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「あんぎお日記」(1991年12月10日)

十二月十日(火)
 こんな夢を見た。
 マーカス・ミラーがニューヨークのフュージョンバンドでベースを弾かないか、と私に話している。ステップス・アヘッドとか、二、三あるよ、と言う。そういうバンドにあまり興味がないなあというと、いいからいいからとしきりに勧めてくる。
 教室の机に座っている。ふと気づくと机の上に一枚の紙がある。イタリア語らしき文字が並ぶ。ああイタリア語は読めないや、とはじめから読もうとする努力を放棄して、後ろの席に座っていた知り合いに読んでもらう。「今中国の~湾にいて、約束の時間に到着することはできない」という内容。

 仙台市北部の住宅地の坂道をバスがのぼっていく。学生向けのアパートが林立するなか、かなり急な坂道をのぼっていく。急な坂道はなかなか終わらず、こんな角度でこんなに長い時間は知っていたらかなり高い山の頂上まで行くのだなあと考えている。隣に弟が居る。
 女の子の身体って魚みたいだ。ボッシュの描く半魚人が思い浮かぶ。上半身が魚で下半身が人間の。
 血液検査を待つ間に『精神病理からみる現代思想』を読了。他人の論文を寄せ集めた学生のレポートみたいな本。
 マキシ・プリーストを聴く。この入院生活中に合計で何回聴くことになるのか。
 東京というアジア的過剰の中で、マスメディアの力を使わずに個人が突出することの困難性。
 どこまで遠くに行けるか。これが私の人生のテーマだ。
 校正の仕事の事務所に電話する。こちらが入院していると知っているのに「明日~の仕事しない」と言ってくる。
 だんだん目が良くなってきている。ものの輪郭がはっきりと見えるだけで、肉体的な快感を感じている。
『芽むしり 仔撃ち』(大江健三郎)読了。これが小説というものでしょ? 衝撃。筆力。昭和四十年五月三十一日発行、平成三年五月十日三十二刷。どれだけの人がこの本を読んだのか。その影響力。
 あの海辺の町での日々を思い出す。システムによるアウトサイダーの抹殺。あの町を許したといっても、あの生活を忘れたわけではない。自己の正当性を信じて疑わない者に対する絶望と怒りを今まで何度、繰り返し味わってきたか。
 啓示となりうる、直接的な唯一の、というものではないにせよ、ひとつの萌芽として、私の人生を方向づける風。あなたそのもの、といってもいい、システムに準じない生もあるのだ。私自身、困惑しながらも途方に暮れながらもそういったシステムから逸脱しようと努力してきたのではなかったのか。あの東京での日々は。
 浅田彰のいうように「低エネルギーで反【アンチ】に囚われているのではなく高エネルギー、高速で回転する球体として」。そのためには勉強と、脚力と。態度と。意志と。したたかさ。
 「アウトサイダーは一人ぼっちで立つ強さを持たなければならない。ゴッホやニーチェなど十九世紀のアウトサイダーたちは、その強さを持たず、自己憐憫により破壊されてしまった。私はアウトサイダーとして生きてなおかつ自己憐憫に押しつぶされないことを証明したい。それが私の人生の目的ですね」(コリン・ウィルソン、今日の河北新報)
 みな、社会に出ていくための準備ができているかどうか、なんてことをほんのわずかも意識しないうちに、そのあやふやな不定形な世界の中での生活が始まってしまう。やがてその生活はループをつくり、繰り返しが始まる。やがて傷みはじめるエンドレステープ。
 同室の患者。老人たち。年いってから家族に棄て置かれる、あるいは邪険にされる一生とは。私にはそのような家族を冷酷だと責める気持ちはない。ただ哀しい。
 H先生はじめドクター三人、両親で病気ならびに手術に関する説明会。
 この日記を読み返す。ペンで書いた部分は筆で書いた部分のようには読めない。訴求力がない。
 ラジオで基礎、続基礎、上級基礎英語を続けて聞いている。
 榊原さんと久しぶりに話す。MLPを呼ぶ企画。仙台での演奏会について。


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