『看板』商店街シリーズ第2話
記憶に残る幼い頃にはすでに周囲から愛想がないって言われていた。
面白くもないのに笑えない性質の私にとって、周りに合わせて笑えだなんてずいぶんと理不尽な要求だったし、笑わないせいで理不尽な待遇、つまりあからさまに無視されたりいじめられたりしたけど、自分でもどうしようもない。
世間一般の基準から外れるとこういう扱いを受けるんだ。そう覚えて大人になった。
特に夢も希望もなく、淡々と暮らせたら十分だった。
就職活動も器用にこなせないまま、高校卒業後のアテもなくぼんやりしていたら、勝手に心配した母親がママ友、つまり私の同級生のお母さんに相談をして、その人が働く喫茶店でアルバイトをすることになった。
喫茶店のある商店街は徒歩で通える。
言われるままに、言われた時間に出勤して、言われた仕事をする。
やりがいを感じるほどの事もなく、相変わらず狭い行動範囲の中で淡々と過ぎる毎日だったが、給与をもらえることが生きている証のような気がして、私にはそれで満足だった。
喫茶店のある商店街の入り口は通学路に面していて、小学生のときから下校時に少し立ち寄るのが日課だった。
それなりに人通りはあるし商店街を抜けて帰る子もいるから、ランドセル姿で一人で歩いていても違和感はない。
よく通っていたのは数軒目にある文房具屋。ちょっとペンの試し書きをしたり消しゴムを物色するのが楽しかった。文房具屋のおじさんは、無言で商品を触る私に干渉することなく、こちらも笑う必要がないので気が楽だった。
新しいスタンプセットが入荷したとき、文房具屋のおじさんが「ここにスタンプ押してよ」って厚手の台紙を持ってきた。白い台紙の中央にはスタンプセットのロゴとキャラクターが印刷されていて、私は周囲の余白に思いつくままに赤いインクのスタンプを押した。
中学になると寄り道は少なくなった。
高校は商店街と反対方向に自転車で通学していたから、商店街に立ち寄ることもわざわざ出かけることもなかった。
喫茶店で働き出したとき、文房具屋も覗いてみた。
すっかり髪が薄くなったおじさんが「帰ってきたんかい」と表情を崩して私に声をかけてくれた。
私は笑い返さないけど、それについて何も言わないところが良い。
スタンプセットはうっすらほこりをかぶって、私がスタンプを押した看板がそのまま飾られていた。赤いインクは色褪せていた。
ゆるやかな変化をしながらゆっくり時間が流れる空間。
建物の2階にある喫茶店の窓を拭きながら、商店街を眺めてそう思う。
毎日、時間ごとに決まった方向に同じ人たちが行き交う。
将来の夢とか希望とか聞かれても何もなくて困ったけど、繰り返す日常を片隅で共有していると、みんな私とそう変わらない気がしてくる。
「窓磨きが好きね」
同級生のお母さんでもある喫茶店の奥さんが私に声をかける。
声の方に体を向けて、でも気のきいた返事ができなくて、会釈をする。
時計を見ると開店時間が近付いていたので、ホウキとチリトリを持って階段を降りた。
ドアを開けてホウキとチリトリを一旦脇に置き、ドアの内側に畳んであるお店の看板を外に出して開いて立てる。店の名前と、解像度の低いコーヒーセットの写真がプリントされている。
周辺の掃除を始めたら、背後でガシャと大きな音がしたので振り返った。
「あ、ごめん、すみません」
看板にぶつかったサラリーマンらしきスーツ姿の男性が慌てた様子で看板に手をかけていた。
体の大きなこの人、見覚えがあった。あぁ、そうだ。じっと見ていたら思い出した。
サラリーマンは看板を元の位置に戻すと、もう一度「すみません」と言って、早足で駅の方向に去っていった。
どのくらい前だったか、肩に大きなリュックを引っ掛けた背の高い男性が、慌てた様子で商店街を駆けていた。人を避けてジグザグに走るうち、壁沿いに並んでとめてあった自転車にリュックが当たった。自転車はバランスを崩して横の別の自転車にもたれかかり、その自転車もまた傾いてさらに横の自転車を押した。
