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『瀬戸内の人魚』

その日、曇天の瀬戸内海はいつもより波が立っていた。

収穫物の出荷を終えて、空になった背負子を担いで浜沿いの道を歩いていた男は、浜辺にうずくまる影に気付いた。
犬か獣かと草をかき分けて覗いてみると、それはどうやら人のようだ。

ーー具合でも悪くなったか。

土手を降りて近寄ると、その足音に気付いた人影が顔を男の方に向けた。

それは、まだあどけなさの残る若い娘だった。
細く白い顔に、心細げな眼をしている。
寒いのか両腕を交差して肩を抱き、短い着物の裾から伸びた細い足は、小刻みに震えているように見えた。

「どうしたんか」
男は声をかけた。
不安げな表情のまま、娘は男の顔を伺っている。
海から上がってきたのだろうか。海藻のように黒くしっとり湿った髪の先からは水が滴っていた。
「布か何か、拭くもん持ってきよるけん、ちょっと待っとれ」
その声に、娘は頼りなげに小さく頷いた。

男は大急ぎで自分の畑に走った。そこには農繁期に寝泊まりする納屋がある。
軒下に背負子を置き、建て付けの悪い戸を力ずくで開けて中に入る。
布団代わりに使っていた大判の布をちょうど洗ったところで、小屋の中に渡した縄に干してあった。
その布を取り両手でくるくると丸めて抱きかかえ、駆け足で浜辺に戻った。

浜辺の同じ場所に変わらずうずくまっている娘の姿を見つけて、男は安堵した。
近付くと布を広げ、娘の体を包み込むように覆った。
冷えきった白い頬に、少し赤みがさしたように見えた。

「どっちから来よった」
訪ねてみると、娘は細い指で海を差した。
そして「泳いできた」と、か細い声で答えた。
本当か、と沖を見る。
瀬戸内の海に横たわる島々が見える。
確かに、泳ぎが達者であれば沖の島から海を渡ってくることも不可能ではない。
しかしこの波の中を、着物姿の娘が一人で。
もしかしたら乗ってきた舟が難破でもしたかと周囲を見渡すが、それらしい形跡はない。

「波が高いけん、よう戻らん」
娘が言った。

日が傾き周囲は薄暗くなってきて、空は怪しげな雲が厚さを増して広がっている。
とりあえず今はどこか風雨をしのげる場所で休ませるのがよいと考えた。

「立ってみるか」
男の問いかけに娘は頷いて、身を起こそうとする。
浜の砂地に小さな足がすくわれ、バランスを崩してよろめいた。
それまで手を出すのを躊躇していた男は、とっさに娘の体を受け止めた。

ーーどこの娘さんか分からんけん。

娘の体に直接触れぬよう最大限の気を配りながら、男は大きな布ごと娘を抱え上げた。
「すまんな、小屋までの辛抱じゃけん」
娘は首を横に振った。

浜から土手に上がろうとするとき、娘が海の方を振り返った。
男は立ち止まり、そのまま、抱きかかえた娘と同じ海の方角をしばらく眺めた。
波は先ほどより高くなり、薄暗い空気に島々はかすんでいる。
やがて娘は顔を伏せ、男は歩き出した。

ひとまず、男は納屋へと娘を運んだ。
収穫期を過ぎた今なら、人も寄らない。

***

海に面したこの小さな集落で、婚期を逃した男は老いた父と二人で畑を耕しながら暮らしていた。
豊かとは言えないが、食うに困ることもない。

男は粥と簡素な煮物と漬物を用意し、納屋へと運んだ。
おぼつかない手つきで食べ物を口に運ぶ娘を見て、どうやら人であることは間違いないと安堵した。


その後、娘は納屋に居ついた。
どこから来たのか、里はどこか、家族はいるのか。
いくら聞いても娘は一切答えようとしなかった。
責任を持って送り返すと言っても、頑として口を閉ざしたままだ。
どこかで消息不明の娘の噂がないかと役場に問い合わせ、海を行き来する漁師にも尋ねたが、該当するような情報はなかった。

