている。
交差点の脇にある公園のベンチに座り、先ほどの紙袋を広げてパンを頬張りながら朝のニュースをチェックするのが僕の日課になっている。

今月末に行われる総裁選の候補者たちが、それぞれの主張を演説をしてる様子が流れていた。
一人は40代後半の目鼻立ちがはっきりとした男性で、幼稚園と老人ホームを運営している団体の理事長だった。
人情家である彼は、幼い子どもたちとお年寄りに囲まれた環境から受けた学びを生かして、誰もが希望と思いやりを持てる国にしたいという志を、時折り感極まって涙声になりながら懸命に伝えてきた。
僕はその演説を聞きながら感激のあまり少し涙ぐんでしまった。
もう一人は、メガネをかけて理知的な空気をまとわせた経済学者だった。
30代という若さでありながら強い意欲を感じさせる彼は、働き方の仕組みを工夫することで経済がさらに効率的に回り、仕事の負担が軽く生活が豊かになることを、根拠となる数値を提示しながら解説していた。
僕は計算が得意だから、彼の主張がいかに合理的かがよく理解できた。
そして僕が共感できたのは、先に出てきた人情家の理事長だった。
感情豊かな演説は心に深く響き、彼の熱意と信念があれば今よりさらに優しさにあふれる良い国になるような気がした。

僕は指導者としての素質はないから総裁選に立候補することはないけれど、彼らのように若くて才能と活力にあふれる指導者が立ち上がってくれることはこの国に暮らす僕たちにとって幸せなことだと思った。

朝食を食べ終わり紙袋を丸めると、ゴミ箱を引いたおじいさんがニコニコと近寄ってきて受け取ってくれた。
人一人が入りそうなほど大きなゴミ箱はタイヤのついたカートになっていて、わずかな力でも簡単に動かすことができる。
彼は集めたゴミを的確に分別して、また公園内の巡回に戻っていった。

交差点を離れて、再び歩き出す。

職場のある通りにはいつも、白髪をきれいにまとめたおばあさんが移動式の花屋を開いている。
「ほら、この花もキレイでしょう」
僕に花を差し出してにっこり笑うおばあさんの歯が白く輝いている。
若者からお年寄りまで、この国では健康的な生活をするための医療が充実しているのだ。
「今日の花言葉は"想像力"よ。頑張って」
僕は花は買わないけれど、色とりどりの花の香りとおばあさんの花言葉を励みにして、職場へと向かう。

この街の中心に位置する研究所は大学と同じ構内にあり、学生と教授と僕のような研究者とが入り混じって学問と労働を共有している。
歴史的でなおかつ近代設備の整った建物、計画的に植えられた花木が織りなす空間は、まさに調和のとれたこの国の象徴だ。

僕は小柄で力もないけれど、得意な計算を生かして交通を円滑に巡回させる研究に取り組んでいる。
この国では誰でも能力や魅力に応じた役割があり、生活に合わせた住居がある。
誰もが生きる意義を持ち、充実した日々を送っていた。


ある日、僕はいつもと同じように職場がある研究室に向かって歩いていた。
ツタが這った白レンガの建物の角を曲がった瞬間、向かい側から出てきた人影とぶつかりそうになって、驚いた僕はひっくり返りそうになってしまった。
とっさにバランスを崩した反動で僕のカバンが相手の抱えていた大きな箱に当たり、中からいくつもの荷物が飛び出して地面に散らばった。

「ああっ、ごめんなさい」
慌てて落ちたものを拾い集めて渡そうと相手を見て、僕の時が止まった。
大きな瞳、長いまつげ、白く細長い指、カールした黒い髪を耳にかける仕草、「あなたも大丈夫ですか」と僕の身を案じる声。
これまでの人生で出会ったことのない美しい女性と、このとき僕は出会ってしまった。

