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世田谷育ちのガキは駄菓子屋を知らない。

200円を握りしめ、勇み足で歩く。今日の僕は大金持ちだ。いつもは手が出せない高級ペペロンチーノも買えるし、金塊だって変えてしまう。酸っぱいやつも買って友達と遊ぼう。行き先はそう、駄菓子屋だ。僕の小学生時代は駄菓子屋での思い出でいっぱいだった。

この光景は当たり前のことで、全国共通認識だと思っていた。
だが違った。
世田谷育ちのガキは駄菓子屋を知らないのだ。


世田谷育ちの慶應生の友人と、小学生時代の思い出について話したことがあった。僕がこのような駄菓子屋の思い出話をしていると、彼は本当に感心したように相槌を打っていた。
「おいおい、駄菓子屋の話如きでこんなに感心するか?そんなに俺の話が面白いのか。」
と心の中で自己満足に浸っていると、
「駄菓子屋とかないからめっちゃ新鮮だわ。」
と彼はいった。
彼は僕の話が心底面白いから感心した相槌を打っていたわけでも、僕の小学生の駄菓子屋武勇伝に感動していたわけでもなかった。
彼はそもそも駄菓子屋を知らないのだ。
小学生ながらにしてギャンブルの恐ろしさを知る10円のじゃんけんゲームも、100円が当たる金塊のチョコも、よれよれの黄ばんだポロシャツを着た駄菓子屋の爺さんも彼は知らない。彼にとっては駄菓子屋の爺さんなど火星人と同じくUMA(未確認生命体)なのだ。

駄菓子屋の10円ゲーム

では、なぜ駄菓子屋を知らないのか。それは棲み分けが原因であると考える。
棲み分けとは生物の用語で、このような意味だ。

棲み分け:生活様式のほぼ等しい異種の生物群が、生活空間や生活時間・時期を分け、競争を回避しながら共存する現象

少し意味は異なるが、世田谷区民、港区民とださいたま県民の生活レベルが同じなわけがない。駄菓子屋に入り浸ったことがあるかそうでないかは、生活レベルで決まると言っても過言ではないと考えている。


仮に麻布、白金高輪、成城といった東京都内有数の高級住宅街に、このような駄菓子屋ができたとしよう。(建ったとしたら、よれよれの黄ばんだポロシャツを着た爺さんはラルフローレンのポロシャツを着ているのかもしれない)

僕が思うに、ここに住んでいる小学生が駄菓子屋に入り浸ることはない。

そもそも麻布や白金高輪の子供たちは放課後、夕方のチャイムが鳴るまでお友達と遊んでいるのだろうか。帰りが遅いとお母さんに怒られることはあるのだろうか。

かつて「東京三大名門小」の一つとされた白金小学校(港区白金台)はいまも私立中学受験率が100%近いとされています。

高輪台小学校(港区高輪)・本村小学校(港区南麻布)・帰国子女が多く通う東町小学校(港区南麻布)の3校も私立中学受験率が高く、70~80%程度と言われています。

意識高すぎる「白金高輪」の教育事情とは!?私立中学受験率100%近い小学校に満員の塾も…

この記事では、白金高輪には中学受験率が100%になる小学校まであるという。ここで

中学受験=塾


という方程式が成り立つ。

そう彼らは駄菓子屋に行って、狂ったように10円ゲームにハマっている暇はなく、お受験のことで頭がいっぱいなのだ。駄菓子屋に行くくらいなら、SAPIXに通うだろう。17時30分の帰りのチャイムなんか気にも止めず、21時ごろまで塾に缶詰にされた挙句、床に就くまでお受験のことを考えるだろう。

一方、僕の地元はといえば、中学受験をする人などクラスに1人いるかいないかで、中学受験をすることがバレた生徒がいじめられるほど、中学受験は珍しいものだった。

先ほど棲み分けについて軽く触れたが、これがまさしくそうだ。
中学受験がバレるといじめが起こる、ださいたまの中でも更にダサい僕の地元と、中学受験を8割の生徒が経験する白金高輪。まさしく生活空間が分離されている。
白金高輪に住む小学生が、「中学受験がバレる」という概念が存在する僕の地元に来たら失神するかもしれない。


結局この記事を通して何を言いたいかというと、自分が置かれていた環境は当たり前とは限らないと知るべきだということだ。

僕自身も、世田谷生まれ世田谷育ちの友人がいなければ、駄菓子屋一つでこの記事を書くこともなかった。この記事を書かなければ白金高輪の中学受験事情など一生知らなかっただろう。
当たり前だ当然だと思い込み、話すらしなかったら、新しいことを知ることができなかった。

ゴミのような知識でも、話題にできれば宝。
ステレオタイプの人間になってはいけない、常にアップデートしていくべきだ。

世田谷育ちのガキは駄菓子屋を知らない。


この記事で取り上げた駄菓子のリンクを貼っておきます。
買ってくれると僕のお財布が少し潤います。是非。



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