魔術化する社会とテクノロジー

「十分に発達した科学は、魔法と見分けがつかない」と言ったのはSF作家のアーサー・C・クラークで、最近は落合陽一さんが自らのことを"魔術師"と称することで、この言葉を積極的に援用している。

八代嘉美さんと東さんの対談の中で、上記の言葉への言及があった。東さんの言説を多少読んだことがある方ならば想像がつくと思うが、落合さんのそのような振る舞いや、魔術化していく科学技術に対して否定的な意見を表明していた。

曰く、再生医療に限らず、人工知能のようなブラックボックス化された科学技術に対して、社会は魔術的な理解しかできなくなってしまい、その結果、怪しい健康商法やSTAP細胞事件のような、社会と科学技術の不健全な関係を構築してしまっている。
アートと科学技術の接近は、現実への科学ができることへの誤解を助長しており、科学者も科学をブラックボックスだが役に立つものとして吹聴している。
個々の事象については、確率論的にしか挙動を理解できないということが世界の事実だが、それを丸めて決定論的なイメージで理解し、社会や自然に対する信頼が築けないことには、社会を構築することができないのではないか、と。

上記の議論には賛同する点が非常に多いが、一個批判するとするのであれば、魔術化しているのは科学ではなく工学ではないかという点だ。むしろ工学は、生まれた当時から再魔術化を指向しているものだ、と言ってもいいかもしれない。

クラークの言葉も日本語では科学と訳されているが、原文では "Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic." とあるように、scienceではなくtechnologyに対して言及している。

工学の最大の特徴は、呪文を唱えるくらい簡単な操作で、到底一人の人間では実現できないような能力の行使を可能にするところだ。複雑になればなるほど、操作もややこしくなるところも、非常に魔術の詠唱っぽい。

工学により実現されたシステムを操作する人は、その内部がどのようになっているかを必ずしも理解している必要がない。入力と出力の間の関係を経験則的になんとなく理解していれば困ることはない。
その結果システムの利用者は、システムを実現可能にしている科学知識から完全に切り離されてしまう。むしろ、積極的に不可視化することが工学の役目であると言ってもいいかもしれない。

また、エンジニアリングそのものにおいても、自分たちが作ったシステムでさえも複雑系になってしまい、完璧にモデルを同定できすることが難しくなる状況にどのように対応していくかという議論も多く存在している。

PID制御のようなふんわりとしかモデルがわからないでも扱えるような仕組みによって機械系の制御を行っていることは多いし、マイクロアーキテクチャによるシステム開発の分散化により、システム全体の挙動を必ずしも把握していなくとも開発できるという技法が生み出されている。

つまり、システムが大規模になっていけばいくほど、人工知能を例に出すまでもなく、システムを作ったエンジニアでさえもシステムの挙動を把握することができず、そのコントロールに四苦八苦しているということだ。

近代以前の人々は、自然こそが身の回りにある一般的なものであった。ニュートンおよびデカルト以前のその時代は、マックス・ウェーバーが言うように魔術的な時代であった。
脱魔術化が進み、自然の仕組みを少しずつ理解していく過程を通して、工業化が進み、今度は人間が作ったシステムに囲まれるようになった。

しかし工学が生み出したシステムは、一般の人々にとっては魔術そのものでしかなかった。それに囲まれるようになると、社会の脱魔術化によって生み出された科学によって生み出された工学によって、社会が再び魔術化されるという不思議な結果になってしまった。

再生医療や人工知能に対する、妄言といっても差し支えないような社会の理解は、工学が生み出した社会の魔術化や、工学というレンズを通した科学の魔術的理解の、ある意味で到達点といっていいかもしれない。

これらを克服するために今必要なのは、工学の脱魔術化だ。しかしそれは工学の側からは出てこない。モダニズム的な中央集権的システムも、ポストモダン的な分散システムも、いずれも資本の論理をもとに基本的には人間がコントロールできないほど大規模化していく運命にある。
これらを俯瞰的に見て、脱魔術化するには、哲学の力が必要なのではないかと思う。

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