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#23 勘違いしちゃダメなこと。

人として、これまでも、これからも、大切なことってなんだろう?




生きていくうえで、人間関係は切っても切れないものです。

人は誰かの支えがあって生きています。
直接的ではなくても、何かしらの関係性が生まれています。


僕たちの主食であるお米は、誰かが作っているから食べれているわけです。
普段乗る電車も、運転してくれる人がいるから乗れている。
普段寝ているベッドも誰かが作ってくれたから快適に寝れる。


このように目に見えないところでも、誰かに支えられて生きています。




1月1日に能登半島地震がありました。

本当に他人ごとではないなと。
2024年に入ってすぐ、誰がこうなると予想したでしょうか。


そんな時に思い出したのが、西野亮廣さんのラジオで西野さんがおっしゃっていたこと。

「被災地に千羽鶴はいらないんですよ!それを貰った被災者は何ができるんですか!水とか食料の方が絶対必要でしょ!」

って。


いや、間違いない。
本当に被災者のことを思いやったら千羽鶴は送りません。


勘違いしちゃダメなこと。はここです。

“思いやり”


そもそも“思いやり”ってなんだろうか。

僕が思う “思いやり” は

「相手が今何を求めているのか、何が欲しいのか、を想って考えること」

だと思います。


さらに言うと、その行動が、相手の想っていることと一致して初めて

“思いやっている”

になる。


思いやりって、自分がしたいことや、自分が嬉しいことではないです。

能登半島地震でも、
「こうした方が良いでしょ!」
「こうするべきだ!」

みたいなポストがXでよく流れていましたが、そうじゃないんです。
でも、僕たちはこうやってよく “思いやり” を勘違いしてしまいます。


どれだけ被災地や被災者のことを想って考えることができるか。
そして、その考えが被災者の方と一致して初めて、助けになるんです。


これは、身近な人ほど大切なことだと僕は思います。

人って他人の気持ちは当たり前ですが見ることができません。
頭の中も覗けなければ、心の内も見えない。
だから、何を考えているのかがわかりません。

そこで必要なのが “思いやり” だと思うんです。

身近な人は側にいてくれること自体が当たり前になってしまいます。
そうなってくると、気持ちを言葉にしなくても
「この人ならわかってくれるだろう」
って考えに陥りがちです。

でも、正直わかりません。
家族ですらわからないのに、「わかってくれるだろう」はハードルが高すぎます。
SNSの時代で顔の見えないチャットだけで事が済んでしまう時代ならなおさらです。


ここで思いやることができると、
「人の心はわからないから、ちゃんと言葉にしないと伝わらないな」
って考えることができます。


逆もそうです。
相手の気持ちが分からないからこそ、相手が今何を考えているのか、何を必要としているのかを想像する必要があると思います。

目の前に相手がいるのであれば、その人の仕草や行動、表情や声色などでいろいろなことを想像できると思います。

いつもより元気がないのかな、とか
嬉しいことがあったのかな、とか
次この人これが必要だろうな、とか、
思いやることができます。


こうやってお互いがお互いを思いやることが、人間関係から逃げ出せない僕たちにとって大切になってきます。

たとえ、その思いやりが間違っていたとしても、思いやることの繰り返しが愛することに繋がると思うし、思いやりから生まれた行動が信頼を形成すると思います。


今実家に帰省していますが、家族がいて、ご飯が出てきて、楽しく過ごせていることは当たり前ではないんだなと、これを綴りながら実感しています。


“思いやり” を勘違いせず生活していきます。

勘違いしそうになったらこのnoteを振り返れるように、ここに残します。


では、また。

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