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人類全滅や地球滅亡の重大さを表面的にしか受け止めていない人々

2023年8月6日、広島県知事の湯崎英彦氏は令和5年広島市平和記念式典で挨拶を行った。

この挨拶はSNSで波紋を呼んでいる。筆者は細部に疑問点を抱いたが、大筋では頷ける内容だと感じた。

まず、筆者が感じた疑問点を列挙する。

被爆の実相に触れたG7首脳は、世界が、核戦力の強化か、あるいは核軍縮と最終的な廃絶かという二つの分かれ道に直面する中で、核軍縮と廃絶の道を選び、広島ビジョンとして力強く宣言し、芳名録に個人的な決意を記しました。G7の、また、同様に招待国の首脳たちの示した決意は、極めて歴史的であり、極めて重いものがあります。

令和5年広島市平和記念式典の知事挨拶

G7はカナダ・ドイツ・イタリア・日本・フランス・英国・米国からなるが、フランス・英国・米国は未だに大量の核兵器を保有している。例えば核保有国が現在保有している核兵器の僅か数%ほどを廃棄する程度の行為でも、核軍縮とは言えてしまう。核保有国が「西暦〇年までに全ての核兵器を廃絶します」と宣言するレベルの事態にならないと「核軍縮と廃絶の道を選んだ」とは厳密には言いがたいように思う。


ウクライナが核兵器を放棄したから侵略を受けているのではありません。ロシアが核兵器を持っているから侵略を止められないのです。

令和5年広島市平和記念式典の知事挨拶

1945年以降、外部の国から軍事侵略を受けた核保有国は一つも存在しないという歴史的事実を見落としている印象を受ける。
「ウクライナが核兵器を放棄したから侵略を受けているという声もあります。しかし、ロシアが核兵器を持っていることこそが国際社会が侵略を止められていない大きな要因となっているのです。そもそもロシアが核兵器を持っていなければロシア政府は侵略をためらったかもしれません」と述べたほうが正確性が高かったのではないか。


以上で2つの疑問点を述べたが、これからもう一つ疑問点を述べたいと思う。
それは「あなたは、世界で核戦争が起こったら、こんなことが起こるとは思わなかった、と肩をすくめるだけなのでしょうか」という箇所である。

原爆のみならず水爆も実用化されてしまっているような現在の軍事的状況において核戦争が起こるということは、人類の滅亡、更には地球の壊滅を意味する。

核シェルター等で運良く一時的に生存できた者がいたとしても、核の冬が何年続くのかは不明であり、核シェルター内の食料やエネルギーが尽きた途端、その僅かな生存者も死に絶えることとなる。

つまり、核戦争が起こった時点で、核戦争が起こるとは思わなかったと肩をすくめるという行為自体が物理的に不可能となってしまうはずである。
言うまでもなく、人は一度死んでしまうと肩をすくめるという動作すら行えなくなってしまう。

「肩をすくめる」というのはあくまでレトリックに過ぎないと考える者もいるかもしれない。だが、そうだと仮定したところで、そのレトリックが「人類が全滅したり地球の全生命が死滅したりするほどの重大な状況」を表現するのに適しているものだったのかは疑問の余地がある。


湯崎英彦氏の知事挨拶を読み、筆者は10代の頃に読んだ『暗殺教室』の或るストーリーのことを思い出した。
筆者は『暗殺教室』を断片的にしか読んでいない。そのため細部に事実誤認が含まれてしまっている虞はあるかもしれない。
しかし、『暗殺教室』で目を疑うようなストーリーが展開されていたという衝撃は今でも記憶に残っている。

或る日、筆者は数冊の『週刊少年ジャンプ』を入手した。真っ先に読んだのは『BLEACH』。『週刊少年ジャンプ』数冊を入手する前から読んでおきたいと思っていたため、数話をまとめて読むことが出来て嬉しかった。滅却師と死神の戦闘を凝視するほど読み込んだ後、筆者は当時話題になっていた作品『暗殺教室』を読んだ。
筆者は学習漫画以外の漫画に疎い環境で育ったが、それでも伝聞情報などから『暗殺教室』が「殺せんせーというキャラがいて、そのキャラは一年以内に地球を滅ぼすと宣言しているから、或る学校の中学生たちが殺せんせーを一年以内に殺さないと地球が滅んでしまう」というような設定の漫画であることは聞いていた。

