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#8 「期待しない」は解放と受容の魔法。

「期待しない」って諦めの言葉だと思っていた。他を突き放して孤立を選ぶ言葉だと思っていた。

でも最近気づいた。
「期待しない」とは何で、どれだけ私を救ってくれたのか。

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無意識の期待

私がまだ自分にも他者にも優しくできなかった頃。
自分にも自分以外のことにも厳しくて、ハードルを上げて、そこに向かって頑張るのが当たり前だと思ってた頃。

それさえも無意識だったのだけど、きっとその思考・行動パターンの裏にはこれもまた無意識の「期待」があったように思う。

家庭環境の影響で、ひときわ自立・独立心が強く、「私が頑張ればいい」「誰も頼ることはできない」とこれまた無意識に強がっていた裏には、

「私が頑張ればいつかきっと認めてもらえるから
「誰も頼らずともきっと誰かが見ててくれてるはずだから

という大きな期待が常にあったに違いない。

だからわたしは自分に厳しかった。
いつしかそれが当たり前になって、自分以外にも厳しくなっていった。

友達には、どうしてできないの・やってくれないのという気持ちでイライラしたし、社会には、なぜこうなの・しなければならないのという反抗的な気持ちで満たされてしまい苦しんだ。
どんな些細なことでも物事がスムーズに進まなかったら気持ちが抑えられなくて、目の前のモノ・コト・ヒトへ常に気を張り詰めて、ときには当たって、心をすり減らしていた。

自分の勝手に作り上げた期待を理想にして、理想を常識にして、それに至ることができない自他に勝手に苦しみ、勝手に悲しみ、勝手に腹を立てる毎日だった。

これを無意識でやっていたのだから本当にとんだ迷惑者だったにちがいない。
約20年ほど、わたしはとっても弱い人間だったのだ。

諦めと孤立の選択

私が一番期待していたのは親からの愛だった。
無償の愛を注がれる兄と、対価の愛しかもらえない私。平等に扱ってもらえる未来を永遠に期待していた。
そういえば、当時の座右の銘は「継続は力なり」。自分の長所を「我慢強さ/粘り強さ」と言っていたっけ。

特別自立心と独立心が強く、機能不全家族から逃げ出したかった私は、小学生の頃から実家を離れられる時期がくるのを心待ちにしていた。
そして大学進学を機に、念願の一人暮らしを手に入れた。あの奇妙な家庭環境からやっと物理的に距離を取れるようになった。

でもそれで解放されたのは、
ヒステリックな母親の顔色を伺う必要も、怒鳴り散らす父親の騒音を聞く必要もない平穏な部屋の中“だけ”だった。

もちろんその日々を獲得できたことは私にとって大きな転機の1つではあったのだが、
約20年間で染みついた私の無意識の期待と失望の癖ははっきりと残っていて、いざ一人歩き(仮)が始まれば、それまで周りに支えられていたことで成り立っていた現実がどんどん軋み崩れていく現実と向き合うことになった。

私の大学生活は主に経済面で本当に思うようにいかなかったのだが、元から家庭環境が崩壊していて、かつ息抜きできるような趣味ももたなかった私にとっては、友達をはじめとした家族以外の人とのコミュニケーションが命綱のはずだった。

しかしこの私の癖で、つまり自分の手で、その命綱さえ奪った。
あたりまえだ。自にも他にも厳しく勝手に疲れる人が、優しくされるはずはなく、ただ周りを疲れさせるだけなのは明らかなのだから。

そして私はそれを薄々わかっていながらも、自分の無意識から抜け出せなかった。

次第に、
家族も、友達も、学校(社会)も、お金も、趣味も、
心に安心やゆとりをもたらしてくれるものがなくなった。「なくなった」というより、「自ら捨てた」というべきかもしれない。
全て欲しいのに、そこに安心を期待してしまったことで自分の手で捨てることになった。

最終的に私は、
ほとんど安心やゆとりを失い、全てに疲れて、自分も捨てることになった。
全てを遠ざけて、無気力で、必要最低限のことしかできなくなった。しかしそれは初めての、自分にも自分以外の全てのモノ・コト・ヒトにも期待しなくなった瞬間でもあった。鬱だった。

そして今までとはまるで正反対になった私は、それはそれでまた周りを疲れさせた。
当時の私について友人は「もうどう関わればいいか本当にわからなかった」と言う。

全てを諦めて、全てを突き放して、孤立を選び、
期待することで迷惑をかけてしまった自分を責めながら、無気力でまた迷惑をかけている自分も責め、でももう体も心もどうすることもできない極限状態が1年半〜2年続いた。

