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弁当に助けられた男

先日、作家でミュージシャンの辻仁成さんの、オンラインイベント「人生がちょっと豊かになる気まぐれ文章教室」がありました。
160余りの応募作品(テーマは「お弁当」)から3つが選ばれ、仁成さんの解説を聞きつつ添削される模様を楽しく拝見しました。
文章にはまず、「?」と惹きつけるフックが必要とのこと。その観点から見ると「ようかん」をテーマにした最初の作品は確かに面白かったな

応募した私のエッセイはこちら。お店の成り立ちでもあるので、自己紹介も兼ねて公開しておきます。


弁当に助けられた男

2005年5月、鹿児島県の人口4万人ほどの小さな町で、彼は予約制のフレンチレストランを開業した。彼の母親はがっかりした。こんな田舎の町で、“洋食屋(しかも予約制のフレンチ)“など流行るはずがない。なぜ素直に和食店をやらないのだろう?「刺身・天麩羅・茶碗蒸し」のない店に、田舎の客が足を運ぶはずがない。

 母親がそう思うのも道理。元々彼は、東京で10年、和食をみっちり修行した職人であった。親方から独り立ちの許可を得て、故郷の町で自分の店を開く前に、彼はふと考えた。

「和食以外の他の国の料理も見てみたい」

 そこで彼は所持金7万円で、フランスへ旅立った。2000年5月のことだ。1泊目のホテルだけはとったが、その後の算段はない。自分には腕がある。お金がなくなったら、どこかに潜り込んで働けばいい。ああ、悲しいかな、外国で働くにはビザが必要なことを彼は知らなかった。

 次の日。ホテルをチェックアウトした彼は、早速困って、慌てて日本語書店に入り、旅する若者の強い味方「地球の歩き方」を買った。そこで日本人がオーナーの短期貸しアパルトマンの記事を見つけ、連絡を取った。

オーナーの日本人マダムは、初めての海外旅行に無計画でやってきた彼に、驚き呆れながらもマドレーヌ寺院の近くの小さなアパートを手配してくれた。料金は前払い。彼の旅費はあっという間に底をついた。彼の苦境を聞き、また彼が料理人であることを知ったマダムはある提案をする。

「カナダから来た画家が、パリのアパルトマンの一室で個展をするの。その時のベルニサージュ用のお料理を作ってくれない?

 ベルニサージュがなんなのか、彼には全くわからなかったが、料理でお金がもらえるなら好都合。自分の身体だけでいっぱいいっぱいの小さなアパルトマンのキッチンで、彼は一所懸命料理を作った。ベルニサージュは大成功。カナダ人の画家は、感激し彼にお礼の言葉を述べたが、英語のわからない彼にはちんぷんかんぷん。たまたま近くにいた日本人女性が通訳してくれて、ことなきを得た。

 しかし、ここから事態は動き出す。腕のいい和食の料理人がいると聞きつけ、中華と和食の店を何軒も構える中華系カンボジア人に、ぜひにとシェフに迎え入れられた。折しもパリは空前の日本食ブーム。料理人は圧倒的に不足していた。彼は5年をパリで過ごし、多くのパリジャン、パリジェンヌに本格的な日本料理を提供し続けた。

 故郷に戻った彼は、自信に満ちていた。自分の料理が外国人に受け入れられたことが、素直に嬉しかった。彼はまたふと考えた。

「普通に和食の店をやるのもつまんないな」

そこで彼は、冒頭にある通り、母親の期待を裏切って、和食テイストをベースにした創作フレンチの店をやることに決めた。
ところが案の定、店は苦戦する。

「敷居が高い」

「スパゲティはないのか」

「1皿ずつじゃなく全部まとめて出せ」

 彼は自分の故郷の人々の民度の低さに憤った。赤字と黒字を行ったり来たりしながら、数年が過ぎた。ある日、思いがけない依頼が舞い込む。仕出の弁当を作ってくれないか、というのである。

 鹿児島には法事、棟上げ、子供の名付け等、ことあるごとに弁当を取る慣習があった。しかし当時仕出弁当は、仕出屋から取るものだった。

「俺は弁当屋じゃない!」

断ろうとする夫を妻(パリのベルニサージュで通訳した女性)は諭した。
「店の経営は苦しい。まずはやってみたらどう」
たまたま作った1件の仕出の依頼。その反響は凄まじかった。そこで食べた人が次の我が家の法事にと、またそこで食べた人が自分の家の棟上げに…と芋蔓式に依頼が増え、一時期店の売上の6割を弁当が占めた。

が、それをきっかけに少しずつ経営は好転する。一度弁当を食べた客は、次第に店にも足を運ぶようになる。誕生日や結婚記念日、自分たちのお祝い事のためにレストランを利用するようになったのだ。
ここまでに18年の年月が流れていた。
弁当に救われた男、私の夫の物語である。

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