『暗殺教室』を読むと、髪が緑色の女キャラが殺せんせーを殺そうとしているストーリーが展開されていた。
その女キャラが、前述した「或る学校の中学生たち」の一人であることは何となく頭に入った。だが、読み進めていくと、その同級生たちや、彼らの担任教師らに或るものが欠けているように感じられた。

髪が緑色の女キャラ以外には緊張感というものが見当たらないように筆者の目には映った。
殺せんせーの台詞によると、その女キャラは自分の命を犠牲に殺せんせーを殺そうとしているとのことだった。
だが、イケメン風の中学生キャラがその女キャラに対して「今の君のしてることが殺し屋として最適解だとは思えない」という感じの台詞を述べているシーンがあった。
1人の犠牲で60億以上もの人類の命を守りうる殺害方法を「最適解だとは思えない」と語っているのである。

もちろんタイムリミットが50年後などと時間的猶予がそれなりにあるのなら「誰一人巻き添えとならないで殺せんせーを殺せる方法」すなわち「最適解」を慎重に吟味していっても良いだろう。
だが、既にタイムリミットは一年を切っている。
イケメン風のキャラにしても「誰一人巻き添えとならないで殺せんせーを殺せる方法」に関する具体的手法やヴィジョンを用意していた訳でもない様子だった。
タイムリミットが迫っているのに「最適解」などというものを模索していられるほどの余裕が果たしてあるのか疑問に思った。


本作に限らず「主人公側にとって大切な一人を選び、世界を見捨てる」のか、それとも「世界を選び、大切な一人を見捨てる」のかを主人公側に迫るコンテンツは多い。劇場版の『クレヨンしんちゃん』でもそのような作品があったような記憶がある。

だが、ここで見落とされがちなのは、多くのコンテンツにおいて、「主人公側にとって大切な一人」をとるために世界を見捨てた場合、世界ごと滅びるのだから「主人公側にとって大切な一人」も滅びるはずということである。

つまり「Aを失う(喪う)のを受け入れる」のか、それとも「Bを失う(喪う)のを受け入れる」のかという二択ではなく、「Aを失う(喪う)のを受け入れる」のか、それとも「AとBの両方を失う(喪う)のを受け入れる」のかという二択だと言える。


「なんで緑の髪の女キャラ以外の登場人物に緊張感というものが漂ってこないのだろう?」と不思議に感じながらページをめくっていくと、「その女キャラの命が(助かり、そして殺せんせーの命も)助かるというオチ」が示されていた。
ジャンプ読者の中には、その女キャラのファンもいただろうし、そのファンにとっては嬉しいオチなのだろうと筆者は思った。一方で「殺せんせーが生きているままだと地球滅亡を防げないままじゃん。作中世界のキャラたちは『殺せんせーが生きてるままだと人類の存続が危ういままだ』とか不安にならないのかな」という違和感は消えなかった。


知事挨拶のトピックに戻るが、<私たちには、次の世代に真の意味で持続可能な未来を残す責任があります。そのためには、全ての核保有国が核兵器を手放すことができるよう、従来の安全保障のあり方を見直すとともに、持続可能性の観点から、国際社会の一致した目標として核兵器廃絶を目指さなければなりません。広島県は、日本政府をはじめ、外国政府や国連、市民社会と連携して、そのための取組を進めてまいります>など、その通りだと感じる箇所は多かった。

全ての核保有国が同時かつ全面的に核武装を放棄すれば核戦争のリスクは恐らくゼロとなり、人の手による世界滅亡のリスクも激減するはずである。
知事挨拶の内容は数か月や数年単位では夢物語かもしれないが、百年・数百年単位の長期的な目標としては妥当であると筆者は考える。

本記事のタイトルは「人類全滅や地球滅亡の重大さを表面的にしか受け止めていない人々」となっているが、「肩をすくめるだけなのでしょうか」という表現をしたという理由だけで湯崎英彦知事のことを「人類全滅や地球滅亡の重大さを表面的にしか受け止めていない人」だと見なすのは幾分か短絡的かもしれない。
核保有国が非核保有国を威嚇するような事態が過去のものとなる日が来ることを願って本記事を結ぼうと思う。


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