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ステーキを食べ切り示す最後のプライド

いつもご夫婦で来られていた。ご主人の方は当時から杖をつき、治療の帰りにお店に寄られているのかなと思っていたら、ある日「私は現役の医師ですよ」とおっしゃった。
そのお身体で、と内心びっくりしたが、どこかの大きな病院でお医者さんをしていて、退職後この町に移り、お友達か知り合いの病院に(多分)非常勤のような形でお仕事をされているようだった。ちょっと気難しげな威厳のあるお姿は、たしかに白衣を着せれば大学病院の偉い先生に見える。

対して奥様は、小柄でチャキチャキとした、ちょっとおっちょこちょいとも言える明るい方で、時々たしなめるご主人の言葉を全く意に介さず、「これ本当に美味しいわ」とか「そういえばこないだね」とにぎやかにおしゃべりしながら、食事を楽しんでいた。

来店するたびに、ご主人は痩せていき足元もおぼつかなくなっていく。けれどもそうした自分の変化を、強い意志のようなものでスルーしてしているように見えた。そしていつもステーキを注文して食べた。

そうしたお付き合いが何年か続いて、先日、買い出し途中のスーパーで、奥様に会った。そしてご主人の訃報を聞いた。
「とにかく大変だったの」
遠くから戻ってきた娘さんや息子さんは、看病中のお父さんの横暴さに、亡くなったあと遺品をほとんどを廃棄して去っていったそうだ。
「無理もないわ、ありがとうの一言も言わないんだもの」
正直、亡くなった時清々したとも少し思ったのよ、と変わらぬちゃきちゃきとした口調でおっしゃったが、無念な思い、悲しい気持ちもあるように感じられた。無理もない。長く連れそった最期が、感謝や愛情ではなく、こんな形で終わってしまったのは、奥様の方にしても予想していなかっただろう。

人はいつか死ぬ、というのは周知の事実だが、どれくらいその事実を受け入れていますか?
実はわたしはまったく受け入れられていない。小4の頃のある日の夜、自分もいつか、この世からいなくなるんだという事実に愕然として以来、40年以上たった今でも、納得できていない。なぜ自分は死ななければならないのか、そんなの理不尽だ、という半ば怒りのような気持ちが今でもある。

ご主人もまた同じだったのではないかと思う。今では緩和ケアという概念が生まれて、最後の最後まで病気と闘うよりは、どこかの段階でその人らしく家族と共に穏やかに過ごすという選択肢も増えた。けれどその選択肢を選べるのは、自分の最期を受け入れられた人だけだ。

わたしには自信がない。自分には死ぬ気が無いのに、周囲の態度が緩和ケアの方に変わってしまったら、わたしもやはり家族に八つ当たりするんじゃないかなぁ。お子さんの怒りや奥様の無念を感じつつ、最期に家族に優しくできなかったご主人を責める気持ちにもなれなかった。

普段は食が細いというご主人が、うちのお店では必ずステーキを注文して食べ終えて帰った。ご主人の生きることへのプライドだったのかな、と思う。

#俳句 #エッセイ #暮らし #写真 #ステーキ


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