狩猟採集時代に取り残された「育児」というタスク

人間は数千年という生物史的にものすごい短期間で劇的に生き方を変えてきた。短期間が故に、遺伝子が変わったわけでもないので、我々の身体や本能はまだサバンナで狩猟採集を行なっているときと変わっていないに等しい。

一方、働き方や、人と人との関わり方、つまり「社会」の在り方はこの9000年で著しく変わってきた。住処や、食べ物、食べ物を得る方法は激変した。

しかし生物学的な、身体に関することは10万年前とさほど違わない。そう、育児もだ。

つまり、近年の育児大変問題は核家族化とそれを引き起こした資本の都市一極集中が原因なのでは?ということを言いたい。

人間は二足歩行を会得することで、骨盤が小さくなり、子供を未熟なままで産むことを余儀なくされた。大抵の哺乳類は生まれてすぐに歩くし、少なくとも自力で乳まで這い上がることは出来る。猿ですら生後間もない状態で母親に自力でしがみつく。カンガルーなどの有袋類も赤子を随分と未熟なまま産むが、袋の中で育てるので理にかなっている。

それに比べて人間の赤子の脆弱性といったら。つまり育児は大変なタスクなのだ。この大変さは我々が二足歩行を始めたときから始まっていたと想像せざるを得ない。

肉食獣などの天敵がいるサバンナでワンオペ育児が出来るはずもなく、獲物も人間一人ではまともに獲れるわけもなく、必然的に人間は群れで動いた。現生の猿を見ればわかるが、むしろもともと群れる動物で、だからこそそこから進化して二足歩行を手に入れたと考えるのが自然だ。

よって、太古の人類は基本的に全てのタスクはチームで行なっていたと考えられる。狩猟採集チームと育児チームである。男たちは狩りに出かけ、女たちは育児をする。今だったら「女性は家にいろ」という女性差別的なメッセージだと言われかねないが、これはごく自然な効率の結果で必然的だと思う。

母乳を与えられるのは女性だけだし、生後間もない子を抱えて狩猟採集のフィールドに行くのはあまりにもリスクが高い。したがって群れのなかで育児を行う。しかし全ての女性が子供を産めるわけではなかったかもしれない。女で狩猟に長けている人物もいただろう。子育てを引退した老齢の女は若い母親のサポートをしただろう。

生物学的に母乳が出ないオスは、母親の母乳を出させるために食糧を調達する。必然的にそうなる。そうやってホモサピエンス(現生人類)は7万年という途方もない時間を過ごしてきた。

ところが、約9000年前の農業革命により、農耕が始まってから流れは少しづつ変わってきた。初期の農耕や、平民の農耕は家族経営であったり、村全体で協力し合うので、多分狩猟採集民族の延長で運営できていたと想像する。チーム戦であり、役割分担があった。変化といえば、安定した栄養源が増え、移動リスクのない定住になったので子供を増やしやすくなったことだろうか。農業的に人手が多い方が生産性が高まる。

安定した食糧は、富の蓄積も生んだ。これによって一部に大きな権力が生まれた。貴族や豪族、日本では武士などの特権階級だ。

貴族などの農業をしない階級の子育てはどうだったかというと、基本的母親は自分で育てず、乳母に育児をさせた。これは当然だろう。もともと育児は一人でやるものではないし、育児はすごい大変なので偉い人はやりたいわけがない。もちろん子供は可愛がるが大変なお世話は任せっきりだった。これは洋の東西を問わずだ。

庶民の育児は相変わらず親族血族でのチームプレイだったと思うが、これも庶民が蓄財をする現代に向かって徐々に変化してきた。しばらくは一般的に富の蓄積はキリスト教観(カトリック)で罪悪とされたので、権力者を除いて庶民には無縁なものだった。しかし宗教革命、カルヴィニズムにより、禁欲的プロテスタンティズムは利潤の肯定、財の蓄積を生んで近代資本主義を誕生させたと、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でマックス・ヴェーバーが説いている。

こうして資本主義が浸透し、庶民もごく普通に蓄財する現在の世の中になっていった結果、世界はこの7万年の間、他に類を見ない速度で変わった。都市に資本が集中した、労働も知識労働が主となり都市に労働資本が集中して、東京では世界的な満員電車が誕生した。

農家の青年、特に次男坊は自分の家の畑を継がないので新しい事業の存在を知り、都会へ出る。そしていつしか都会で成功をすることこそがステータスとなっていった。その結果生まれたのが従来の村コミュニティから外れた核家族である。両親と子供だけの家族だ。

我々人類は生物学的に子育てをチームで行うようになっているので、当然ながら核家族内で育児を行うと難易度が増して親はストレスが溜まる。育児ノイローゼは親と幼子の二人が密閉された空間に二人きりで長時間過ごす故に起こる。

近親者が不在で育児を協力できないのなら、かつての貴族のようにベビーシッターを雇うのも一つの解決策だ。しかし蓄財していると言っても我々は本物の貴族ではないので、全員がベビーシッターを雇えるほどのお金は無い。欧米では日本よりはるかにベビーシッターは一般的なイメージだが、日本ではベビーシッターを雇う前提で社会が構成されていなかった。これは日本に限らず、先進諸国では、つまり育児だけが資本主義以前、もっと厳密言えば農業革命以前に取り残されている。

育児大変問題、ワンオペ育児問題で、夫の非協力性に矛先が剥きがちだが、真に問題なのは社会構造だと僕は思う。もちろんこの社会を受け入れて生活して行くからには、男性は妻のために出来る限りの働きをする必要はある。しかし問題は夫や妻、子供のそれぞれの個にあるのではなく、社会構造にあることを考えて欲しい。個を責めることはナンセンスだ。

我々人間の社会は急速に変化しすぎた。特にこの100年の育児環境を取り巻く変化は劇的だ。人間の赤子は相変わらず未熟で生まれてくるのに、社会だけはまるでそれを受け入れていない。そう考えると少子高齢化は必然だと思う。資本主義の波は強力だが、逆にその力を利用も出来る。育児の重要性が社会で認知される日が来れば必ず資本はそこに投資されるはずだ。僕らはその日を待つしかない。


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