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新刊無料公開『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』 その4「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」3.四代目によるカツレツ発明話の大幅改変(前編)

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四代目木田明利の代になって、煉瓦亭のポークカツレツ発明話の信用は地に落ちた。というのも明利が、父である孝一のポークカツレツ発明話の筋書きを、大きく改変してしまったからだ。

 日露戦争(明治37-38年)後に西洋料理が流行、多忙になったため手間のかかるフランス料理豚肉のコートレットの料理手順を簡略化。それまで焼いた後オーブンに入れていた豚肉のコートレットを、天ぷらにヒントを得て揚げる料理に変えた、というのが三代目木田孝一の話である。

『煉瓦亭の洋食』 木田孝一

一方、四代目木田明利が語るポークカツレツ発明話は次のようなものだ。

“カツレツの元は仔牡肉のコートレートである。肉にパン粉をつけ、フライパンにバターをのせて焼く。これが胸がやけるといわれた。日本には精進揚げや天ぷらの伝統がある。多量の油でカラリと揚げ切ったらどうか。サラダオイルに豚肉のラードを少し混ぜたら味が出て香ばしいとわかった。関西は牛肉圏だが、関東は豚が主流、仔牡でなく豚ロースを揚げてみた”(『明治・大正を食べ歩く』 森まゆみ)


豚肉のコートレットからポークカツレツを発明したはずだったのが、仔牛のコートレットからカツレツを発明し、それを豚肉に応用した、という話に改変されているのだ。

四代目木田明利は発明時期も改変している。三代目の話では日露戦争(明治37-38年)後の発明だったはずが、明治32年へと、6年以上繰り上げているのだ(読売新聞大阪版平成16年7月22日夕刊 [食!味な関西]トンカツロースvsヒレ)

日露戦争(明治37-38年)後に西洋料理が流行、多忙になったためというのが、もともとのポークカツレツ発明の理由だった。

ところが、四代目木田明利は発明時期を日露戦争前(明治32年)へと繰り上げたため、このロジックは使えなくなった。そのために、焼くコートレットが「胸がやけるといわれた」ために揚げるようになった、というロジックに改変せざるをえなくなったのである。

ちなみに明治32年において“関西は牛肉圏だが、関東は豚が主流、仔牡でなく豚ロースを揚げてみた”という四代目木田明利の話は嘘だ。東京で屠畜された豚肉の量が牛肉を上回るのは、明治時代末から大正時代初期にかけての話、つまり煉瓦亭がカツレツを発明した時点の東京では、牛肉が主流だったのだ。

明治43年に至っても、東京における屠畜牛肉量は9,604,851斤、豚肉の3,436,505斤の約3倍、牛肉の消費のほうが大きく上回っていたのである(『第3次畜産統計』 農商務省農務局編)。

これが大正7年になると、屠畜牛肉量が8,726,670斤、豚肉が12,486,241斤と逆転、東京では豚が主流となる(『第35次農商務統計表』 農商務大臣官房統計課)。なぜこの時期の東京で豚肉消費が増加したのかについては『焼鳥の戦前史』を参照のこと。

キャベツの付け合せの発明時期についても、日露戦争(明治37-38年)後から日露戦争中に微妙に変更されている。日露戦争後に西洋料理が流行したためというロジックを捨てたため、“若い者が日露戦争で召集され、手が足りなくなった”(『明治・大正を食べ歩く』 森まゆみ)という新しいロジックを創作したのだ。

三代目木田孝一と四代目木田明利、それぞれのポークカツレツ発明話をまとめてみよう。

これほどの大幅な改変である。聞き間違いや記憶違いによる意図せぬ変更ではない。そもそも三代目木田孝一の発言は新聞、雑誌、本人の著作も含めた書籍に残っており、これらの記録は木田家に集積されているであろうから、聞き間違い、記憶違いというのはありえない。

四代目木田明利は、明確な意思を持って、先代のポークカツレツ発明話を大幅に改変したのである。これではもはや、この発明話が真実であると信じることはできない。

なぜ木田明利は、改変がばれて信用を無くすかもしれないという、重大なリスクをとったのか。

それは、三代目木田孝一のポークカツレツ発明話が嘘だからだ。嘘がばれないように、四代目木田明利は三代目の話を大幅に改変せざるをえなかったのである。

「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」3.四代目によるカツレツ発明話の大幅改変(後編)に続く