彼女は大学で植物の遺伝子学を研究をしていると話した。
木の根のようなもの、枝のようなもの、値札のようにラベルが貼られ袋分けされた葉のサンプルなど、散らばった荷物を一緒に集めて箱に収めなおした。
お詫びに運びますと手を出そうとする隙もなく、彼女はスラリと立ち上がり、細い腕で大きな箱を軽々と持ち上げた。
そして「それでは」と少し目を細めて僕に会釈をすると、僕の研究所とは反対の方向へ立ち去っていった。

その日以来、僕はすっかり彼女の姿と声が頭から離れなくなってしまった。
またすれ違わないだろうかと、白レンガの角を遅刻するギリギリまで何度も往復してみたりした。
しかし、彼女の姿を見かけることはなかった。

数日が過ぎて、諦めかけて肩を落としながら職場に向かう途中、花屋のおばあさんがいつものように話しかけてきた。
「あら、今日の花言葉は"前進"よ。良いことあるわね」
単純な僕はその言葉に胸がときめいた。

前進、良いことがある、か。
そういえば彼女は植物の研究をしていると言っていた。
そうだ、よし。
僕はこれから、植物学の研究所を目指してみることにした。
長年積み重ねてきた無遅刻無欠勤の記録はこの日で途絶えることになる。

案内板を頼りに大学構内の初めて歩くエリアを進み、果樹園の前を通るとそこには、作業用のエプロンを付けて果物のカゴを抱えた彼女の姿があった。
僕に気付いて笑顔で手を振ってくれるその姿は均等が取れていて、まるで絵画のように美しく、僕の時はまた止まった。
「こんなところまで来てくれたの」
嬉しそうな彼女の表情を見て、来てよかったと心から思った。
果樹園の奥から一人の老人が現れ、「これも持っていきなさい」と数種類の果物を彼女に差し出した。
彼女は「種子から遺伝子を取り出すのよ」と僕にも分かるように説明してくれた。
果物はどれも傷ひとつなくツヤがあり、まるで鏡のように僕の顔が丸く反射している。
「元はバスの運転手をしていてね」老人は懐かしそうに語った。
「季節が変わるたびに実る果実を窓から見るのが楽しみでね、引退後は果物を育てる仕事をしようと思っていたんだよ」

この国では多くの人が、老後に改めて好きな仕事に就く。
僕たちのような労働者が朝から夕方まで働き、一定の年齢になると現役をリタイアして、その後は好きな仕事を負担にならない時間帯に楽しんで働く。
もちろん給与は出るし、生活が保障されているから、気ままで自由なのだ。
子どもが将来の夢を持つように、大人もどんな老後を過ごしたいかを夢見て考える。
職場近くの花屋のおばあさんもそうだし、公園でゴミ箱を引くおじいさんもそうだ。
社会の中で担う役割があるという充足感は誰にとっても幸福なのである。

僕が来たのとは別の方角から、ふくよかな体形の女性がやってきた。
服装から、近くの病院の看護師なのだろうと想像できた。
「やぁ、いらっしゃい」
果樹園で働く老人とは顔見知りのようで、気軽な挨拶を交わしていた。
浮き浮きとリズミカルな手つきで果物を選びながら「私はケーキを焼くのが好きなのよ」とその看護師は語った。
「将来は果物のケーキをたくさん焼いてカフェに仕入れるのが夢なの」
素晴らしい、と素直に感激した。いつかそのケーキを食べる日が僕の夢にもなりそうだ。
植物学者の彼女も幸せそうに笑顔で目を細めていた。


花屋と果物が結んだ縁ですっかり親しくなった僕たちは、その日以来、朝と夕方に時間を合わせて会うようになった。
彼女と並んで歩く帰り道、決まって僕たちはアイスを買って、公園のベンチに並んで座った。

「やーあ、こんにちは!」
よく通る太くてたくましい声が交差点の反対側から聞こえてきた。
毎朝出会うゴミ収集車の青年が、僕たちに向かって挨拶のように手を上げると、集積場から次々と大きなゴミ袋を収集車に回収していった。
力持ちでなければできない仕事だ。
浅黒く日焼けした笑顔に、白い歯がキラリと光って見えた。

