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君の誕生日には、喜びと賞美と祈りを込めた「おめでとう」を言いたい

最近たまたま、「誕生日を祝うという習慣に違和感や疑問がある」という意見をいくつか見かけた。

「そもそも何を祝ってんのかよくわかんない。別に祝われたくないんだけど」みたいな話は今までにも耳にしたことがあるし、そういう人もいるだろうなと受け入れているのだが、私個人としては誕生日というものに違和感を持ったことはない。

誕生日を祝うようになった起源を軽く調べてみると、宗教的な意味合いや時代背景が絡んでいるとあり、それらの在り方が変化した現代の日本においては、やる意味はあまりないのでは……と思えるのも少しわかる。
もともと、もっと昔の日本では毎年の誕生日を祝う習慣はなかったとも聞いた。

それでも、私は誕生日は祝うにあたいする日だと思う。
もしも、本人が望んでくれるのなら、喜んでお祝いをしたいと思う。

昔は、子供が成人になるまで無事に育つのは簡単なことではなかった。
その事実が、日本では七五三をお祝いしたり、海外では誕生日をお祝いしたりする習慣が根付いた理由のひとつなのではないか。

私たちが今過ごしている現代ではどうだろう。
誕生日をひとつの記念日と考えた国や時代と、まったく状況が違うだろうか?
確かに医療が発達して、暮らしが豊かになって、子供が死ぬことは減っただろう。
子供だけじゃない、人が寿命を待たずに死ぬこと自体、昔に比べたら少なくなったかもしれない。

でも、少なくなったというだけだ。可能性が消えたわけじゃない。
死というものは現代においても当たり前に起こる。
身近な人がある日突然いなくなり、来年の誕生日を祝えなくなってしまう。
経験のない人には、とても遠いことのように感じるかもしれない。
生とか死とか、誕生日ってそんな重い話かよ?と思うかもしれない。
でも、子供が何事もなく生まれて大人になること、無事に歳をとれること、これはいつの時代でも当たり前ではない。

本当に、死とは突然やってくる。終わりとは、あっけないものだ。
電源を切ったように、ブツリと容赦なく途切れる。

そんな抗いようのないものが、いつどこで誰に起きてもおかしくない中で、またひとつ歳を重ねられた日。
それはやはり、私にはとてもめでたい日のように感じられる。
生まれた日から今日で何年目だね、と生きてきた年数を数えるその日を、特別な日だと思う。


生きづらい世の中で、ここまで頑張れていること、
危険が多い毎日の中で、無事に生まれ育ってくれたこと、
生み、育ててくれたこと、
おめでとうと言ったり言われたりできること、
感謝ができること、
そのすべてが喜ばしい。
めでたいという言葉は、何かを称賛するときや喜ばしいことがあったときに使う言葉だ。
誕生日の中に存在するすべての喜びや称賛を内包した「おめでとう」を送る。
誕生日のお祝いとは、私にとってそういうもの。


もしかしたら、誰かにとっては、お祝いの言葉や行いの多くはもうほとんど形だけとなってしまっているのかもしれない。
習慣として祝ってはいるが、深い意味など考えていないという人もきっと多い。
形だけになってしまったことに違和感をもつ人も、祝福するに値しないと拒否する人もいるだろう。
それは悪いことではない。どう思うかは自由で、尊重されるべきだ。
違和感や拒否感を持つひとに押し付けるようなことは勿論しない。

ただ、私個人は、この習慣はおかしなものだとは感じないし、無意味とも思わない。
たとえ形だけになって、無感情に投げかけられる「おめでとう」でも、それがかつての人々の喜びや祈りの名残であるなら。
無駄な行いだと冷めた目で見ることは、私にはきっとできない。



(見出し画像はこちらから拝借)

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