スクリーンショット_2019-01-27_22

比べられたくない、でも比べないと不安

NPO法人 京都自死・自殺相談センターSottoのシンポジウムのレポートを挙げる。かなり長文。

先に断っておくが、団体の正式なレポートではなく、参加した一人のメモだと思ってもらいたい。登壇者に校正をしたもらったわけでもない。まとめるにあたって、僕のバイアスも大いにかかっていることをご了承いただきたい。

パネリストは作家の小林エリコさん。彼女は売れっ子になった今でも「死にたい」想いを抱えている当事者でもある。精神科医の松本俊彦さん。自殺対策の第一人者であり、専門は依存症。専門家の立場から、これまでの臨床経験、さらには研究調査の観点からお話されていた。Sotto代表の竹本了悟さん。団体の理念や、活動を通して感じていること、あるいは宗教者として、当事者の立場にたった視点で発言していた。コーディネーターは龍谷大学の野呂靖さん。

会場では質問用紙配布、あるは、Twitterで質問を受付けるなど、参加型の内容だった。関心のある方は、Twitterで下記ハッシュタグで検索。
#Sotto_sympo

「SNSは人と比較する頻度や強度を強めてしまう」

野呂:今回の大きなテーマは、人と比較してしまうことよって精神的に落ち込んでしまうのではないか。昨今、SNSの普及により、人と比較してケースが増えた。SNSは便利な面がありつつも、ネガティブな面もあるように感じる。

松本:少し前にSNSが炎上した。あるテレビ番組で薬物依存者の取り上げられ方に、とても違和感を覚えた。あんな覚せい剤依存症の人いない。多くの方は薬物依存者に出会ったことない。誤った認識で流れることによって、また偏見を生むことになる。Yahooに取り上げられ、コメントが2500件ぐらい付いた。ことごとく悪口。かなり折れたし、孤独感もあった。顔がみれないので、疑心暗鬼になってしまう。

小林:SNSがない時代だと批判的なコメントを言うにしても手紙を書いてわざわざ送らないといけなかった。ネット上に挙がっている人を血や肉のある人間だなと思っていないんじゃないかなと感じる。

松本:ゲームで敵をバンバン撃っているのと同じ感覚かもしれない。目の前で誰かが痛がっているわけでないし、自分になにの痛手でもない。悪気がないように想う。しかも、エスカレートしていく傾向にある。

野呂:私は人の目を気にしてしまう。よく知った人であっても何気なく挨拶したときに、なんか表情が悪いなとか、どんな風に自分のことを思っているんだろうと結構気になったりしてしまう。

竹本:そのときに調子で、過剰に人のことが気になったり、全然気にならなかったりする。仕事や人間関係が調子良いときは、少々のことでは落ち込んだりしない。だけど、調子が悪いとき、なんか周囲の人と関係性が悪いなと感じているときは、人の目が気になる。

小林:私は上司が忙しそうにしていると、自分が責められていると思ってしまう。上司は全く怒っていない。ただ、忙しいだけ。子どもの頃にいじめられた経験があり、周知の目を気にしないと生きてこれなかったこともあり、過剰に人の目を気にしてしまい、自分が悪いことをしてしまっていると思うクセがついている。信頼している職場でも、寝不足や調子が悪いときは自分を卑下してしまう。そんなことはないんだと自分に言い聞かせている。

松本:調子悪いときは、エゴサーチしてしまう。自傷行為だって分かっているけど、ついついやってしまう。傾向として、人生うまくいっていないほどエゴサーチしてしまう。人生うまくいっているときは、わざわざエゴサーチしない。精神科医だからカッコイイこと言いたいけど、人の目を気にしてしまうのは自分自身の問題。

小林:本を書くと、SNSなどで自分の書籍についてのコメントを拡散するのも営業の一つ。見たくないネガティブなコメントを目にしてしまう危険性もあるけど、仕事でもあり、やめるのは難しい。

松本:SNSのなかでもFacebookは特に自分のネガティブな意見をいわない傾向が強い。パーティーやっているとか、美味しいもの食べるとか。私はできるだけ自分のタイムラインを見ないようにしている。双方向のコミュニケーションを意図的に制限している。患者さんにもSNSと距離をとることをお勧めしたりする。

