見出し画像

指輪を飲んだり、突き落とされたり


前回書いた記事を多くの方に読んで頂き、想定以上、というかほとんど読んでもらえることを想定していなかったので、とても驚きました。

まずは、読んでくださった方、本当にありがとうございました。

まだよくは分かっていないのですが、書いてみて感じた書くことの意味は、自分の中の本当のことを、誰かにこう読んで、こう思って欲しいということではなく、ほとんどわがままに自分のために、とにかく素直に吐き出してあらためて見てみる、ということのような気がしています。

そして、自分に対して大丈夫と言えるような、そんな出来事やぼんやりとした感情を見つけて、少しずつそれらに輪郭を与えていってあげているのかもしれないなと思っています。

そんなとても独りよがりな内容ですが、懲りずに、今回は最近ふと思い出した、自分はもしかしたら思ったよりも大丈夫なのかもしれない、と思えた出来事について書いてみたいと思います。



******



先日、妻とテレビを見ていたら、こんなニュースが流れて来た。



夢のような現実の話ではなく、夢と現実の境界で同時に起こった話、という言い方が合っているのかもしれない。

「飲み込んだダイヤが大きいねぇ」

とニュースの趣旨とは異なる何かを言いたげにしている妻をよそに、僕はあの日の出来事を思い出していた。



***



数年前、結婚をしてすぐに、僕たちは少し広めの賃貸に一緒に住み始めていて、寝室にぎりぎり入る少し広めのベットを買い、そこに2人で寝ていた。


ある夜、僕は夢を見た。


詳細は覚えていないのだけれど、僕は何者か数人に、自分の知り得ない理不尽な理由で追いかけられていて、ドラマによく出てくるような、屋上に続く螺旋階段をひたすらに駆け上っていた。

追いかけてくる何者かに足元を掴まれそうになりながらも、何とか屋上に辿り着くと、やっぱりそこから先に逃げる道なんかはなくて、その数人のたぶん男達に詰め寄られ、

「覚悟を決めろよ」

と自分の夢ながら、こんなレパートリーしかないのかよ?とがっかりしたくなるようなありきたりなセリフを告げられ、僕はせっかく登って来た螺旋階段の中心の空虚に突き落とされた。

そして真っ逆さまに落ちていく中で、あまりに長い落下時間なものだから、これは間違いなく死ぬな、ということをちゃんと確信できたのだった。


ここまで淡々と書いているが、決して「これは夢だなパターンの夢」ではなく、「これは現実だろパターンの夢」だ。正確には、後者では夢だ現実だという議論すらないだろう。これがその夢だった。そう、前述した女性が指輪を飲み込んだ話、あのパターンだ。

落下しながら、僕は何かを叫んでいた。そしてその叫びは、夢と現実の境界での叫びとなった。

追い詰められた女性が夢と現実のその境界で指輪を飲み込んだように、僕は夢の中の落下の最中と、現実の寝室にぎりぎり収まっているそのベッドの上で、大きな声で同時に叫んだのだった。

急な叫びによって叩き起こされた妻が心配して声を掛けてくれて、そうして僕は片一方の現実の方で無事に目覚めることが出来た。

自分でも夢だけでなく、現実でも叫んでしまっていた感覚があったので、ことの成り行きを妻に説明し、そして自分が一体何を叫んだのかについて確認した。


「ありがとう、って言ってたよ」


なんだそれ、と2人で爆笑してからまた眠りについたのだけど、僕はその後、なかなか寝付けなかった。

だって、理不尽に、知りもしない何者かに、悪意を持って突き落とされて、家族も残して、自分の人生の終わりを確信したときの叫びが「ありがとう」って。

なんかもう、何に対しても自信がなくて、いつも誰かと比べてばかりで、世の中や他人のことは斜めに見てしまうような、そんな自分が最期に叫ぶ言葉が、恨みや後悔ではなくてこの世に対する感謝だということが、おかしくて、信じられなくて、でもとても、なんだかとても安心したのだ。



***



僕の最期の言葉は決まっている。「ありがとう」だ。

きっと、悪意によって人生が強制的に終えられようとも、寿命でその時を安らかに迎えられようとも、これは変わらないし、おそらく変えようがない。だって最悪の状況でそうだったのだから。

最期の時に後悔したくない、笑って死にたい、そんな理想はよく語られるし、僕自身もそう思っていた。

それとどうやら近い形で最期を迎えられそうなことを、今時点で知ってしまった。だから「じゃあこのままでいいっすね」と受け止められるほど楽観主義であれば苦労もないのだけれど。

でも少なくとも思えたのだ、こんな僕だけど、もしかしたら思っているよりも大丈夫なんじゃないかと。


心理学者フロイトは夢分析を行い、夢に隠されている人の無意識を解釈しようとしたという。この話はそんな大それたことではないけれど、もしかしたら僕たちは、自分がそうだと思うことの中で生きすぎているのかもしれない。

どうしようもないと思っていた自分や人生も、本当のところではそうではないのかもしれない。それに気付くかどうかという違いだけで。

コーチングやカウンセリングを受けて気付くのかもしれないし、いや気付こうとしなくても、例えばこんな夢がきっかけで、ふと自分を大丈夫だと思えるのかもしれない。

自分自身に対して、いつかそんな時がやってくるのかもしれないという、そのくらいの可能性を信じてあげていてもいいのかもしれない。

指輪を飲んだり、突き落とされたり、しないといけないのはちょっと大変だけれど。



読んでくださって、ありがとうございました。

この記事が参加している募集

noteのつづけ方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?