一瞬、あっと気付いて顔を向けた男性は、しかし、よほど急いでいたのかそのまま走り去ってしまった。
その場にいた数人の目撃者は一様に、あ〜、という雰囲気で自転車を見るが、どうしたものかと迷いながらも通り過ぎた。
将棋倒しというほどの大げさな状態でもない。自転車の持ち主が戻って自力で戻すのもそれほど困難ではないように見える。
私も、2階からわざわざ降りなかった。
しばらく後、スーツ姿の太った男性が歩み寄り、倒れかけた自転車を上から順に起こした。
自転車の持ち主かと様子を見ていると、傾いた自転車をすべて立てて、その場を立ち去った。
時間的に、彼はリュックの男性を見ていない。
ただ単に倒れかけた自転車を善意で起こしていったのだ。
そのサラリーマンが商店街を通る時間は、時計の針を合わせたように喫茶店の開店準備と重なっていた。
看板を立ててホウキを持って、商店街の入り口に目をやると、道路の向こう側で横断歩道の押しボタンを押す彼を目撃した。いつも率先して押してそう。想像して心の中で少し微笑んだ。
彼は商店街のどこに立ち寄ることもなく、まっすぐ駅に向かう。
開店後のモーニング、続いてランチタイムのピークを超えて一通りの片付けが完了する15時までが私の勤務時間。
この歳になると文房具屋に用事はないし、靴がすり減るほど歩かないから靴も滅多に買わない。婦人服屋は対象の年代が違う。
大抵はそのまま家に帰る。
玄関には時々見かけるサンダルがあり、リビングからは母親とご近所さんの声が聞こえてきた。廊下を通り、自室に向かう。
「もう少しでいっぱいになるスタンプカード、危うく無くしそうになって」
「よく見つけたじゃない」
「それが、すれ違った男の人が拾ってくれたの。本当に危なかったのよ」
「あら〜男の人が!ステキ〜」
「ステキじゃないわよ、太ってて額の汗が首まで流れてて!」
アッハハと廊下に響く笑い声を聞きながら、あの人かな、と思った。
***
その日、例のサラリーマンは年配の女性を連れて、商店街を駅とは逆方向に歩いていた。
迷子らしきおばあさんを交番に連れて行くのだと察した。
女性が引くカートのタイヤは小さくて、商店街の石畳にいちいち引っかかる。
手助けがもう一人いてカバンを持ってあげたら助かるだろう。頭ではそう考えるけど、ホウキを手にしたまま私の体は動かない。
行動に移すかどうかの分岐点は、簡単かどうかじゃなくて慣れているかどうかだ。
彼のように少しのことに体を動かす習慣が私にもあれば良かった。
商店街を出て右に曲がる2人を見届け、私は2階の喫茶店に戻って窓拭きを再開した。
しばらくすると、駆け足の彼が商店街に戻ってきた。いつもの電車は間に合わないだろう。
彼は、ふと顔を上げてこちらを見ると、驚くことに手を振った。
毎日見ているから分かるが、いつもの彼の動きでこちらを見上げることはない。
明らかに私に向かって手を振ったとしか考えられず、動揺する。窓拭きの手は同じ場所を往復し続けた。
眼下を走り去る彼を目で追う。
太って汗をかいて不器用そうに見えるのに、ああして彼は手を振る動作も何気なくこなしている。
行動は慣れだ。
試しに、小さくなった彼の背中に向かって手をひらひらっと振ってみた。
恥ずかしさに慌てて手を下ろしてエプロンをぎゅっと握った。肩に力が入る。
硬直したまま店内に向き直ると、レジカウンターの中から奥さんが頬杖をついてこちらを見ていた。
様子が変わったのは、その日の午後だった。
ランチの慌しさが一区切り付いて、お客さんがいなくなったテーブルの皿とカップを下げるため重ねていたら、婦人服屋の店主が慌てた様子で店に入ってきた。
喫茶店の奥さんは婦人服屋をカウンターの奥に入れて、厨房のご主人も交えてあれこれ話しているのが漏れ聞こえてきた。昼時は窓の外を見る余裕がないから全く気付いていなかったけど、どうやら商店街で窃盗事件が起きたようだ。