小林:Twitterは「残業つらい」とか「もう世の中やだ」とか、暗いネガティブな投稿も多いので、割と居心地がよい。

竹本:私は最近TikTokをときどき見る。投稿をするわけではないが、かわいい動物の動画を見ると癒やしになる。ただそこに批判的下品なコメントがあるとげんなりしてしまう。

野呂:昔から批判的なコメントやネガティブなメッセージはもちろんあった。ただ、いまはSNSによって瞬時に様々な情報が可視化されてしまうことで、人と比較する頻度や強度を強めてしまう現代病といえそう。

「パンツをぬげる場所」

野呂:我々は人と比較してしまう。だけど、そのときに、ぶれない自分をもっていれば良い、しっかりと自立していれば周囲に流されないという意見があります。ただ、私は、口で言うほど簡単なことじゃないと感じている。

松本:その病院の外来にきている一番オシャレな人たち、一見するとモデルのような人たちが、依存の患者さんであることが多い。自分に自信がないから、人の目を気にして、オシャレな格好をして自らを取り繕う。人とは違う格好をすることによって、自分自身の存在価値をアピールしているように感じる。さらに、依存の強い人は大きすぎる夢を抱いてるケースが少なくない。AKBに入るとか、パリコレに出るとか。それは、自分に価値がないと強く思い込み、普通の成功では社会に許容されないと感じている。大きな成果、大きな成功を成し遂げていないと自分に価値を感じられない。

小林:自分はいま本も売れて、メディアにも取り上げられて、とても幸せな状況のなはず。だけど、実際は、全然幸せな感じはない。10代の頃はイジメられて、20代の頃はずっと同人誌を書いていて、生活保護も受けた。それと比べると、いまはめっちゃ幸せなはずなのに、全然幸せになれない。出版の話も幾つかいただいた、だけど、もっともっとって思ってしまう。自分の成功を、自分自身が一番褒められていない。

松本:私も医者になってるんだから、それで良いじゃんってよく言われる。だけど、それだけでは満足できない。なにか一つ大きなことを成し遂げても、2ヶ月ぐらいすると、このままじゃ駄目だと不安にかられる。根っこのところで自分に自信がないと、しばらくすると次の不安がやってくる。

小林:成功をおさめても、そのうちそれが自分のなかで当たり前になってしまう。そうすると、次の成功が欲しくなる。結局、自分を認めることが大切なんだろうなと感じる。

竹本:私は、自分が何かをしたとか、こうなれたとか言ったところで、自分よりも優れた人なんてごまんといる。小林さんの著書を読んで、表現をすることによって自分と同じような苦しみを抱えている人に届けたいという思いが伝わってきた。自分が成功をおさめるだけではなくて、誰かに届けたいってなると、ちょっと意識が変わるように思う。

小林:確かに、同じように苦しんでる人に届けたいっていうのは動機の一つ。一発大きく売れるよりも息の長い作家になりたい。

松本:承認欲求が次々にでてきてしまうのが人間。根っこの自信があるに越したことはないと思うけど、特に幼少期のトラウマなんかはそう簡単に拭えない。売れっ子の芸人のインタビューを読んでいると、多くの人が自分の非モテ時代について言う。自分の人生にダメ出しをしている。それがパワーになって、大きな成功をおさめている面もある。

竹本:私は昔イジメられたときのことを急に思い出す。引きずっているんだなって感じる。Sottoの取り組みは、死にたい想いを抱えいていても、安心して、そこに居ることのできる居場所をつくりたい。自己肯定感をあげる、成長、自己実現ということばかりを求めると、結局ゴールがない。鍛えて、鍛えて、鍛えて、常に新しい強い自分をつくっていくことになると際限がないと感じる。

松本:特に男性は、職場のヒエラルキーのなかで居場所をつくろうとする。そういった男性はリタイアすると、急に引きこもりになるケースが少なくない。所属もなく、名刺もなく、自分の立ち位置がなく、居場所がない。依存症の患者さんであるのが、それなりの地位を築いたものの、リタイアして、特にすることがなく、また家以外に居場所がなく、昼間から酒のんで、引き込まって、うつになる。非モテ時代の駄目な自分をさらけだすことのできる場所、パンツをぬげる場所が重要だなと感じている。

野呂:先ほど、松本先生から、過去のトラウマは拭えないって話があった。今でもフッとしたきに昔の失敗体験とかを思いだしたり、嫌なことが続いたりすると、仕事の帰りに、ついつい泣けてくる。

