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話は信用しない。

レッスンでのことです。
生徒の話をどう聞いているか。

これは感覚について。
感覚は人それぞれで
どう感じたのかが違っています。
違っている上にどう言葉にするかも違います。


色についてのことなら、
わたしが見ている赤と
あなたが見ている赤が
同じであるかどうかは確かめられない。

人それぞれであっても
これが赤という決まったものを
それぞれが見ているはずなので
会話は成立します。

感覚についてはどうでしょう。

痛みならなんとなくわかります。
何かにぶつかった時に、なんとも言えない感覚がある。
みんながぶつかった時にも言っている。
これが痛いということかとわかって、
次からはその感覚が起こった時には
痛いと言うことができるようになります。


なんだか軽くなりました。とか。
なんだか後ろに行った気がします。とか。
これはどうでしょう。

どこか身体の部分に
重みをかけるようなことをしていたのなら、
それをやめると軽く感じるし、
前のめりになっていたら
真ん中に行ったとしても、
後ろにいったと感じるんです。

感覚についてはそうとしか言えない。

良くなりました。
と言われても、レッスンでは
そうなんですねー、と聞くだけにしています。

その人にとって本当のことに思えても
その感覚は間違っているかもしれないからです。

レッスンを続けていると
自分が感じているか
なんてことは気にしなくなります。
(それでも、ラクになった!、と言っちゃうことありますが)


真ん中にいるのに、
後ろにいると感じるんですよ。
それは信用できないものです。


レッスンを続けていると
自分が感じているか
なんてことは気にしなくなります。
(それでも、ラクになった!、と言っちゃうことありますが)


タイトルはきつめですが、
話を全て聞き流すというわけではありません。

後々わかるのを待っている、
そんな感じです。


わたしも師匠にずっと
わかります、わかりますと言ってきました。

今思い返すとぜんぜんっっっっ!
わかっていませんでした。

でも、そんなもんなんですよね。

レッスンで少しづつわかってくるようになります。
本当に少しづつでいいんですよ。

ぱーーっと世界が広がる!
なんて憧れますけど、ないです。
そんなことはたぶん起こりません。


知らない、わからない。
そこから始めましょ。

知っている、わかっている。
そう思っていることからは
次に進めないかもしれませんから。

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