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落ち着きという名の空気のカタマリ

もしかして、自分は痛みや苦痛に鈍感すぎるのではないか?
最近そのように思う。小学校を卒業する時のことだ。担任の先生は、一人につき、1単語の漢字を書いた紙をプレゼントしてくれた。そのカードは、少し高級な柄と凹凸がついた紙で出来ており、色は緑色という僕の好きな色だった。そして中には、今まで全く意識したことのなかった単語が書かれていて、なぜこの単語が僕なんだろう?と思ったことをすごく覚えている。
そのカードには「忍耐」と達筆で書かれていた。僕は、当時、思ったことはすぐ発言し、やりたいことはすぐ行動してしまうような、今とは正反対の人間だった。だから、先生は僕にその漢字を送ったのだと今では分かる。すこし落ち着きなさいと言いたかったのだろう。そして時は流れ、意識することなく、いつの間にか僕は忍耐強い人となってしまっていた。それはいささか強すぎた必要以上の忍耐強さだった。

でも、忍耐には、いいところがある。例えば、マラソンで中の上のタイムが出せたり、本当に頑張らなければならないところで、ほんの少しだけ限界を越えられることだ。僕は、今年の4月に、初めてオリジナル曲を作ることができた。突然頭に浮かんだのである。それは、長年の夢だった。嬉しかった。でも、6曲目を作り終わったあとから、全然新作が作れなくなった。色々方法を試してみたが、何も出来ず、僕もここまでだったんだなとほとんど諦めかけていた。そして、今月の誕生日という節目までに10曲のオリジナル曲が出来なければもう音楽は一切辞めようと思っていた。しかしながら、それは絶対嫌だという強い感情が沸き上がってきたのだ。だから、最後に頑張ってみようと、仕事が終わり帰宅した深夜を使って制作をし続け、見事作り遂げることができた。ある意味、その方向を目指す人たちが乗る船のチケットを手に入れたような気分で嬉しかったし、どんなに遅かろうが、有名ミュージシャンたちが立つ同じ土台に指をかけていられることが出来たのだ。もちろん曲を作る時は嫌々作ると作品に出てしまうため、心を自然と綺麗に保つことも忍耐強くやっていた。
しかしながら、忍耐には悪いところもあると思う。僕は、結構自分の身体を酷使してしまう所がある。例えば、20代前半で、酒に強いと気付いてから、まあまあ激しい飲み方をし続けたところ、ここ5年くらいはその飛ぶ鳥は落とされ、もうあまり量も飲めないし、連日も飲むことは出来ない。かなり後悔している。他にも、コーヒーの飲み過ぎだ。大量に飲み過ぎたせいか、今ではコーヒー1杯飲むと、動悸や息切れがする。集中力が高くなり、良い塩梅のメーターを振り切って壊れてしまうくらい意識が暴走しそうになる。まあつまり、カフェイン過敏症なんだと思う。こうなってしまった原因は、忍耐強さだけではない。少しばかりの動悸という軽い症状のうちから、その結果をコーヒーとカフェインという原因に結びつけられなかった思考力の弱さもあった。(思考力の弱さは、第5回「怒り」を参照のこと)このまま、自分の体を酷使し続けると、色んなものを失う可能性が非常に高い。危ないので、酒と同じく摂取量を制限している。ひとまず、コーヒーは1日2杯までと決めている。あと、飲むタイミングによって、過敏に反応する度合いが異なるため、タイミングにも注意を払っている。仕事中は、神経が高ぶりがちなので、そういう時に飲むと100%過敏反応を起こす。逆を言うと、リラックスしている時に飲むと、過敏反応を起こすことが殆どない。それは仕事のない休日で、特にジョギングなどの運動の後に飲むと過敏になるどころか、逆にこの上ない落ち着きを得ることができる。暑い夏の日などに、ジョギングでかいた汗を冷たいシャワーで流し、クーラーのついた部屋でソファーにどっかりと座り、好きな音楽を聴きながらアイスコーヒーをゴクりと味わう。薄暗い部屋に、窓の外は青々とした空で、蝉の音が漏れ聞こえてくる。グラスを振ると、カランと氷の音がする。口の周りを舐めると、かすかに苦いコーヒーの味が残っている。それは、どんな気分かと言うと、もし仮に、深い落ち着きと名のつく空気のカタマリがあったとするならば、深呼吸すると、それがお腹の深いところにゆっくり入ってくる感じがする。そして息を吐くと、悪い空気だけが体の外に出ていき、落ち着きだけがお腹に残り続け、精神の安定感が増す感じがする。喫煙者が、虚空を見上げてゆっくりとタバコの煙を吸って吐いているのと同じ気持ちなんだろうなと思う。だから、その気持ち良さを何度も味わいたいがために、休日は必ず運動をして、アイスコーヒーを飲むことにしている。アイスコーヒーから、休日の計画が形作られるのだ。例えば、天気が晴れなら川辺でジョギングし、雨なら市営プールへ行き、それまでに洗濯は済ませておく、などのことである。コーヒーはあらかじめ買って冷蔵庫にいれておく。なぜなら、運動をし終わってしばらく時間が経つと、この快感はほとんど味わえなくなってしまうからだ。タイミングが大事なのだ。そんな、色んな試行錯誤をして、なんとかして、一杯でも美味しいアイスコーヒーを味わえる人生としたい。そう思っている。

