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時間論1~3再考/紺野境さんのコメントに触発されて(後編)

紺野境 https://note.com/kyo_konno さんからいただいたコメントを導き手にして、異なる人間の間で《個人時間》がシンクロナイズする可能性について考えるエッセイの後半です。いよいよ本題に入ります。

(前編)はこちら


1.前提の整理

 
 はじめに、(前編)で採り上げた考え方の中で、これからの論考の前提となるものを整理しておきます。

1-1.時間とは

 まず、時計という時間を計る機械がなくても時間は経過するので、時間とは状態の変化であると考えます。そして、時間を、次の3つに分けます。

*《時間》=時計で計時されるようになる前の時間
*「時間」=時計で計時される時間
* 時間=時間の本質


1-2.時間の”入れ子構造”

 時間は、次の4種類の時間の ‶入れ子構造” になっています。

A:《個人時間》
”体内時計”が産み出す、個人に固有の状態変化
/無意識のうちに進行する

B:《共同体の時間》

個人同士が協力して行動するときにお互いのタイミングを合わせるための  ‶お約束”として設定される⦅時間⦆/共同体の生産活動の「切れ目」として認識される

c:《市場時間⦆
様々な共同体の間で交易関係がある時に、お互いのタイミングを合わせるための‶お約束”として設定される⦅時間⦆ /太陽活動の変化から導き出した月日として認識される

D:「人・機械時間」
近代工業社会において、人間の労働と機械とのタイミングを合わせるための ‶お約束”としての「時間」/時計で計られ、時計を見ることで認識される

 ‶お約束”としての⦅時間⦆/「時間」は、個人・共同体みずからの状態変化とは関係なく、他の個人・共同体、あるいは機械とタイミングを合わせるための時間ですから、個人と共同体にとって、自らの外側にある時間と考えられます。

これで、前提の整理が終わりました。次に、紺野さんが提起してくださった論点について見ていきます。
 
 まず、紺野さんが『時間論3』に寄せてくださり、私に《個人時間》の存在に気づかせてくださったコメントを引用します。

元々作物や太陽の都合に人間側が合わせていたこと、自分たちが整備したはずの現在そして未来のテクノロジー《時間》にさえ受動的にならざるを得ないのは皮肉な感じです。
《時間》という高次なものへ能動的になるのはやはり困難なことなのでしょうか。
人間の《時間》認識は変化する(例えば、楽しいことをしていると「時間」[《時間》]は早く過ぎ去り、嫌な行為は長く感じる、など)と言いますから、意識の在り方がヒントになるような気もしますが……。

ここで紺野さんが人間の《時間》と書いていらしたのは、「1.前提の整理」での《個人時間》に相当するものであることを、紺野さんからご確認いただきました。そのコメントが次のものです。

「人間個人(個体としての人間)」の時間を考えたという認識で間違いありません。
変更後の『時間論1』の論考はそれを包含したものになっており、再度楠瀬さんの考えが明確になりました。

『時間論1』の論考が「人間個人の時間を包含したものになっており」は、次の一節に言及いただいたものだと考えます。

『時間論1』での論考を、私は、次のように展開すべきだったのです。

生物としての人間個体は、一人ひとりが異なる時間を生きている。言い換えると、個々の人間の状態は、それぞれに固有の仕方で変化している。 
そういう人間同士が協力し合って生活していくためには、お互いの行動のタイミングを合わせる媒体が必要になる。時計がなかった時代には、それは、共同体の生産手段と一体になった活動の切れ目だった。

上記の他にも、示唆に富んだコメントを頂戴しているのですが、ここでの本題とは別のテーマとなるので、この場では割愛し、このエッセイの最後に引用させていただきます。

3.《個人時間》のシンクロナイゼーション


 《共同体時間》は、個人間の ‶お約束” としての⦅時間⦆であり、個人の外側にある時間です。したがって、それは、他人の動作を見たり、他人から言葉をかけられたりして認識するものです。
 『時間論2』の《牛村》を例に取ると、隣人が成牛を牧草地に連れ出すのを見て、自分は子牛に飼葉を与える《時間》が来たと認識したり、家の中でぼやっとしているところに隣人から「牛を連れ出すぞ」と声をかけられて、自分も隣人と一緒に牛を連れ出す《時間》になったと認識したりするわけです。
 《自分の外側からきた情報の認知⇒時間の認識⇒行動の開始》という構図になっているのです。

