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新刊無料公開『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』 その3「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」2.煉瓦亭をめぐる証言の不可解さ

新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』発売中です。

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(無料公開その2「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」1.煉瓦亭という名のモンスターはこちら→

ポークカツレツ、チキンカツレツ、魚のフライ、カキフライ、エビフライ、メンチカツ、ハヤシライス、オムライス、チキンライス。これだけ多くのメニューを発明をしているにも関わらず、煉瓦亭が何かを発明したという第三者の証言や戦前の資料は、まったくといってよいほど存在しない。

それどころか、煉瓦亭がフランス料理を出していたという証言すら存在しない。煉瓦亭は一般的に、とんかつで有名なとんかつ屋として認識されていたのである。

“この煉瓦亭も銀座にとつては思ひ出の深い名で、ここは昔から大切りのとんかつが名物。今日全盛のとんかつの先駆者みたやうな(原文ママ)ものです。”

(『大東京うまいもの食べ歩き』 白木正光)

“その時分、銀座の松屋の横手、三越の裏に食いもの横丁があって、そこに「煉瓦亭」という小さなトンカツ屋があった。”

(『新劇愉し哀し』 宇野重吉)

“次は三丁目へ入りますと、電車通りの次の西仲通りで、昔安くて有名だったトンカツ屋煉瓦亭の前に「ハゲ天」という店があり”

(『天麩羅物語』 露木米太郎)

“煉瓦亭も、その一つである。いうまでもなく「とんカツ」の店である”

(『らんぷの絵』 藤浦洸)

“銀座に煉瓦亭という豚カツ専門店があった”

(『味の歳時記』 吉村公三郎)

その名物であるとんかつのレシピが『主婦の友 昭和11年9月号』の「東京の新名物料理」に開示されている。時期的に見て、二代目木田元次郎のレシピと考えてよいだろう。

料理名は「トンカツ」。冒頭には客が「トンカツ」と注文する姿が描かれており、女将(二代目木田元次郎の妻)も料理名を「トンカツ」としている。

『主婦の友 昭和11年9月号』

現在の煉瓦亭は発明時から一貫して「ポークカツレツ」という名称を使っていたと主張しているが、実際には店も客も「トンカツ」と呼んでいたのだ。

(中略 当時の煉瓦亭のトンカツの説明 肉を叩いて紙のよう薄くし、見かけを大きくする、安いトンカツであった 詳しくは新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』参照)

つまり煉瓦亭は、日本化した薄くて大きなとんかつを売りとする、大衆的な店だったのである。

実際の証言においても、“昔安くて有名だったトンカツ屋煉瓦亭”(『天麩羅物語』 露木米太郎)、“銀座の「煉瓦亭」のとんかつの大など、安くってなつかしい”(『天下一品』 小島政二郎)と、大きなトンカツの値段の安さが評価されていた大衆的な店だったことがわかる。『主婦の友』の記事においても、トンカツ一皿25銭という安さが評判の一つと書かれている。

フランス料理店であったという、三代目以降の子孫たちの証言とその実態とは、大きく異なるのである。


さて、煉瓦亭発明・創業年資料にあるとおり、煉瓦亭がポークカツレツを発明したという言説は、昭和27年の『ものしり事典飮食篇』(日置昌一)においてはじめて現れる。

つまり、ポークカツレツの発明時期(日露戦争(明治37-38年)後)から45年も経て、初めて表に出た話なのである。

二代目木田元次郎本人が、ポークカツレツ発明話をしていたという記録はない。ポークカツレツ発明話を煉瓦亭主人が語り始めるのは、三代目の木田孝一に代替わりして以降の話なのである。

一人だけ、二代目木田元次郎の知り合いである人物が、煉瓦亭の発明について記録を残している。前述の毎日新聞社員、狩野近雄である。

(中略 詳しくは新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』参照)

“トンカツにきざんだキャベツのつけ合せがあるのは、 煉瓦亭二代木田元次郎の発案で、日露戦争の捷報しきりに至る頃である”

(『食いもの旅行』 狩野近雄)

木田元次郎に実際に会った第三者が書き残した煉瓦亭の発明話は、この狩野によるキャベツの付け合せの話のみである。この発明話に関しては、木田元次郎本人が主張していた可能性がある。

そして三代目木田孝一の代になると、木田元次郎発明伝にポークカツレツが加わるようになる。しかしながら、三代目木田孝一が話していた発明話は、キャベツの千切りとポークカツレツの2つのみだった。

昭和59年9月28日、三代目木田孝一が死去。

するとその翌月、10月25日の読売新聞におけるパセリ特集記事「栄養価高く胃にもいいョ」に息子である四代目木田明利が登場し、次のように語ったのである。

“祖父(初代元次郎(原文ママ))が、 それまでは温野菜だった付け合わせに生の刻みキャベツとパセリを添えた、ということです。パセリを付けたのは、彩りということもありますが、脂っこい料理を食べた後、口の中をさっぱりさせてもらうため、と聞いています。以来、当店では、ずっとこの盛り付けを続けています”

パセリの付け合せも、二代目木田元次郎の発明であったというのである。これは三代目木田孝一の証言にはなかったものだ。

その後四代目木田明利は、二代目木田元次郎の発明品を次々と追加していく。

煉瓦亭発明・創業年資料にあるとおり、チキンカツ、魚のフライ、カキフライ、エビフライ、メンチカツ、ハヤシライス、オムライス、チキンライス、エビライス、ビーフライス、パセリの付け合せ、カツレツにウスターソースをかける習慣、ライスを皿に盛ってカツレツに添える習慣、生パン粉の導入、これらの元次郎発明話は、三代目木田孝一の死後、四代目木田明利によって追加されたものなのだ。

繰り返しになるが、これらの二代目木田元次郎発明話には、それを裏付ける客観的な証拠というものがいっさい存在しない。歴代の煉瓦亭主人がそう主張しているだけの話なのである。

つまり、煉瓦亭の発明話は、歴代の店主が嘘をついていないという「信用」によってのみ、その真実性が担保されているのだ。

だが、煉瓦亭の発明話の中でももっとも有名なポークカツレツの発明については、嘘であることがすでに確定している。

従って、日本のカツレツがフランス料理のコートレットから生まれた、天ぷらをヒントに生まれたという煉瓦亭の発明話から派生した「定説」もまた、嘘なのである。

そして皮肉なことに、ポークカツレツ発明話が嘘であることを証明したのは、他ならぬ四代目の木田明利本人だったのだ。

「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」3.四代目によるカツレツ発明話の大幅改変(前編)に続く