一通り話し終わった婦人服屋は次の訪問先が控えているようで、慌ただしく店を出て行った。
間もなく、今度は警察官と背広を着た男の二人組が入り口のドアベルを鳴らした。
商店街を出てすぐ右側にある交番に駐在する警察官は、私が小学生の頃から顔馴染みになっていた。
「まったく、パトロールで席を離れていた間の出来事なんですよ」
いつも一人で手が回らないと愚痴っていた警察官がアピールする。
おそらく刑事と思われる背広の男は、商店街の防犯カメラに写った怪しい人物の姿をプリントしてきて、目の前に数枚並べた。
「見覚えありますか?」
そのうちの一枚は、明らかに見覚えがある。この体型、このスーツ。
「この走り去っていく男が怪しいと思ってまして」
違う。
「あの」の一言が発声できず、私は口をパクパクさせた。
彼は違う。
「さぁ、分かりませんね」喫茶店の奥さんが返答した。
「何か心当たりがありましたら、こちらまで」背広の男が連絡先を書いた名刺を奥さんに手渡した。
「で、どうなの?」
2人の警察官が帰ったあと、奥さんは私に聞いた。
「ち、違います」
それじゃ分からない、って眉をひそめる奥さんに、その日の朝に私が目撃した出来事を話した。さすが同級生のお母さんだけあって、私のペースに付き合って一通りの話を聞いてくれた。
「じゃあ、その迷子のおばあさん探しね」奥さんはなんだか張り切って立ち上がった。
婦人服店の店長さんも加わって、周囲の聞き込みが始まった。
徒歩で行動できる狭い範囲の出来事だ。手分けをして周囲の家を当たったら、ほどなく年配の女性が訪れている娘の家が見つかった。
彼女たちの話から、交番の若い警察官の容姿が判明し、交番にそのような警察官が実在しないことから犯人の手掛かりにつながった。
もちろん、太ったサラリーマンは無罪放免だ。
その報告を聞いてホッとした。
***
喫茶店の入り口にあるドアベルの音は、慣れると常連さんであれば聞き分けられる。
初めて聞く響きでカランと鳴ったドアベルの音に振り返ってみると、あのサラリーマンが立っていた。
喫茶店に入るのが初めてなのか、落ち着きがなくキョロキョロしている。
メニューを片手に、もう片方の手で誘導するテーブルを指し示し、着席した彼にメニューを手渡した。
相変わらず発声と笑顔は苦手だが、お客さんを迷わせることなく意思を伝えられているので特に注意を受けることはなく、大目に見てもらっている。
階段を2階まで上がっただけなのにもう額に汗を滲ませている彼は、アイスコーヒーを注文して一気に半分くらい飲んだ。
そして、本来の目的であろう、事件の日のことについてお礼を伝えてくれた。
倒れた自転車を直したこと、横断歩道の押しボタンを押しているところ。私は、自分が知る彼の善行を一つ一つ本人に向かって証言した。
刑事さんに話した時は途中で遮られてしまったけれど、彼は時々ストローでアイスコーヒーをすすりながら最後まで聴いてくれた。
「辛気臭いカフェだなんて言って悪かったよ」
彼がポロッと口にした言葉に、そう、と一瞬で共感して彼の顔を凝視した。
私がこの店でいつも感じるモヤッとした感覚を初めてはっきり耳にした。
磨いても磨いても綺麗にならない色付きの窓ガラス。
何となく古臭さを感じるビニールのテーブルカバー。
天井からチェーンで下がる照明も薄暗い上に時代遅れのデザインで、目に触れない傘の上にはホコリが積もっているはずた。
サラリーマンが立ち去った後も、私はこの喫茶店について考え続けた。
こんなに動き出したくてたまらなくなったのは、今まで生きてきた中で初めての経験だった。
何か私にできること。
看板、そうだまずは看板!
文房具屋に入った私を、おじさんがレジの奥から出てきて迎えてくれた。
「あの」
記憶が間違っていなければ、文房具屋で始めて発した言葉になる。
「黒板と、チョーク、ありますか?」
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