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コロナ時代の私たちと都市・建築

ある程度の理不尽と強烈な理不尽

 雨の降る休日に、外出しない理由がそこにある幸せを思い安堵した。「今日は雨が降っているから出かけるのはやめておこうと思う」と口にした時、出かける先が屋内であったり、交通手段は自家用車であったりして、雨と出かけないことになんら因果関係がないとしても、「雨→出かけない」という図式にはどこか、「そうだよね」と思わせる雰囲気がある。それは、今まで考えたこともない、ある程度の理不尽さだった。しかし今我々が置かれている状況は、雨が降っていなくても外出することを自粛すべき、といった強烈な理不尽さに満ち溢れている。だから雨が降ってくれたおかげで、外出しない理由が成立した気がしたのだが、本当は傘を差してでも、あるいは雨に濡れてでも外出したい、というのが本音だろう。

 ある程度の理不尽さは許容できるものだし、そのような合理性には欠けるが仕方がないな、という余白のようなものは日常生活にとって必要なのかもしれない。しかしある程度を超えてしまった理不尽さを許容できない場合、どこかに合理性を感じる妥協点を見い出さなければ、日常生活はきっと成り立たない。

雨の日の野球とサッカー

 例えば、ここにスポーツの好きな少年が二人いるとする。一人はサッカー少年でもう一人は野球少年だ。二人とも週末の試合を楽しみにしていたが、当日はまあまあの雨模様となってしまった。サッカー少年は、「今日は少しパスが繋がりにくいかもな」と呟きながら家を出たが、野球少年は空を眺めながら、「どうしてなんだ、昨日まで晴れていたのに」と嘆いていた。そんな対照的な二人に対しても、大人たちは、「仕方ないだろう」というだけなのだ。
 どんな天気でも原則試合をするサッカーにおいて、雨天中止などということは合理性に欠く判断である。一方で、野球の場合は雨により濡れたボールが死球を引き起こす恐れがあり、硬式野球であれば死に繋がることもあることから、雨天中止は誰もが納得せざるを得ない事態であり、そこに理不尽さはない。それらはルールとなることで世界の共通認識となり、それに対して今更文句を言うような人は存在しない。理不尽であっても納得できる妥協点を見出しているからだ。
 観戦者の側で見ると、雨の日のサッカー観戦はカッパを着るのが面倒臭いが仕方がない、野球の試合は雨天中止になると来週は観戦できないけれど仕方がない、といったように、ある程度の理不尽さは許容されていたが、それでも許容できない場合、サッカーであればそれが選手との一体感を高めるかもしれないし、野球では好きな選手の不慮の事故を防ぐことができる、といった妥協点を見い出すことで、雨の日の試合に対する日常生活を成立させてきた。
 それでもなお、せっかくの試合なのになんで雨なんだ、と天気に対する理不尽さを感じてきた我々は、観覧席に屋根を設けた水はけの良いサッカー場や雨天でも試合ができるドーム球場を発明し、どうしようもなかった天気に対する理不尽さをついに乗り越え、雨の日でも試合ができるし観戦もできるといった日常生活を成立させた。

ポスト・コロナのまちづくり

 基本的に、私たちは理不尽に対してなんとか乗り越えようと知恵を絞っている。許容できる範囲だから仕方ない、で済ます人もいるだろうが、多数派ではないと思いたい。その結果は、コロナ禍という強烈な理不尽に対する様々な対処法で実証されている。満員電車を避けるためにリモートワークを活用し、外食の代わりにテイクアウトを利用する。大学でのリモート授業ではYouTubeが大活躍し、学生ではない人でも部分的に視聴できることもある。そうやって目先の理不尽さに対しては、あやゆる知恵を絞ることで今までよりも多様な可能性を広げた上で、日常生活を成立させている。
 一方で、建築や都市といった目先ではないちょっと先を見通した理不尽に対してはどうだろうか。例えば、外出自粛という強烈な理不尽と並んで、建築・都市にとっての脅威となりそうな理不尽に、「蜜」がある。一般的な感染症に対しては、確かに密な状態というのは好ましくないのだろうが、そもそも、建築は人を密にさせる。大気という空間を屋根、壁、床で仕切ることで、わざわざ密な状態を作っているのだ。今や、その空間内においてもクリアパーテーションによって、さらに区切ることが行われており、逆に換気の悪い状態になり、さらなる理不尽を招いている。
 また、都市においては、コンパクトシティにおける集住という考え方ですらひょっとしたら違うのではないか、という気もしてくる。今まで遅々として進まなかったリモートワークが一気に進み、職場に行かなくても仕事ができる環境下において、集約したまちづくりを語ることが白けて聞こえる事はないのか。どこでも働くことができるし、どこにでも住むことができる、そして感染予防にはそれが正義なのだ、と。はたして、ポスト・コロナのまちづくりはそんなに単純で、そんなに極端な議論でよいのだろうか。

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