 ところが、人間は、自分の外側からの情報に依存せずとも自分の行動を開始することが出来るようなのです。それが、次の論考が取り上げているマイクロインタラクションです。

私が重要と考えるポイントを抜粋します。

机を運ぶときのように、誰かと共同作業を開始するときことばによって動作の内容を意味づけるのでは追いつかない。「いまわたしはまさに持ち上げようとしているところです」などと悠長なことを言っている間に、わたしは肝心の持ち上げのタイミングを逸してしまうだろう。

 牛を牧草地に連れ出す共同作業なら、隣人から「行くぞ」と声をかけられて、「あぁ、そうだった」と思い出しても間に合う。しかし、隣人と一緒に机を運ぶときに、そんな呑気なことはしていられない。そういうことです。

 では、どうやって二人は動作のタイミングを合わせるか? また、記事から抜粋します。

いちいちことばで意味づけるよりも早い方法がある。実際に持ち上げる、ということだ。わざわざそれをことばにせずとも、実際にやってしまえばよい。何かをしようとする動作が、そのまま、その動作がいままさに行われようとしていることを相手に伝えることになる。これがマイクロインタラクションの大きな特徴である。

 2人のうち一方が動作を起こす。すると、それがもう一人にとって動作を起こすサインになる。この時、2人の間で言葉が交わされていないのは上の抜粋にあるとおりです。
 では、相手が動作を起こすのを見て、それに合わせて動作を起こしているのでしょうか? みなさんが誰かと一緒に机を運んだときのことを思い出してみてください。一々、相手の動作を目で見て確認していましたか? 

 私が思い出す限りでは、周りに障害物がある等で慎重な動作が求められるとき以外は、相手の手の動きを自分の手が直接感じ取って自然に動作を協調させていた感じがするのです。つまり、相手の動きと私の動きはシンクロナイズ(同調)していた。

2人で一緒に机を運ぶ


 2人の人間が動作をシンクロナイズ(同調)できるのが事実だとしたら、その場面で、二人の《個人時間》はどうなっているでしょう? 


動作は身体の状態の変化です。

私が用いている時間の定義では、状態の変化が時間です。

ということは、2人の動作(=状態の変化)がシンクロナイズ(同調)して

いる状態では、2人の《個人時間》もシンクロナイズ(同調)している

とは考えられないでしょうか?


あなたと私の《個人時間》がシンクロナイズできることが事実だとします。

すると、あなたの⦅個人時間⦆とシンクロナイズしている私の《個人時間》

は、私の内側と外側、どちらにある⦅時間⦆なのでしょう?

 あなたという相手があって初めてシンクロナイゼーションが起こるという意味では、外側にある⦅時間⦆です。しかし、私の状態変化であるという意味では私の内側にある⦅時間⦆です。つまり、

 
2人の人間の動作がシンクロナイズしている状態では、一人ひとりの

《個人時間》は、その人間の外側の⦅時間⦆であると同時に外側の《時間》

でもあるという両義性を持つのです。


4.《個人時間》のシンクロナイゼーションの実例


 上で考えたことを踏まえて私たちの周りを見回すと、実は、《個人時間》同士がシンクロナイズしている状態というのは、決て珍しいものではないことに気づきます。

 たとえば、ダンス。社交ダンス、フィギュア・スケートのペア、アイスダンス―—これらの競技では、ペアを組んでいる二人の《個人時間》がシンクロナイズすることで素晴らしいパフォーマンスが生まれるのではないでしょうか?

 私たちは、そういう状態を表現する素敵な言葉を持っています。「息が合う」という言葉です。「息=呼吸」です。私たちの生命維持に必須の状態変化です。その変化が相手と合う(=シンクロナイズする)のです。《個人時間》がシンクロナイズしている状態をこれほど的確に表現する言葉があるでしょうか?

