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ニュースにならない復興の話

「あの日から10年」

今年の3月になる少し前から、節目だなんだと、いたるところで見たり聞いたりしてきたこのフレーズにモヤモヤ、ちょっと嫌な気持ちになったりした。

確かに、10年。数字だけを見ると節目感がある。ような気がする。

けれども、私は頭の中で「節目とは・・・?」と思わずにはいられなかった。

ニュースで取り上げられる復興の様子は、分かりやすく、目立つ取り組みや変化ばかりに見えた。

それらは現場から遠くまで届くような発信をしていたり、メディアが取り上げたい!伝えたい!と思うような魅力あるものに違いないのだけれども。10年経ってこんな風になってますよ、こんな取り組みが生まれていますよと、その部分だけ切り取られるとちょっと悲しい気持ちになってしまう。

それは、10年で生まれた「点」の話だ。

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私が今住んでいる南相馬市も大きな被害を受けた地域である。なかでも小高区は、原発事故の影響が大きく、震災から5年半、避難指示が出た広い範囲で生活することができなかった。

「自分の家」で家族とごはんを食べる
近隣に住む友人、知人と気軽に遊ぶ

商店で買い物をする
学校に通ったり、会社に通勤したりする

震災と原発事故によって突然、そういうことができなくなった地域だった。

定住はできなくても、小高で暮らしたいと強く想う人たちがいた。区域内に立ち入りが出来るようになると、生活を取り戻すための活動や仕事をする人がいた。その頃、小高にできた会社に私は1カ月間インターンをしていた。

沿道に花を植える
お昼ごはんを小高で食べる
仮設のスーパーが開店する
日中の間だけ、人を迎えられるお店をあける

少しずつ、生活できるように変わっていく様子を目の当たりにしていたけれど、正直、人通りはほとんどなかったし、増えていくような感じもしなかった。
町で見かける人の雰囲気は、ちょっと怖いなと思ったりもした。

会う人全員が、とにかく小高で生活がしたいと強い、強い想いを持っていた。

でも、そんな人たちを目の前にしても、小高で生活できるようになるのかな、それは幸せな生活かなと疑う自分がいた。

インターンをしたのは、小高での生活再建に役立ちたい、私にできることがあるかもしれない、というのがきっかけだったけれど、当時、小高や南相馬での就職と生活を私は選べなかった。

でも、その後もずっと。南相馬に関わり続けて町の変化を追っていた。
自分の足で通い、現地にいる友人知人のSNSは自分の目の代わりだった。

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震災から5年半が経って、ほとんどの地域で居住ができるようになると町の変化は加速したようにみえた。

学校が開校する
電車が駅に停まるようになる

震災前からの飲食店が帰ってくる
新しく本屋ができる
飲食店が増える

分かりやすく、町が変化していった。
だから、加速したようにみえたんだと思う。

少し先の未来のニュースが飛び込んでくるたび、とても嬉しい気持ちになった。ひとつ、新しいことが起こると、私のなかで生活イメージに直結した。

マスメディアのニュースとして報道されることはなくても、町を歩いて、その時その場所で暮らしている人に「これまで」と「これから」の話を聞いて、まちの変化をみて、を自分自身で繰り返すことで、幸せな生活を疑っていた自分が、ここで楽しく暮らしたいな、と思うようになった。

小高に仲良くしてくれる人が増え、ぽつりぽつりとお店も増えてきたころ、私は結婚をして、南相馬に移住することを決断した。

そこにいる人たちが、自分たちの意志で町を暮らしを楽しくしていこうとしていた。「もう一度ここで暮らしたい」人が集まっている地域だから、変化を生み出すことをしなくても、変化を受け容れ応援したり、喜ぶ人が多かった。

自分自身が生活者となり、この町での生活に「楽しい」要素を一緒につくりたい、と思った。

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「あの日から10年」

近隣市町村へ避難していた義両親は小高の実家に戻り、楽しそうで嬉しそうだ。たくさんの友人知人が小高に住んでいる。私たちも家族も、隣町から小高に引っ越す計画を立てている。2年以内には小高に住みたい。

自分が暮らす町だから、自分たちが、仲間たちがよりよく暮らせる場所にしたい。足りないものは、ちょうど良いように作ればいい。作りたいものがなくても、一緒に楽しんでくれたらいい。