自己の維持という生理現象

それからの大学生活は、全力を振り絞っても最低限の出席と最低限の提出と最低限の生活費を稼ぐためのバイトでやっとだった。

それ以外の時間は高熱を出したり、不眠の夜を過ごしたり、暴食や拒食、急に涙を流したり…と不安定な毎日を送っていた。

その結果わたしは初めて、物事の上を見るのではなく足元を見はじめるようになった。
それは心境の変化というよりは、
何かに期待しているどころではなく、ありのままの自分・現状の自分を受けいれないと、もはや自分そのものが維持できなくなっていたのだ。
理想に取り憑かれていたわたしは、現実を知ること・受容することがいかに重要であるかを、心身共に極限状態のからだが発した警告によって初めて知ることになったのだ。

「つらい時は学校を休もう」
「高熱を下げるために心が落ち着く音楽を流そう」
「眠れない夜は無理に寝ようとせず過ごそう」
「食べたい時に食べたい物を食べたいだけ食べよう」
「突然流れてくる涙は出し切ろう」

私は自分を盛大に甘やかした。
とにかくこの地獄を、極限状態を脱せられるならなんだっていいと思った。
期待してしまう自分を、迷惑をかけてしまう自分を、それを責めてしまう自分を許した。

そして期待せず、理想を求めず、現実の、ありのままの自分を、弱い自分を、まずは受け入れて愛する練習をし始めるようになった。

「期待しない」の力

「期待しない」ことは、それまでどこか寂しい言葉だと思っていたのかもしれない。
縁を切ること、突き放すこと、孤立すること…

「愛の反対は無関心」

と言うように、私は親からの愛を実感できなかったからこそ、無関心に対してひときわ恐れを抱いていたのだろう。「期待しない」ことの無情さは、誰よりも私が知っていたから。
無意識に承認を求め、無意識に承認の大切さを自他共に押し付けていた。
そして、「期待する」ことの先に安心を求めていた。

だが違う。
「期待しない」とは、解放と受容だ。
自分の理想を押し付けないということだ。
それは自他の現実に向き合うということであり、
世の中の多様性、複雑性、物事の背景に目を向け受け止めるということだ。
つまり、広い視野と理解をもって生きるということだ。

今だからこそこう言えるが、
ただただ弱い自分を受け入れ愛する練習を少しずつ重ねた当時の私は、それから少しずつ、元の心身を取り戻せるようになった。

自分が学校に行けなかった時、「できない」自分のせいで迷惑をかけた人たちがいた。だか他人は私が極限状態であったからできなかったなど知る由もない。

では「期待していた」当時の私は「できない」人たちの背景を考えられていただろうか。
あのとき、どうしてできないの・どうしてやってくれないのとイライラしていた自分は、「なぜできないのか」相手の状況に目を向けられていただろうか

今まで自分がしてきたことを、受ける立場になってわかった「期待する」ことの身勝手さ。
自分が安心したかっただけだったのだと知った。



「期待しない」という魔法の言葉

それから回復し、現在私は「期待しない」という言葉を日々意識するようにしている。

もちろん、それが指すのは
「物事に広い視野と理解をもって接し、そのための努力を積み、生きていく」
ということだ。

「期待しない」と意識するたびに、思考も物事もスムーズに進み、新たな多様性・複雑性を学び、物事の背景を獲得する喜びを得ている実感がある。

“寛容になる”という言葉にも似ているが、それよりは“物事の面白さを発見する目を養う”といった方がしっくりするかもしれない。

私にとって「期待しない」というのは、今やとても楽しく、安心を与えてくれる魔法のような言葉なのだ。

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最後に、
この文章を通して「期待する」ことを“身勝手”という言葉を始め多くのネガティブな印象で語ったが、「期待する」ことが悪いことだとは全く思っていない。
本来、「期待する」ことで受け手が「期待されている」という感じられることはとても幸せなことだし、時に人を励まし、勇気づけ、ポジティブにしてくれる。
同時に「期待しない」ことで私のような「期待されていない」と感じる受け手が後々苦しむ場合もある。

私は「期待されていない」(=無関心)と感じたことで「期待する」ことの重要さに過剰なこだわりをもち、いつしか“本来の意味を失った”「期待する」という行為を自他に求めるようになり苦しんだ。
つまり、「期待しない」ことがもたらす怖さを人一倍わかっているからこそ、「期待する」ことがもたらす幸せも、私にとっては喉から手が出るほどよくわかるのだ。

まだ私には、
実家を出るまでの約20年間、「期待されない」ことで染みついた、奇妙な「期待する」癖が抜け切れていない。
だから私は今日も、「期待しない」という魔法の言葉を胸で唱えては、日々の発見を楽しみ、自身の心の傷を癒しつつ、成長を噛みしめている。

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