やがて娘は納屋の外に時々顔を出すようになり、収穫物の取り入れや農機具の片付けを手伝い始めた。
土も耕すと鍬を持ち出したので、細い手に重い鍬は無理じゃと取り上げると、しぶしぶ鎌を手にして草刈りをした。
針と糸を与えてみると、繕い物を覚えて引き受けた。

狭い集落のことだ。
男の納屋に居候している若い娘の噂はすぐに広まった。

素性の分からない娘をいつまでも置いておくのはやはり問題だと男は考えた。
「嫁入り前の娘が男所帯におったらいけん」と諭すと、今度は「嫁入りする」と言い出した。
どう見ても15、6の少女にしか見えない娘は、成人していると言い張った。
何としてもここを去りたくないのか、あるいは戻るわけにはいかない事情でもあるのか。

それどころか、四十路を超えた男にこんな若い嫁が来るとなると、周囲にどう思われるか。

しかし男の心配は杞憂だった。
質素で控え目で働き者の娘を、集落の人々は好意をもって受け入れた。
交通の便の悪いこの地域では過疎が進み、中には跡取りを戦争に取られた家もあった。
先細る不安に包まれた集落の空気が、若い嫁の話題で一気に晴れたようだった。


嫁の来るあてもなかった集落一無骨な男は、五十を超える頃には4人の子を持つ父となった。

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瀬戸内海に面したこの小さな浜は、今では小さな海水浴場になっていて、近隣の家族連れで賑わう。
俺は浜に立って、海の方面を眺めた。
娘が発見されたと言い伝えられるこの場所からは、いくつもの小さな島々が重なり合って見える。

今では伝説のように語られる、海を泳いでやってきた娘の逸話。

身内のことながら、遠い昔のおとぎ話のような出来事で、俺は幼い頃から魅了されてきた。
俺の祖母にあたるその女性は身体が弱く、嫁入りした歳を二十として数えても、四十の歳まで生きることはできなかったと聞く。
その素性は最後まで明かされることはなかった。

一方、じいちゃんは足腰も丈夫で長命だった。
100歳近くなってもまだ農作業に出かけていた姿をおぼろげながら記憶している。
実家の居間には、幼い俺を抱えるじいちゃんと、それを囲む大勢のいとこ達の写真が大きく飾られている。
あの日、浜辺の出会いがなければ、このような一族の繁栄はなかった。

浜に上がった娘は、もしかしたら人外の存在だったのではないか。
例えば人魚のような。
短命だったことは、陸上での生活が体質に合わなかったとも考えられる。
浜から救い上げられた日を最後に、彼女は二度と海に近づくことはなかったそうだ。
最後に向けた眼差しは海への決別だったのではないか。

突拍子もないその発想を人に話すことはないが、泳ぎが達者な親族が多いことも、その説を裏付けているように思える。


「お父ちゃん」

海から上がった娘が、走り寄ってきて俺の腕に小さな手を絡ませてくる。
この末娘は特に泳ぎが得意で、まるで陸地を駆け回るように水の中を自在に泳ぎ回ることができた。

俺が眺めていた海の向こうを指差して、末娘が言った。
「あの島まで泳いでみたい」
そして俺を見上げて「いけるかな」と期待を含んだ笑顔を向けてきた。

不意に、彼女がそのまま島々の、そのまた先の陸地まで泳ぎ去ってしまうような不安に襲われた。

「なにをいうか」

思わず俺は、末娘の小さな手を握って引き寄せた。
細くて冷たい指の感触がした。

***

中学に上がると末娘は水泳部に入り、またたく間に成績を上げてエースとなり、県の強化選手に選ばれた。

全国大会の日。
緊張の面持ちで入場してくる選手たちに混じって、彼女はリラックスした表情で肩をほぐしながら入ってきた。
観客席にちらりと目を向け、俺たち家族に気付くとちょっぴり笑って小さく手を振った。

そして、こちらに背を向けてスタート地点に立った。

スタートの合図と共に水しぶきが高く上がり、彼女はあっという間にプールの対岸へ向かって泳ぎ去っていった。

終(3401文字)

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【あとがき】

第16回坊っちゃん文学賞の応募作品です。
愛媛県が舞台です。

創作話も良かったらご覧ください。


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