 ここまで、2人の人間の⦅個人時間⦆がシンクロナイズすることを述べてきましたが、2人に限らず、もっと多くの人間の間でも《個人時間》をシンクロさせることが出来るような気がします
 神事や祭礼には舞踏がつきものです。そうした舞踏には、その場に集った人々の《個人時間》をシンクロナイズさせる役割があるのではないでしょうか?
 シャーマン(巫女)がトランス状態になると同時に周囲の人間も一緒にトランス状態になったりするのも、⦅個人時間⦆のシンクロナイゼーションなのかもしれません。

 紺野さんからいただいたコメントがきっかけで、こんなところまで考察を広げることができました。これが、note に投稿することの一つの醍醐味かもしれないですね

 noteは表現媒体としては基本的にオープン・アーキテクチャだと思うので、どんどん意見交換してアイディアを広げていけると楽しいと思うのです。
 
 しかし、これが、現実には、なかなか難しい。というのも、私たちは、みな、他の人から非難されたり批判されたくないと思っているからです。「私たち」と勝手に一般化してしまいました、ごめんなさい。私は、他の方から批難・批判されることを恐れています

 一方で、自分は相手を非難したり批判したりしたつもりはないのに、相手からそのように思われてしまうことがある。これもまた、恐い

 ということで、現実の私は、自閉的に自分が言いたいことを一方的に発信し続けています。しかし、今回

紺野さんから示唆に富んだコメントをいただき、その上、こういう形で紺野

さんのコメントを引用しながら記事を書くことをお許しいただいたので、

思い切ってコラボ的なものを試してみました。

このような機会を与えてくださった紺野さんに、心からお礼を申し上げ

ます。本当に、ありがとうございました。


5.紺野さんの深い洞察を示す他のコメント

 
 紺野さんからは、《個人時間》のシンクロナイゼーションという今回のテーマとは別の観点でも、貴重なコメントを頂戴しているので、それをご紹介して、この記事の締めくくりとしたいと思います。

【外側にある「時間」】の内在化、なるほど! と思いました。
これを僕たちは学校に通う中で進行させていくわけですね。
そして変化とイレギュラーの過多な現代はもう一度「時間」の外在化が進んでいるようにも思います。

(前編)を書いた時には、私が十分に理解できていなかったコメントですが、紺野さんから、次のコメントをいただいて、なるほどと納得しました。

ところで、僕が『時間論2』のコメントで書いた
「変化とイレギュラーの過多な現代はもう一度「時間」の外在化が進んでいるようにも思います」
ですが、これは
一度教育などによって内在化した時計の司る「時間」が、現代の高度情報社会でますます加速する世の中の変化によって、その内在化たる「慣れ」を拒否してしまう。その結果、外在化せざるを得なくなっているのではないか、ということでした。
これは個人レベルの「時間」ばかりでなく、共同体レベルの「時間」にすら及んでいると思うのです。

 これは、極めて現代的で、かつ重要な指摘です。私たちが家庭と学校での教育を通して《内在化=元々は自分の外側にあったものを内側に取り込む》してきたのは、近代工業社会の「機械の時間」です。
 高度情報社会になったことで、「機械の時間」では、現実の変化に追いついていけなくなる可能性が生じてきたということです。

 この点については、また稿を改めて論じてみたいと思います。

 この記事、または『時間論』について、ご意見、ご異論等、是非お寄せください。私の興味関心と理解力には限りがあるので、いただいたコメントすべてを考察の契機にすることは出来ないと思います。そのことは、初めにお詫びしておかなければなりません。
 
 ですが、今回のように、いただいたコメントがきっかけになって新しいテーマが開けることが、これからもあり得ると思っています。よろしくお願いいたします。
 
 それと、今になって気づいたのですが、この記事をまだ書き終えていない状態で公開していしまっていました。未完成のまとまらない記事を提供してしまったことをお詫び申し上げます。また、それにも関わらず、お読みくださり、「いいね」をくださった方に心からお礼申し上げます。ありがとうございました。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


『時間論1~3再考/紺野境さんのコメントに触発されて(後編)』おわり



 


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