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イタリア:デザイン起業家列伝(4/15)

今回は、プラスチックのカステッリィと呼ばれた、Kartellを創業したジュリオ・カステッリ(Giulio Castelli)を取り上げましょう。冒頭の写真(左)でカステッリと踊っているのは、G.カステッリの妻でデザイナーであるアンナ・カステッリ・フェッリエーリ(Anna Castelli Ferrieri)です。なお、本noteも拙著『イタリアのデザイン思考とデザイン経営』の第5章に基づいています。

1 創業者:プラスチックのカステッリィ

ジュリオ・カステッリ(Giulio Castelli)がカルテルを創業したのは1949年でした。デザイン起業家としてのカステッリの人生にとって幸運なことが二つあり、その一つは、ノーベル化学賞を受賞したジュリオ・ナッタ(Giulio Natta)の指導の下、ミラノ工科大でポリプロピレンの触媒作用を学んだことで、もう一つは、フランコ・アルビーニ(Franco Albini)、マルコ・ザヌーゾ、イグナツゥイオ・ガルデッラ(Ignazio Gardella)、ピエロ・ボットーニ(Piero Bottoni)、エルネスト・ロジャースそしてカスティリオーニ兄弟といった将来のイタリアンデザインを担うデザイナーらと知己を得たことです。
カルテル社が家庭用品に参入したのは1951年で、1979年には撤退することになりますが、その要因の一つに、市場を支配している卸売業者の求めに応じて競合他社が軽くて低価格な製品を提供したことが挙げられます。クオリティが高くて費用のかさむカルテル社の製品を卸売業者は販売したがらなかったのでした(カルテル社に限らず、技術革新の成果を活かしてクオリティの高い食器や調理器具を提供するアレッシのような企業にとっても、足を引っ張ったのは卸売業者であったとカステッリは述べています)。
カステッリは、プラスチックがクオリティの高い素材になり得るとイタリアで考えた最初の人であり、“プラスチックのカステッリ(Castelli di plastica)”と呼ばれていました。1958年には、製品開発のための研究所を作り、ガラス・鋼・木材・金属といった伝統的な素材に代わって、プラスチック素材で実現可能なモノを研究対象としました。プラスチックは安っぽいチープな素材とされていましたが、人類の月面旅行に強固なポリマーが役立ったように、自然素材の代用品ではなく、可能性として固有の品格・気品を備え得るものであり―このようなことを考えていた起業家は当時存在しなかったため、カステッリは孤独であった―、ポリメチルメタクリレートのシートを真空成型することに基づき、1958年には照明器具分野に進出したということです。また、ポリプロピレンを用いた射出成型による照明器具も、カルテル社で初めて製造されましたが、これらの照明器具の輸出は、流通チャネルを築くことの困難さに加えて各国の電気に関する複雑な規制という問題もあって、1981年には撤退することとなった―グローバル化の時代を考えると、この判断は間違っていたとカステッリは述べています。なお、照明器具以外に、外壁タイルなどの建材分野(1963年)や実験器具分野(1958年)にも進出しており、これは現在まで続いています。この点について、彼は次のように証言しています。
「1970年から80年代には、南アフリカ・米国・ブラジル・日本等でライセンス供与の形でブランドを強化しようと思ったが、運輸・関税等の規制が売り上げの増大を許さず、上手く行かなかった。今は、グローバル化の時代なので、諦めるべきではなかったと思う。カッシーナ・フロス(Flos)やアルフレックス(Arflex)は、ライセンスを供与する仕方で海外市場を開拓しようとしたが、カルテルは、ライセンス供与ではなく、鋳型とノウハウの提供で開拓しようとした。そうこうするうちに、70歳になったので、1988年に若いクラウディオ・ルーティに経営をまかせることにした。義理の息子である彼は、ファッション・ブランドのベルサーチェを辞めたばかりであった。ベルサーチェは、カルテルの買収を希望していた。」