竹本;私も最近泣けるようになった。よくこんな映画で泣けるなって思うぐらい、ちょっとしたことで泣けてくる。嫌なことがあると泣けてくる。昔はつらいことがあったら消費行動に走ってしまっていたが、最近は落ち着いたように思う。

松本:私は泣かない、泣けない。昔の失敗や嫌な経験は思い出さないようにしている。過去の経験を受け入れるほどの度量がまだできあがっていないように感じる。泣けてくるというのは、過去の経験と向き合っているのかもしれない。精神科にきている人のなかには、みんな知っているような会社で社会的に成功をおさめている人も少なくない。対外的にはとても評価されている、過去の経験やトラウマがエネルギーになって成功をおさめている。それこそ、対外的な評価を気にして、もっと大きな成功をおさめるために、次々と自己実現を追い求めている。だけど、全然幸せそうじゃない。

竹本:私も褒められると、もちろん嬉しいし、社会的な評価は気にしてしまう。だけど、熱狂しないように意識している。最近は主体性が大事だなって強く感じるようになった。自分のやりたいことをやる。人と比較したことを基準にしてしまうと、自分のやりたいこととはズレるように感じる。自分基準じゃない。

「なんで生きているのかの納得できる答えをみつけるために生きている」

野呂:会場からの質問。「なぜ、この苦しい人生を生きなければならないのか。生きることは他者によってかせられる責務のように感じている」。

小林:私は、もう自分じゃ抱えきれなくなって、すごくつらくて、自殺未遂をした経験がある。自殺未遂をしたら、友達や支援してくれた人から、「許さない」とか、「裏切った」って言われた経験がある。すごくつらくて未遂したのに、追い打ちをかけるように責められた。私は自殺を悪いとは思えない。もうどうすることもできずに自殺してしまった人を、死んでからも責め続けるのは、さすがつらいなと思う。私が生きているのは死ねなかったから。生きている意味なんて分からない。フランクルは、人生の方が問いかけてくると言った。なんで生きているのかの納得できる答えをみつけるために生きているように感じる。

野呂:電話相談のなかで、生きている意味ってあるんでしょうかって聞かれることが多かった。どう答えて良いのか困ったが、生きている意味をどうにか掴まないと見つけないと生きていられないほどにつらいんだなと感じた。

松本:同じように聞かれる。ある性被害の患者さんが、自分は存在価値がないからこういう被害にあってしまった。しかも、私は汚れしてまっている。生きる権利なんてないし、生きていてはいけないと言っていたことが印象に残っている。多くの人が生きる意味なんて考えない。そこまで深い問いをもつこともなく、惰性で生きている人が多い。生きる意味を問うているときは不健康ともいえる。元気なときに調子が良いときに生きる意味なんて考えない。私個人としては、生きる意味なんてないと思っている。この人生は大きなことを成し遂げるためには短いし、何もしないには長すぎる。

竹本:画一的な、生きる意味の答えなんてないと思う。ただ、生きる意味を問うことは人生に深みをもたらし、精神的な豊かさになるように思う。惰性で生きる意味を考えず、問題の先延ばしをしてしまうと、急に死が迫ってきて、死ぬ直前になってしまったときに、生きる意味を問うても、時すでに遅し。絶望のなかで死んでいかねばならない。ただ、生きる意味を考えるさいに、安心安全な場所で問うことが大切な気がする。正解不正解があるわけではないので、そのときどきの自分の考えを受け入れてくれるような場所や人と考えた方が良い。

「友達のようにゆるく関わってくれる存在が心地よかった」

野呂:会場からの質問。「死にたいと言われることは迷惑ですか?負担ですか?」

松本:一人で抱えるにはつらすぎる。誰かに相談してほしい、語ってほしい。自殺された方の統計をみると、亡くなる数ヶ月前とかは、死にたいっていう想いを周囲の人にもらしている。しかし、 亡くなる2週間前ぐらいから、誰にも相談したり死にたい想い言わなくなってしまう。それは想像するに、実際に誰かに相談しても自分の気持ちを分かってくれなかったという経験があったのだと考えられる。死にたいって誰にでも相談できることではない。相談する方も、誰に言うか選んでいる。だから、死にたいって相談された方は、ある意味選ばれている人。それだけ信頼されていることの証左。死にたいってこぼすだけで楽になる。

