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時間論2:【内側にある《時間》】・【外側にある《時間》】

時計がなかった時代には、生産活動の区切りが《時間》を構成していました。それは、人々にとって自分たちの活動そのものですから意識する必要のない時間という意味で【内側にある《時間》】です。異なる生産活動をしている人たちと物々交換するようになって、初めて、人々は自分たちの【外側にある《時間》】を意識することになります。

 このエッセイは、10月23日に投稿した『時計がなかったら、時間とは何なのだろう?」の続きです。先のエッセイで、私は時間を次の二つに区分しました。このエッセイでも、同じ区分と表記の仕方を用います。

※「時間」=時計がある世界での時間
※《時間》=時計がない世界での時間


1.《牛時間》と《小麦時間》

 
 前回のエッセイで、牛を飼って生活しているスーダンのヌアー族にとっては牧畜に必要な色々な作業の区切りが《時間》の区切りになっていることと、江戸時代の農村社会では共同体全体の時間が生産や人々の生活を強く支配していたことを見ました。

 ここで、江戸時代よりもずっと昔の古代の世界を想像してみたいと思います。今、想像と言いましたが、私は人類学者でも歴史学者でもないので、時間について考察する上で、確かな証拠に基づいて論じることができません。
 
 社会学者である 真木 悠介 氏の著書『時間の比較社会学』から多くのヒントを得ていますが、私の考察はすべて《私が、その時代に生きた人間だったらこう思い、こう考え、こう行動するだろう》という想像に基づくものです。

 古代に、牛を飼って暮らしている村小麦を栽培して暮らしている村があったと想定します。前者を《牛村》、後者を《小麦村》と呼ぶことにします。
 《牛村》の人たちにとっての《時間》は、牧畜に必要な活動の区切りです。これを《牛時間》とします。《小麦村》の人たちにとっての《時間》は、小麦栽培に必要な活動の区切りなので、これを《小麦時間》とします。
 
 この2つの村の住民が出会う機会があって、お互いの生産物を物々交換しようという話になったとします。チーズと小麦粉の交換というようなことが想像できます。
 初めは相手の村まで出向いて交換をして帰ってきたかもしれませんが、これは二つの意味で不便です。第一に、相手の生産活動を邪魔するタイミングで行ってしまうことが起こる。第二に、道のりが遠い。

 そこで、二つの村の中間地点で落ち合って物々交換しようということになります。場所を決めるのは簡単です。
 しかし、《いつ、落ち合うか?》は、それほど簡単ではありません。《牛時間》と《小麦時間》が違うからです。《牛村》の人から「仔牛たちが戻ってくる《時間》に山のふもと落ち合おう」と言われても、《小麦村》の住民はチンプンカンプンなわけです。


2.《牛・小麦時間》の誕生


 ところが、《牛時間》と《小麦時間》には共通の要素もあります。それは、どちらも太陽の位置に影響されていることです。人間も動物も太陽の動きと連動してホルモン分泌を変える体内時計を備えているので、太陽の動きが活動を規定するのです。

 意識して空を見上げて太陽の位置を確かめることはなかったでしょうが、どちらの村人も太陽が自分たちの活動に関わっていることには気づいていたはずです。
 
 《牛村》の人たちと《小麦村》の人たちが色々相談してみると、どうも、太陽の動きはどちらの村にとっても同じようである。では、太陽の位置で落ち合うタイミングを決めようということになるわけです。
 
 ここに、《牛時間》、《小麦時間》に加えて、二つの村の物々交換という活動と結びついた新しい《時間》が誕生します。これを《牛・小麦時間》と名付けます。

3.【外側にある《時間》】の内在化


 《牛時間》と《小麦時間》はそれぞれの村人にとっては自分たちの活動そのものですから、意識する必要のない《時間》です。これを【内側にある《時間》】と呼ぶことにします。

 これに対して、《牛・麦時間》は相手の村へのお付き合いのための〝よそ行き〟の《時間》であり、意識して確認する必要がある《時間》です。これを【外側にある《時間》】と呼ぶことにします。

 やがて、どちらの村人にとっても物々交換で得たものを食べるのが当たり前になっていきます。
 すると、それぞれの村人の外側にあった《牛・小麦時間》が【内側にある⦅時間》】に近いものに変わっていくのです。なぜなら、物々交換が自分たちの暮らしの不可欠の一部になるからです。
 
 《内側にある時間》と違って意識して確認する必要はあるとしても、〝よそ行き〟感が薄らいで自然に感じられるようになるのです。これを【外側にある《時間》】の内在化と呼ぶことにします。

 つまり、下の図のようなことが起こるのです。

【外側にある《時間》】の内在化

 今日、私たちは、私たちの身体とは切り離され独立した存在である時計が刻む「時間」に合わせて働き、食べ、寝ています。私たちの暮らしは、【外側にある「時間」】の内在化が極限まで進んで、外側と内側の区別がなくなっている状態だと言えます。
 実は、この状態は、10月15日に投稿したエッセイ『近代工業社会に固有の生産様式がピラミッド型企業組織を招来した』で取り上げた近代工業社会がもたらしたものなのですが、この点については、また稿を改めて論じたいと思います。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

『【内側にある《時間》】・【外側にある《時間》】と【外側にある《時間》】の内在化』おわり
 


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