見出し画像

酒歴発表 2017

※以下は2017年当時にアルコール依存症でアルコール科に3ヶ月の入院中、最後に入院仲間の前で発表することを目的とし、いくつかの項目を与えられ、それについて書いたものをそのまま書き写しました。酒歴発表と呼ばれるプログラムの最終段階です。

・自己紹介 

 父母弟、4人家族。楽しく仲がよい家族だが、騒がしくそれぞれ自由、喧嘩になると酷かった。弟が結婚後近所に住むようになり、小学生の甥と幼稚園児の姪もおり、じぶんが飲酒することを除けば平和な一家である。以前はみんなよく飲んだ。親戚もよく飲み、友だちもよく飲む。毎日のように大飲酒パーティをしていた時期がある。現在父と弟は断酒5年以上で、母のみじぶんに隠れて飲む。じぶんの入院中にも、外で飲み、ブラックアウトして転倒、流血して救急車で運ばれた。本人は飲酒についてさほど気にしていない。母方の祖父、父方の叔父がおそらくアル中だったと思われる。

 幼稚園前から塾に通い、小学校は進学校、異端児で勉強はすぐしなくなり、受験に失敗して公立校へ通う。中学は途中から不登校になるが、復帰して留年したり、ややこしくこじれた不良(不良品)となる。卒業後、親戚のおじと母親が経営する建築業や、各種さまざまなバイトを適当にやりつつ、バンドをやっていた。そのうちミュージシャンのお兄さんたちに仲良くしてもらうようになり、25~30歳のころはプロの弟子(ローディ)をしていた。

・初めてお酒を飲んだエピソード

 小学生のクリスマスに、一杯飲んだらふわふわして愉快な気分になり、世界がくるくるまわったことを覚えている。父母の酔った姿を険悪していたので、じぶんは絶対にお酒を飲まないとおもっていたが、中学生の時にガスを吸ってトリップし、夢のような体験だと感じた。引続き、シンナーにはまる。その後、大麻、スピード、LSD、きのこ、エクスタシーなど、機会があれば薬物へ積極的に手を出した。後から振り返ると楽しい一方でとてもストレスフルな環境にいた。

・習慣的に飲むようになった時期

 30歳のころ、バンドやローディを続けることに情熱を保てなくなっていき、当時付き合っていた彼女とも別れ、先行きが不安になったが、元々30前には死んでいるだろうという程度の感覚で生きていた。とはいえ、30過ぎて生きているということは、40、50とずるずる生きそうだなとおもい、麻薬はリスクが高いこともあって、お酒に移行するようになった。そうなって強く感じたことは、お酒は麻薬と比べるとなにも隠す必要がなく、なんの罪悪感もなく、いつでも好きな時に安価で手に入り、日々現実を逃避するには万能の薬であるということだった。なので、なんの迷いもなくほぼ毎日飲酒するようになった。また、毎日飲酒する必要があった。

・自分の飲み方の異常はどういった点か、その時の気持ちはどうだったか

 お酒の量をコントロールするという概念は無いに等しく、ブラックアウトすることも当然とおもっていた。薬の時には捕まることや、ばれないことに非常に気を遣っていたので、お酒と比べればはるかに短い期間しかできなかったし、家族や親しい友人意外に迷惑をかけることが少なかった。あくまでそれは、お酒に比べればという話です。お酒に移行してからは、みるみる迷惑やトラブルを外で起こすようになっていった。もちろん近い人々にも。脅迫的、自殺的な飲み方で、実際に死んでもおかしくないような経験、事故もいくつかあった。最終的には、霞ヶ関の検事さんに、次回お酒で事件を起こしてここへきたら、どんな微罪でも刑務所へ送ると警告されている。現在は以前の狂気はないとおもっているが、飲むのであれば、酩酊状態で可能な限りいるのが目的で、酩酊状態でいられるなら、なにがどうなっても構わないというような飲酒の気持ちがあるようにおもう。

・アルコール依存症と診断されたのはいつか、その時の気持ちはどうだったか

 31歳の時、統合失調症もしくは境界性人格障害の女性に悩まされ、泥酔して駅の改札からダッシュし、そのまま階段上から飛び降り、大変な騒ぎになったらしい。救急車で運ばれ、目を覚ますと、母とその女性に両手を握られていた。その時の病院の先生のすすめで、アルコール専門医のもとへ行き、依存症と診断される。早くから薬などを使用していたのでまったく抵抗はなく、むしろ救われたような気さえした。と同時に薬はまだしも、環境的に、お酒をやめることなんて絶対不可能なので、その点は恐怖を感じたようにおもう。