なんかこれって、大切なものから、まずカバンに入れろっていう諺に似てるなと思う。僕はそういうのがめっちゃ苦手だ。アイスコーヒーは少ない例外だが。ほとんどの場合において、絶対に楽しいって分かってるものに対し、どうしても尻込みしてしまい、手が出ない。大きい石と、小さな砂利や小石があったとすると、周りをキョロキョロしながら、好きなものを知られたくないとばかり思ってしまう。そして、手持ち無沙汰になって、しょうがなく砂利や小石からカバンに入れ始めるのだ。入れてると、周囲に新たな砂利や小石はどんどん増えていくことが多い。手近な砂利を入れるのには沢山あるから困らない。一方、大きい石が新たに増えることは稀である。大体いつも同じ場所にある。ちょっと立ち上がって歩けば拾いに行ける場所に。小石を全部入れ終わったら、大きい石を入れようと思っている。でも最終的に、カバンの中に砂利が入りすぎると、もう大きい石は入れられないねってなる。そんな風に、もう入れるには遅すぎるよってなったことが一体僕の人生で何回あったかわからない。もうカバンに入れても意味ないのに、新しい別のカバンに丁寧に入れているときの気持ちはむなしい。しかし、それすら入れることをしないと、色々終わってしまう気もするのだ。だから、遺品整理をするような気持ちで、世界滅亡の日の最後の1日を過ごすかのように丁寧に入れるしかない。

なぜ、こんな幸せになれない人に、どうして自分はなってしまったのか?それは、人から言いなりになってばかりいた自分。嫌なことが当たり前なんだと思っていた自分に原因があるのだと思う。それは、悪い方の”忍耐”なのだ。痛いことや辛いことからは逃げてもいいのだ。それらからは極力逃げつつ、幸せだなと感じることを素直にまっさらな気持ちで受け取りたい。いや、探して追いかけ続けたい。オリジナル曲を作れたんだから、その勝負には絶対に負けない。勝つことができると信じている。

 〜ちなみに、僕の作った曲で「かばんに入れてもいいよ」ってタイトルの曲があるのだが、このタイトルの意味は、今回伝えた話の意味と全く違うんですよということは、一応述べておく。
以前、知り合いの女の子と遊んだときに、「その荷物、私のかばんに入れてもいいよ?」と言われたんだけど、そんなセリフ聞いたの小学生ぶりだったからとても驚いた。だってカバンの中は、各々の聖域というか触れてはいけない領域だとばかり思っていたから。
だから、ずっと頭の中に残っていて、歌詞に使ったのだ。こちらも良かったら聴いてみて下さい。今は、YouTubeにラフスケッチ並の動画しかないけれど、レコーディングして音源にしている最中なので。
またいずれ完成したら皆さんにお知らせしたいと思っています。


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