見出し画像

新刊無料公開『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』 その2「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」1.煉瓦亭という名のモンスター

新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』発売中です。

(無料公開その1「序」はこちら→

銀座を南北に貫く目抜き通り、銀座通りを一本西に入った静かな路地、銀座ガス灯通りに、煉瓦亭という名の老舗西洋料理店がある。

とんかつの原型たるポークカツレツは、この煉瓦亭で誕生したというのが、現時点(2022年)において広く信じられている「定説」である。

四代目店主木田明利の妻、木田和子の著書『煉瓦亭いまむかし』によると、明治28年6月16日に山本音次郎というコックが創業したフランス料理店が、そもそもの煉瓦亭のはじまり。

ところが開店して2~3年たった頃、山本音次郎は体調不良により引退。その後、山本の縁者であった木田元次郎が二代目として店を引き継いだ。

この木田元次郎のもとで、煉瓦亭は大きく発展することとなる。

現在の煉瓦亭は、昭和7年に開業した二店目の店。本店はというと松屋呉服店(現在の松屋銀座)近くに創業し、後に三越百貨店の裏に移転した。つまりかつての煉瓦亭本店は、銀座のど真ん中に位置していたのである。

上が煉瓦亭創業地近くの松屋、下が本店移転先の三越裏

煉瓦亭本店の土地は昭和21年、進駐軍に接収されてしまった。それ以降支店であった現在の煉瓦亭店舗のみが営業を続けている。

この煉瓦亭の二代目店主木田元次郎が、フランス料理「コートレット」からポークカツレツを生み出した、というのが、日本におけるカツレツ誕生の経緯であるとされている。

つまり、カツレツは銀座のど真ん中で産声を上げたのだ。

木田元次郎の息子、三代目煉瓦亭店主木田孝一は、父親がカツレツを発明した経緯を次のように述べている。

“日本人の間に肉料理が流行したのは日露戦争後のこと。当時私どもの店では、父、元次郎が豚肉のコートレット(カツレツ)に腕をふるっておりました。しかし肉料理が人気を呼ぶにつれ、豚肉をソテーしてオーブンで仕上げる本格的コートレットは手間がかかり、お客さまがたて込む昼食時にはとても間に合いません。そこで肉を天ぷらのようにフライにしてみました。コートレットより淡泊な味がうけたのでしょうか、これが大当たり。新しくつけ合わせた生キャベツのせん切りもよく合うというわけで、以来フライ式ポークカツレツと生キャベツの組み合わせが日本中に広まったのでございます。”(『煉瓦亭の洋食』 木田孝一)

読売新聞昭和56年12月25日朝刊「あの味この味」における三代目木田孝一へのインタビューによると、もともとのフランス料理コートレットは“ブタ肉をひたひたの油で焼きあげ、油を切ってバターをのせ、オーブンに入れて焼いていた”時間と手間のかかる料理だった。

ところが日露戦争(明治37-38年)後に“外人の体格がいいのは肉を食べているからだということから、気分も手伝って、盛んに肉を食べるようになった”ため、西洋料理が流行し、煉瓦亭は大繁盛。

あまりに忙しくなったために、コートレットの料理手順を簡略化、油で揚げるだけの料理にしたというのが、二代目木田元次郎がカツレツを発明した経緯だ。

そして同じく忙しいという理由で、手間がかかる温野菜の付け合せを、素早くできる千切りキャベツに変更した。これがカツレツのみならず揚げ物西洋料理全般に必須となっている、千切りキャベツの付け合せの誕生である。

ちなみに、雑誌『食生活 昭和47年12月号』の記事「昔の銀座、洋食の昔」における三代目木田孝一の証言によると、二代目木田元次郎は日本人が好きな天ぷらから、コートレットを「揚げる」ことを思いついたという。

カツレツは天ぷらから発想された日本的洋食という言説を聞くことがあるが、これも煉瓦亭発明説に由来するものなのだ。

さて、煉瓦亭が発明した料理はポークカツレツにとどまらない。

チキンカツ、魚のフライ、カキフライ、エビフライ、メンチカツ、ハヤシライス、オムライス、チキンライス。これらの西洋料理メニューも、二代目木田元次郎が発明した料理だという。

料理だけではない。千切りキャベツやパセリの付け合せ、カツレツにウスターソースをかける習慣、さらにライスを皿に盛ってカツレツに添える習慣も、二代目木田元次郎が日本で初めて導入したものなのだそうだ

煉瓦亭がどのような発明をしてきたかについては煉瓦亭発明・創業年資料(クリック・タップするとブラウザでスプレッドシートが開きます)にまとめているので、そちらをご覧いただきたい。

煉瓦亭前と煉瓦亭後で、日本の西洋料理は大きく様変わりした。天才発明シェフ二代目木田元次郎がいなければ、今日我々が口にする西洋料理メニューの多くが、存在すらしなかったのである。

数々のメニューを発明し、日本の西洋料理の基礎を一代で築いた二代目木田元次郎と煉瓦亭は、まさに日本西洋料理史におけるモンスター的存在と言えるだろう。

発明だけではない。煉瓦亭は戦前から繁盛を続けており、銀座の有名店として雑誌や書籍に度々取り上げられていた。

食通向けの雑誌『食道楽』では、昭和3年から6年にかけて計5回煉瓦亭が取り上げられている。他にも『江戸と東京』『主婦の友』『食通』などの雑誌に煉瓦亭の記事が載っていた。

書籍では、『銀座通』『銀座細見』などの銀座案内本、『三都喰べある記』『大東京うまいもの食べある記』などの食べ歩き本に煉瓦亭が登場する。

有名人のファンも多い。作家の池波正太郎に小島政二郎、役者の河原崎国太郎に古川緑波に殿山泰司に宇野重吉、映画監督の山本嘉次郎に吉村公三郎、学者の池田彌三郎、他にも多くの有名人が煉瓦亭への思いをエッセイ等に綴っている。

これらの雑誌、書籍における煉瓦亭への言及部分を「煉瓦亭に関する資料集」にまとめているので、ご覧になってほしい

煉瓦亭に関する資料集(クリック・タップするとブラウザでスプレッドシートが開きます)

この資料集を眺めると、おかしなことに気づく。

戦前の雑誌記事、書籍、戦後の有名人の回想録。煉瓦亭に関するこれらの記述には、何かが欠けている。

ポークカツレツの発明話が出てこないのである。

唯一の例外が映画評論家の小森和子だが、小森がポークカツレツ発明話を披露しているのは三代目木田孝一の著書『煉瓦亭の洋食』において。しかも伝聞として書かれており、つまりは三代目木田孝一の話をそのまま書いているだけだ。

ポークカツレツ発明話だけではない、あれだけ多くの日本を代表する西洋料理メニューを発明したにもかかわらず、煉瓦亭が何かを発明した、という話がまったくでてこないのだ。

「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」2.煉瓦亭をめぐる証言の不可解さ に続く→