そんな風に思わせてくれる町が、今の小高だ。
少なくとも、私にとってはそんな場所になった。

毎日の生活への不安がなくなったから、こんな風に思えるのだと思う。
たくさん、小高で生活している先輩たち、なんならその生活をつくってきた先輩たちがいるから、きっと大丈夫だと思える。

ここで、小高で生活をしたい、と当たり前に生活するを取り戻そうと動いてきた人たち、どんな小高であっても住み続けてきた人たちがいることを忘れないでいたい。

その人たちは「私たちはずっとやってきた!」と大きな声では言わないかもしれないし、スポットライトを浴びるように大きな注目を望んでいるかはわからない。

でも、絶対にないがしろにしてはいけないものだと思う。

過去がなければ今はないし、未来もない。

小高で暮らしたいと思い、思うだけでなく行動した人たちが先にいたからこそ「もっといい、もっと楽しい」未来に向かって、今、私は動ける。

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ところで。

当たり前に生活できなかった地域の変化について、誰が、どのように、どれくらいの期間で、どうやって行動してきたか、実はよくわからない。

節目だからと「この10年での学びは何ですか?」と問われても、幸せには向かっている、確かに学びがある気はするがそれは何か??となってしまう。バラバラと個々がインタビューされたようなものはあっても、例えば1冊の本としてはまとまっていない。

今後、できれば起きてほしくないけれど、同じような災害が起こった時に助けになるような学びがあるはずなのに。もしかしたらその学びは、災害時以外にも役に立つかもしれないのに。そこには、まちをつくり、生活をつくるメソッド、みたいなものがありそうなのに。

現在、小高に住む仲間がそんな学びをまとめたい!とクラウドファウンディングを行っています。福島に関与する人だけでなく、日本中で、世界中で小高や福島の10年から学べる教材を作りたいと。

発起人は、東京電力に務めていた吉川彰浩さん。日ごろから原子力発電所や原発事故、その影響について「正しい情報」と彼の経験をシェアしてくれている。私もいつも頼っている。教材第1作目の冊子は、福島第一原発の過去と未来についてが分かりやすく描かれており、愛知に暮らす家族に送って、福島第一原発にまつわるいろいろを知ってもらう機会になった。

クラウドファウンディングの達成だけでなく、冊子づくりの取り組みについて知ってほしい想いが強いです。学びをまとめるの大事!と一緒に共感してもらえたらシェアして頂けると私も嬉しいです。

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おわりに

復興はどの程度進んでいますか?みたいな話がある。進んでいる、とは応えられても、程度を答えるのは難しいなと思う。復興完了の状態が明確ではないのだから。

「復興」
一度衰えた(こわれた)ものが、再び盛んに、また整った状態になること。また、そうすること。
(Oxford Languages より)

震災前のまちの様子を知らないので震災前との比較はできないけれど、初めて小高に来た時のことを思えば、町は盛んになっている。人が増えて、活動が増えて、場所も増えた。

だから、確かに進んでいる。が、終わってはいないし、完全なる終わりなんてないのではないか。

ずっと続いてる。
復興というより、生活がずっと続いてる。

だから、節目という言葉がしっくりこない。

私は、ただ生活するという「線」を大切にしたい。
ときに、注目してもらえるような「点」を意識したり、作ったりもできたらなと思うけれど、震災の前からずっと続いている「線」を大切にしたい。

家族と仲間とこの土地で暮らしを楽しみたい。
ご飯を食べたり、散歩をしたり、一緒に過ごせる喜びを味わい続けたい。

そして願わくば、この場所で「いい仕事」をしたい。

小高にあるコーヒースタンドで働き始めて2年半が経った。

小高に住んではいないちょっと偉そうな方々からの「最近、まちの状況はどんな感じですか?」というビジネスライクな話だけではなく、地元の方や遊びに来てくれた方たちとコーヒーの話や花が綺麗に咲いている場所の話とか、なんでもない話ができるようになった。

文字にすると、改めて地味な変化だな。でも、帰還率や人口の数だけを見ていてはわからない変化ではないか。私にとっては、とても大きく、嬉しい変化だ。

ただ、インタビューをされてネット記事に取り上げてもらえることはあっても、テレビで流れるようなニュースにはならない。遠くまで、年代問わずたくさんの人に、日常のことへ興味をもってもらい、知ってもらうことは難しい。

だからこそどうにかして、気づいた私が伝えていきたい気持ちだ。
それが、きっと私のひとつの役割で、「いい仕事」だと信じている。



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