時間論1~3再考/紺野境さんのコメントに触発されて(前編)
これから2回にわたって、紺野境 https://note.com/kyo_konno さんからいただいたコメントを導き手にして、人と人の間で時間がシンクロする可能性について考えていきたいと思います。紺野さんは私が見落としていた重要な事柄に気づかせてくださり、そこから新しい視点を得ることができて、この記事につながっています。紺野さんに心から感謝いたします。
今回、この記事を書きやすく・読んでいただきやすいものにするため、私が以前に投稿した、時間に関する3つの記事のタイトルをつけ直しました。
表の中で「時間」と表記しているのは時計で計時される時間で、《時間》は時計が普及する前の時間です。⦅ 》も「 」もつかない 時間 は、「時間」でもあり《時間》でもあるもの、つまり、時間の本質です。
*《時間》=時計で計時されるようになる前の時間
*「時間」=時計で計時される時間
* 時間=時間の本質
1.『時間論1』と紺野さんコメント
『時間論1』はこちら
私たちにとって、時間とは時計で計るもの、時計を見て知るものですが、人類20万年の歴史の中で時計が存在したのは、12世紀末以降のわずか700年間に過ぎません。
「では、時計がなかった時代の時間、つまり⦅時間⦆とは、人間にとってどのようなものだったのだろう?」というのが、『時間論1:時計がなかったら、時間とは何なのだろう』のテーマでした。そして、
《時間》とは、牧畜、農業などの生産手段を共有している共同体が、その生産手段に必要な活動の種類ごとに区切るもの
というのが、私の結論でした。
この時の私には、共同体を構成する個々の人間にとっての《時間》は全くの関心外でした。私は、こんなことを平気で書いています。
私は、乱暴にも、個人の《時間》=《共同体の時間》と考えていたのです。
一方、紺野さんは『時間論3』に、次のコメントを寄せてくださいました。行間を詰めさせていただきました。また、太字部は、私が太字化したものです。
ここで、紺野さんは、人間個人(個体としての人間)を頭に置いていらっしゃるのだと考えます。紺野さん、間違っていたらご指摘くださいね。
この紺野さんのコメントを読んで、私は、ハタと思い出したのです。人間には「体内時計」があって、それは一人一人、異なっている。それも、遺伝的にそのようになっている。そのことが科学的に証明されているのに、それを私は完全に失念して『時間論1』を書いてしまったのです。
『時間論1』での論考を、私は、次のように展開すべきだったのです。
生物としての人間個体は、一人ひとりが異なる時間を生きている。言い換えると、個々の人間の状態は、それぞれに固有の仕方で変化している。
そういう人間同士が協力し合って生活していくためには、お互いの行動のタイミングを合わせる媒体が必要になる。時計がなかった時代には、それは、共同体の生産手段と一体になった活動の切れ目だった。
人間一人ひとりが生きている時間は、体内時計という言葉がいみじくも物語っているように、その人間の心身の【内側にある《時間》】です。それに対して、共同体の時間は、個人にとっては【外側にある《時間》】です。、
この【内側にある《時間》】と【外側にある⦅時間⦆】という区別は『時間論2』のテーマなのですが、『時間論2』でも、私は、共同体を構成する個々の人間の《時間》を無視して、共同体にとって【外側にある⦅時間⦆】だけを論じています。
この『時間論2』を振りかえる前に、紺野さんから『時間論1』に頂戴したコメントを紹介します。行間は詰めさせていただきました。太字部は、私が太字化したものです。
私は、時間は物理学の最も重要なテーマのひとつだと思っています。時間について論ずる以上、物理学の時間論にも触れたかったのですが、私はベタ文系で物理はまるでダメなので諦めたのです。
正直ひやひやものだったのですが、紺野さんのコメントを読んで、少なくとも物理学によって全否定されることはなさそうだと、胸をなでおろしました。紺野さん、ありがとうございました。
では、『時間論2』に話を進めたいと思います。
2.『時間論2』と紺野さんコメント
『時間論2』はこちら
ここでは、まず、紺野さんのコメントから入りたいと思います。
私が太字化させていただいた部分のうち前半は、近代工業社会における学校、特に義務教育の本質を的確に突いた素晴らしい洞察です。
職場で、私たちは時計が計時する「時間」に従って働くことを求められます。その「時間」は、私たち個々の「体内時計」が刻んでいるものではないから、私たちの【外側にある「時間」】です。
この【外側にある《時間》】に合わせて働くことは人間にとって自然な働きかたではないことを、酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』が指摘しています。
生来の仕事のリズムとは違ったリズムで人を働かせるためには、必要なリズムを教え込む必要があります。酒井は、近代工業社会での働き方の特徴を「時間指向」と名付け、次のように説明します。
この、”時計によって計測された抽象的な時間を媒介とする身体や生活の規律” を教える場が、紺野さんがご指摘のとおり、学校なのです。
労働者として必要な「時間」感覚を身に着けるための労働者予備校が学校なのです。産業革命で先行した国で義務教育制度が整っているのは、公共の福祉のためだけでなく、近代工業社会を成り立たせるためでもあったのです。
紺野さんのコメントのうち後半部分は、私が理解できていないので、機会を改めて、紺野さんと意見交換したいと思っています。
『時間論2』について、このエッセイの中でみなさんに理解しておいていただきたい内容は以上で尽くされているのですが、【内側にある《時間》】、【外側にある《時間》】という概念を理解するための参考までに、次の図表を挿入しておきます。
この図表は『時間論1』をベースに作ったので、個人の時間が抜けています。《牛時間》《小麦時間》のさらに内側に《個人時間》があるものとしてご覧ください。
3.『時間論3』と紺野さんコメント
『時間論3』はこちら
『時間論3』に紺野さんが寄せてくださったコメントは、先に『時間論1』を振り返った際に、触れました。
『時価論3』は、『時間論2』の【内側にある《時間》】、【外側にある《時間》】という概念を近代工業社会での働き方に当てはめて論じたもので、その骨子は、『時間論2』への紺野さんのコメントについて考察する中で触れました。このエッセイの目的に照らすかぎりでは、『時間3』について、これ以上に踏み込んで振り返る必要はないと考えています。
もし、近代工業社会と「時間」の関係について興味がおありであれば、『時間論3』とこちらの記事を併せて読んでいただくと、両者の関係がより明確になってくるかと思います。
さて、(前編)はここまでとし、次回、(後編)で、いよいよ、個人間の《時間》のシンクロについて考えていきたいと思います。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
『時間論1~3再考/紺野境さんのコメントに触発されて(前編)』おわり
(後編)はこちら:
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