「やっぱりかっこいいなぁ」僕は憧れを口にしないではいられなかった。
「子どもの頃の夢は、ゴミ収集車に乗る仕事だったんだ」
小柄な身体を気にしなくなったはずなのに、こうして語ると今でもやはり胸の奥に少しの切なさが宿る。
彼女は「あなたも立派よ」と言って、僕の手をキュッと握ってくれた。
僕に与えられた特技が体格ではなく計算だったことを、この時ほど幸せに感じたことはなかった。

アイスを食べ終わると、大きなゴミ箱を引いた老人がにこにこ笑いながら僕たちの手から空いたカップを受け取ってくれた。
そうだ、老後は力持ちでなくてもできるゴミ集めの仕事をするのはどうだろう。
僕が携わった交通整理システムによって街の渋滞が解消されたように、年を取ったら街の人たちが歩く道や公園を整える役割を担えたら素敵だと思った。


月末に行われた選挙の結果、当選したのは人情家の理事長候補者だった。
満面の笑顔で拍手する支援者たちに向かって彼は溢れる喜びとこれからの取り組みを語った。
そしてふと何かに気付いて壇上から降りると、相手候補者であった経済学者の元に歩み寄って、二人は固い握手を交わした。
彼らは決して敵同士などではなく、この国の未来のためにその人生を捧げようと誓った同志なのだ。

一般放送で流される中継映像を見て、僕は感極まって涙が止まらなくなってしまった。
横にいた植物学者の彼女は僕の肩を抱きながら「良かったね」とずっと寄り添っていてくれた。

この日から、僕たちは一緒に暮らすことになった。

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機器のファンの音、電子音、キーボードを叩く音、空調。

外界の音を完全にシャットダウンしたこの部屋では、わずかな音でも存在感を持っている。
大きな会議室のようなその空間では、10人にも満たない人影がひたすらデータらしきものと向き合っている。
薄暗い照明の代わりに、四方の壁に設置された複数のモニターから流れる映像が室内を照らしていた。

「K75103」
男の低い声が響いた。
正面の壁に設置された大きなモニターに、7歳くらいの男の子とその両親の姿が映し出された。
「入学した学校では知育を伸ばして飛び級をしました。ロボットへの好奇心が高いようです」
短髪の若い男が緊張気味に報告する。

「F48261」
移動式の花屋の前を、小柄な男性とスラリとした女性が仲良く連れ立って歩く姿が映し出された。
「こちらは出会いから今まで順調に進行しています」
眼鏡をかけた髪の長い女性が答えた。

「遺伝的な検証の結果、彼らの間に産まれる子どもが将来このプロジェクトに相応しい頭脳と性質を持つ可能性は極めて高い」

「少数精鋭で運営する我々の後継者にふさわしい人材を探して育成することも、我々の重要な仕事だ」

「産まれる前から管理すれば、確保できる確率はより高くなる」

「将来にわたって世界の勝利者であり続けるために」

まるで社訓を唱えるような台詞を口にして、彼らは決まって一方の壁に目を向ける。
壁に埋め込まれたディスプレイには、世界各地の"国名"と"幸福度"を数値化したデータがランキング形式で並んでいた。
その最も上位にあるのは、この国の名前だった。

「環境が整い、生活が安定していると、幸福度は増す」

壁に並んだ複数のモニターは、それぞれが街の様子を映し出していた。

一般放送のモニターには、選ばれたばかりの新総裁がオープンカーに乗って凱旋パレードをする様子が流れていた。
沿道は期待に満ちた表情で手を振り歓声を上げる人々で埋め尽くされていた。

「自分で選択したという実感も」

ふくよかな看護師が患者の身体を支えながら笑顔で交流している。

「健康であり、将来の夢があることも重要だ」

赤いスカーフをしたカフェの店員に、老人が果物を手渡している。

「こうして国民の幸福度を上げていくことで、我々の成果が世界中に評価され、高い経済力と影響力を維持できるのだ」

終(5388文字)

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