竹本:死にたいよりも、私めっちゃ幸せだ!という方が、よっぽどうっとおしい。「死にたい」だけが特別なことになってしまっているように思う。私は、死にたいって相談されると、その人の本音に触れられたような感じがして温かさを感じる。その人の内面から出てきた本音の言葉に体温を感じる。

小林:私は過去に人に死にたいって言いまくってしまったから、最近はひとりごとで言ってる。仕事から帰って、あぁーしんどかったもう死にたい、って。それでも少しは楽になる。

野呂:会場からの質問。「希死念慮へのむやみな共感はリスクが高まる気がしますが、どのように相談にのればよいのでしょうか?」

松本:共感することよるリスクが高まる、という質問者の意図が分からいなので質問に直接応答するのが難しい。死にたいって相談するということは、いまの現状をどうにかしたいって思いがある。私は、死にたい、自殺を良し悪しの問題では考えていない。死にたいっていうことは良いとか悪いとかじゃなくて、死にたいって思うほどにしんどいってこと。その言葉の背景になにがあるのかを教えてくれ。それを解決するために、どういう対応があるのか、あるいはどこににつなげば良いのかが見えてくる。一方で、支援の場所につないだところで何の解決にもならないことだってある。死にたいと思わせるのは、もしかすると過去のトラウマかもしれない。死にたい思いを綺麗さっぱりに無くすことに一生懸命になるよりも、その死にたい想いを分かってくれる人がいることを探す方が大切。

小林:私は色んな人にたくさん死にたいと言ってきた。そうやって言ってきて分かることは、ただ漫然と孤独で死にたいと思うのであって、具体的な解決を示して欲しかったわけじゃない。ただただ聞いてほしかった。いかにも支援者のような、あなたを助けるのが私の仕事ですっていう距離感じゃなくて、友達のようにゆるく関わってくれる存在が心地よかった。

竹本:質問者のリスクは何を指しているのか。自殺してしまうことがリスクなのか、その自身が傷ついてしまうことがリスクなのか。私たちの団体で一番あってはならないこと、これだけはしちゃいけないことは、一人ぼっちにしてしまうこと。私たちは、自死・自殺にまつわる苦悩を抱える方を一人ぼっちにしたくない。絶望的な孤独になってはいけないと思っている。医療や国の政策は問題解決型。問題を一つずつ潰していけば解決する。半分は正解だと思っているが、それだけでは十分じゃない。一番の課題は孤独である。その孤独感が和らぐことによってこそ、問題解決の取り組みが十分に発揮されると思う。

松本:孤独感を抱える若者たちは、オレ、孤独なんすっよ!とは絶対に言わない。薬物依存の若者を調査してみると、彼らに薬物をはじめたきっかけを聞くと「暇で」っていう。その背景には、家庭の問題や、過去の経験から人間関係を築くのが難しい人も多い。「暇で」の言葉の背景には寂しさであったり、孤独感がある。SNSで、救われている人も大勢いるとは思っている。けれど、リアルな場面でのつながりがいちじるしく薄くなっていることは心配。

竹本:死に方の良し悪しについて、あーだこーだ言える立場にない。自殺の善悪を問うことなんかできないと思ってる。死にたい思いを持っている人は、いまとてもしんどい想いを抱えている。その想いを少しでも和らげるにはどうすれば良いのかと考えながら活動している。

松本:「死にたい」と相談されると、その言葉のインパクトに引っ張られる。だから、死んじゃ駄目、とついつい言ってしまう。だけど、いま急に死にたくなったわけじゃない。死にたいに追い込まれるまでの要因であったり、かろうじてその人を生きさせてきたその要因について、一緒に考えることが大切。

「自分の親を絶対化せずに、相対化してみる」

野呂:会場からの質問。「他者と比較してしまって辛くなってしまうのは社会の影響だけでしょうか?親との関係はどうでしょうか?親の躾の中でつくられるものは?」

松本:依存症の患者さんの様子を見ていると、家族は万病の元ともいえる。親のメッセージやしつけは、偏った価値観が刷り込まれていることも多い。自分の親を絶対化せずに、相対化してみる。親から逃げることも大事。

