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ヒヤマケンタロウの妊娠を見て

最近Netflixで話題になっている"ヒヤマケンタロウの妊娠"を見た。

そこで幸せについて改めるきっかけになった。

ストーリーは広告代理店に勤務するヒヤマケンタロウが男なのに妊娠するという奇怪な設定だが、女性が普段感じる生きづらさを男性に置き換えた時に女性目線を体感したり、男性が妊娠することで感じる女性の生きづらさが表現されていたり、今までにはない素晴らしい作品となっている。

今まで女性が妊娠をして子供を産むと言うことは、そこまで大変な視点で見られることはなかったと思う。同じ女性としても感じる。

しかし、32歳となった今周りの友人が妊娠することで、出産の大変さや、育児の大変さを実感することが増えた。

中には骨盤を骨折して大量出血を起こして1ヶ月ほど歩けない友人もいたので、出産はとんでもなく大事だ。


ドラマの中には、私たちの生活にもたまに出てくる独特な人物がいる。理解を示しているフリだけのパワハラ上司、戦後の幸せ像に取り憑かれた地方出身の両親、教養のない中学時代の同級生など。

もちろん自分を特別に思っているわけではなく、国が違うくらいの当たり前の幸せの差が地方と都市圏では違うのだ。そして、私が生きている目の前にも現れていると感じるからだ。

ドラマの中の一つの1シーンに、残念ながら流産してしまう夫婦が現れた。けれども、父親が子供も産めなくなって、なんだかホッとしたとこぼす母親の本音が見えた。

やはりまだまだ私たちは、差別は良くないと思いながらもどこかで誰かを差別したり受け入れ難い思想がある。

これはきっと日本の島国としてのジレンマであり、今なお存在し続ける呪いなのだと思う。

ドラマの中には、子供は一緒に育てるけど、結婚すると苗字が変わるから結婚はしないなど、それぞれの性を持って我慢していたことにしっかりと向き合うシーンがたくさん含まれている。

普通に見ていても毎回のストーリーの中でのあるあると、自分の思い込みの激しさに気付かされることもある。まあ、大人になってみないとわからないことも多いけれども、ここまで各々のキャラクターや心情を詳細に描写できているクオリティーの高さはNetflixならではの素晴らしさであると思う。

人にはそれぞれ自分の正義があって、その正義を柔らかく通しながらストレスなくゆるりと生きていけたらいいものだが、まだまだ私には難しそうだ。

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