・今回入院にいたる経緯

 前回、3年半前の入院はIのアルコール閉鎖病棟で、それ以降、携帯電話ももたず、小銭さえ基本もたず、家族と彼女以外にほぼ会わない生活をしていた。山型飲酒で、じぶんの本命は薬なこともあり、自助グループは所属している地元の例会に月2回通うのみであった。それも調子が悪かったり、面倒で休むこともあった。今回入院する2週間ほど前に、所属する断酒会の例会を休み、翌日早朝の清掃バイト後に飲酒してそのまま連続飲酒となった。飲んですぐ弟に連絡したので、その後すぐに入院できた。既に割り切った隠遁者のような気持ちでいたけれども、一方でこっそり、社会にでられない自分を哀れで情けないと感じていたようにおもう。その劣等感などが、積もり積もって鬱蒼としたストレスとなり、それから逃れたくて一杯に手を出したと分析している。

・今回の入院で学んだこと

 アルコール依存症に関する基本的な知識の再確認。開放病棟は自助グループの原型、入り口であり、有効だと感じた。院外の例会では、素面でじぶんの脳や気持ちが落ち着いており、すっきりしてさわやかなこの状態を、何よりもありがたいことだなと感じさせられる一言に出会えた。謙虚であること、じぶん自身を評価して大切にすること。一緒に断酒しているアル中の人々がいることの大切さ、感謝の気持ちを改めてもつことができた。アル中が素面で集まることの重要性を学んだ。

・退院後、お酒とどのように付き合っていくか

 お酒とは付き合わない。飲酒がある機会は、冠婚葬祭すべて避ける。そもそも、これはおかしな項目ではないかとおもう。例えば、反社会勢力から脱退すると決めたのであれば、今後どのように付き合っていくかという発想にはならないはずで、いっさい縁を切る他にないのではないだろうか。もちろんこれは、個人的な考えなので、人それぞれだとおもうのですが。

・退院後、断酒を続けるために、どんな生活を送る予定か、3本柱はどう実践していくか

 じぶんにとってお酒は麻薬であるという認識で、飲んでしまう数段階前から避ける行動、断酒につながる選択をしていく、防御壁を何重にもつくっておく。三本柱の中でも、自助グループへの参加をじぶんは大切にしたい。自助グループへ行く回数を増やす、これまでより積極的に参加する。今回はあえて、有言実行で少なくとも5年断酒したい。5年素面でいれば、頭からお酒のことはかなり消えている。じぶんの中で、なかなか有言実行で断酒できない理由があった。それは、これまでに何度も素直なこころや、純粋にお酒は恐ろしいと感じるきもちから断酒を誓ったけれども、ことごとく失敗してしまったことだ。そもそもしらふで生きてゆく術をほとんど知らないのに、知ったかぶりや見よう見まねで、歩けないのに走ってきたような人生であった。そのことをなかなか受け入れられず、諦め、拗ね、嫉妬、しらけなどで、じぶん自身を全く信用できない状態にしていた。飲酒が止まっても根本的な問題は、なかなか改善できないし、向き合うことはとても困難だ。世間は理解してくれないし、いまになって理解してくれというのも我ながら図々しいとおもう。とはいえ、じぶんもこの世界や社会の中でしか生きられないし、生きていたいというのが素直なきもちである。断酒断薬のほか生きる道はない。そう頭ではわかっているし、今回の入院によるうまいめぐりあわせで、きもちも初心にかえることができた。どう実践していくかもわかっている。じぶんを動かせるのはじぶんしかいない。

 アルコール依存症は、死に至る進行性の病というが、こじれていくうちに悩みや苦しみも、こんがらかって底なし沼のように深くなる。じぶんよりはるかに深く悩み、苦しんでいて、いつももう断酒を諦めたような態度でいるアル中でも、実はこころのどこかで蜘蛛の糸を求めて、必死で生き延びようとしているとおもう。前回入院していた閉鎖病棟で、そんな姿をいっしゅんみたことがある。その友人はそれから入退院を繰り返し、お亡くなりになってしまったけれども、彼が素直に表にだすことができなくても、なんとか断酒して生き延びようとしていた姿は、じぶんの中で、静かな明るいメッセージとなって活きている。こういうメッセージは、肉体がなくなっても、誰かの中でずっと活き続けているとおもう。

 今は亡き祖母は商売人で、毎朝三面鏡の前に座り、じぶんを鼓舞し発破をかけていた。幼いじぶんは変なおばあちゃんだとおもっていたが、いまはそのきもちがわかる。これからはじぶんも「今日も1日断酒でがんばろう、今日も1日断酒できた、すごいぞ」と、自らに語りかけてみようとおもっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?