小林:私の父親はアルコール中毒だった。日中は仕事にいってるけど、毎日ベロベロになって帰ってくるし、母親にも暴力をふるってた。そのなかで育つとやっぱり歪んでくる。ずっと家が嫌で、家から出れない自分が嫌だった。早くお金を稼いで家をでることを目指した。家庭のことを外にだすのが恥ずかしくて言えない。家庭ほど外からの空気が入ってこない。あのときの自分に、大人になれば、楽になるからって言ってあげたい。嫌な目にあわされたし、嫌なところはいっぱいあるけど、人としては嫌いになれない。酔っ払う父は嫌だったけど、酔っ払っていない父は優しかった。絶縁して10年ぐらい経つけど、最近会いたい気持ちが出てきた。

松本:患者さんの話を聞いていると、親からつらい、ひどいことをされているにも関わらず、親のことを好きな傾向が強い。会いたい想いは大切にしてほしいけど、会わない方がよい。大事な思い出を大切にしまっている方が良かったりもする。だから、無理に会おうとしないことも良いかなと思う。

竹本:ネアンデルタール人と、クロマニヨン人を比較した話が興味深かった。我々人類の祖先はクロマニヨン人と言われている。ネアンデルタール人とクロマニヨン人を比較すると、ネアンデルタール人の方が身体能力も強く、利口だったと言われている。にも関わらず、ネアンデルタール人は滅びて、クロマニヨン人が生き抜いたのか。その一つのヒントに、ネアンデルタール人は、家族という単位で行動していたそう。クロマニヨン人は集落の単位だった。家族の単位にこだわる必要はない、生存戦略でみると家族単位は弱い。ネアンデルタール人は強さを武器にするのに対し、クロマニヨン人は弱さを開示しつながりを拡げていった。

松本:特に都市部は核家族化されている。ある意味、ネアンデルタール人を模倣して、滅びに近づいているのもしれない。

「哲学や宗教など過去の先人にたずねてみる」

野呂:会場からの質問。「宗教によって救われることもあるのでないかと思いますが、いかがでしょうか?」

小林:私は、一時期、キリスト教や仏教の書物を読みあさった。自分の気持ちは少しでも楽になる考え方を知りたかった。色々と読んだけど仏教が肌にあった。中庸の教え、ほどほどがよい。ブッタが苦行をやめて悟ったというエピソードを知り、頑張りすぎなくて良いんだって思えた。

竹本:宗教は智慧の集積だと思う。社会のなかでは考えないような、死んだらどうなるんだろうとか、生きる意味ってなんだろうということをずっと思考してきたのが宗教。自分一人で悶々と考えるよりも、哲学や宗教など過去の先人にたずねてみる。それによって、自分の思考の枠を越えて、あらたな気付きや学びに出会えると思う。

松本:イスラーム圏内は、教えで自殺は禁じられているから、宗教が抑止になって自殺は少ないと言われるが、私その短絡的な見方には疑問をもっている。イスラーム圏内は自殺がタブー視されているため、違うトピックで人数をカウントされている可能性があると考える。だから、宗教は自殺は防げるという短絡的な結びつけは難しい。自殺はがタブー視されることによって、外には出てはいけない社会になっている。自殺をタブー視してしまうキャンペーンには反対。一方で、過酷な時代、この生きづらい世の中で宗教が支えになったこともあると思う。

「自立とは依存先を増やすこと」

野呂:会場からの質問。「信頼する人に相談することで、その人に依存的になってしまうことがあります。どうすれば良いでしょうか?」

松本:依存というとネガティブなイメージが付きまとうが、決して悪いことではない。健全な依存は積極的にした方が良い。小児科医である熊谷晋一郎さんの言葉、「自立とは依存先を増やすこと」。依存先を増やすことによって、健全な依存先を増やすことになる。これもまた熊谷さんの言葉、「希望とは絶望を分かち合うこと」。

小林:周囲の目を気にしてしまうことも分かるけど、やっぱりSOSを出すって大切なことだと思う。

松本:大学の自殺率を調査していると、学園都市など大学を人里離れたような綺麗なところに出すと自殺率は高くなる傾向がある。逆に、都会の喧騒ある方だと、学校をすぐにサボれたり、遊びにいけたりするため自殺率は低い。依存先を複数もっていることは、この生きづらい世の中を生きるうえでは重要だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?