希死念慮について

デリケートな問題について書いています。ご注意ください。

僕には自死した年下の友人がいる。彼は双極性障害だった。

彼は死の約一年前にnoteにこう書いていた。

生きるとは「自分を愛する」ということ。死について考えてみる。死にたい気持ちというものは自己愛の枯渇のようなもの。自分を全く愛せなくなった時、愛が枯渇した時。人は死を望む。

原文から句読点追加、改行済み。

僕がこの文章を読んだのはつい最近で、彼はもうこの世にいなくなってからだった。

悲しいとも悔しいとも違う、複雑だけど、清々しいような、少し感動したような気持ちになった。

彼は「死にたい」という気持ち、すなわみ希死念慮から逆に考えて、「生きること」とはどういうことなのかを考えたのだ。これはすごいことだ。多分、生きている人間には出来ない。だからこれは本当のことなのだろう。彼の遺した、真実に限りなく近いことなのだろうと思った。

希死念慮について考えてみた。どんなに人から愛されていて、将来が輝かしいと思われていても、本人の自己肯定感、自己愛が完全に枯渇してしまったら、死に向かう。

ある人は心の病で、またある人は過酷な環境によって、自分を愛することが出来なくなるのだろう。

誹謗中傷にしろ、過労にしろ、過酷な状況そのものが自死の直接的原因ではなく、他者からの否定だったものが、自分自身で自分を否定するエネルギーに変換されたとき、希死念慮が湧き起こるのではないだろうか。

また、失恋による自殺や殉死のようなものも、本来自分に注ぐべきはずだった愛すらも全て他の誰かや何かに注いでしまっていた場合、それを失ってしまうと自己愛は枯渇した状態になるとも取れる。しかし、これは死ぬことで自己を表現するような意味合いがあるとも解釈できるので、希死念慮とは違う気がする。

とにかく、生きるというのは当たり前ではないということだ。今日、僕は絶対自殺しないと思っているが、明日急に「希死念慮」という悪魔が来ないと言える保証はどこにもないのだ。これは本当に恐ろしい。

僕は専門家でもないし、何か出来るわけでもない。ただ、この気持ちをシェアしたいと思った。

僕は、生きているということは特別なことなのだと思いながら、明日もそう思いながら生きることを望むだけだ。



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