以下のカステッリィの共起ネットワーク図には、ザヌーソ・ポリプロピレン・家庭用品・チェントロカッパといった名前が出現しています。

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2 プラスチックに詩情を


最初のヒット製品は、ピレッリの商標を付けて売り出した、自動車の屋根に取り付けるスキー板用のキャリーでしたが、高速道路の開通に伴い、時速100km以上で走行するようになると、安全性の面から自動車の屋根にネットを張って荷物を運ぶような旅行スタイルが下火になりました。カステッリは、バイエル社やイタリアのアニック社を訪問してプラスチックの可能性について調べたりしていましたが、イギリスの見本市でポリエチレンの洗面器を見かけた際、それまで用いられていた木材や金属ではなく、新たにプラスチックを材料として用いつつ、品格を備えたバケツ・洗面器・風呂桶などの家庭用品(casalinghi)を創って、インテリアとしての住居内部の景観を活気に満ち溢れるように刷新したいと考えるようになりました。品格を備えたプラスチックの例として、たとえば、マルコ・ザヌーゾがデザインした子供用の椅子(セッジョリーナ;seggiolina)がある。この椅子は、鉄製の脚を持ちながらも椅子の座席シートが薄いプラスチックだと、惨めな(orribile)感じがするとカステッリには思われたので、厚みを持たせて重い質感(マッス;立体感)を感じさせたいとザヌーゾに相談した結果生まれたものです。要するに、材料としてのプラスチックを節約しようとすると安っぽくなることを避けたわけです。その後、セッジョリーナを量産するため、ミラノのデザイナーが当時頼りにしていた著名なモデリスタのジョヴァンニ・サッキに、木材による雛形見本の制作を依頼して量産に漕ぎ着けたが、経済的に成功したわけではなかったと証言しています。日本の柔らかい木とは異なり、西洋の木は堅くどっしりとしているのが通例ですが、堅木の大木は18世紀にはイタリアでも少なくなり、木製の家具は芸術作品のように非常に高価なものでした。木の世界を離脱してプラスチックや金属を原料とする工業製品の世界へと移行する際、工業製品の雛形見本となるような「芸術作品としての木の模型」をサッキやギャンダなどの著名なモデラーに制作してもらい、木製の模型が湛えている芸術的価値―そこには木の温もり・質感も含まれる―を工業製品に移転するというのが、「工業的なMade in Italy製品」の一つの特長ですが、この点については前のnote「メード・イン・イタリー成立の秘密を解き明かす」で説明した通りです。

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カステッリにとって、真に挑戦的なプロジェクトは、ジョエ・コロンボ(Joe Colombo)がデザインした椅子でした。カステッリは次のように述べています。
「当時、全部プラスチックでできた大人用の椅子は存在しなかったが、1967年に鋳型のための大きな投資を行い、年間2万5千セット作ることを考えた。妥当な素材に的を絞ることは、簡単なマネジメントではない。真の挑戦は、椅子を直立させるための鋳型に関するものでなかった。コロンボの椅子は、アクリロニトリル(acrilonitrile)―ブタジエン(butadiene)―スチレン(stirene)でできており、それは、ガソリンのような溶解力のあるものに対して抵抗があるため、自動車産業のために研究されたような、複数のプラスチック素材の初めての合成であった。確かにそれは椅子を作るために考案されたものではなかったが、ブタジエンとアクリロニトリルの配合割合(%)―それは製品の外観表面を輝かせる―及びポリスレン(スチロール樹脂)の配合割合―それはプラスチック同士を連結する要素である―を変えることで、最初の鋳型作りに成功した。こうして出来上がった椅子は、固定され自ら起きて屹立するものであったが、その素材は、経年劣化し、また、紫外線に弱かった―これは、屋外環境を考慮したプラスチック製の椅子としては不都合な事態であった。当時、ポリプロピレンはまだ存在せず、90年代になって専らヨーロッパでポリプロピレン製の屋外向け椅子を500万セット製造することができるようになった。充填されたポリプロピレンに至る前、バイエル社はナイロンの活用を提案し、それはちょっと高価だったが、非常に美しかった。バイエル社自ら新聞のコッリエーレ・デッラ・セーラ(Corriere della Sera)の一枠を買い取り、ナイロン製のコロンボの椅子を提示した。その価格は少し高価であったが、出来上がった姿は魅力的であった―破壊できず強固で表面は美しかった。しかしながら、椅子の角に知られていない問題が生じた。ナイロンは、吸湿性(igroscopico)なので、水に濡れたりすると堅さを失って壊れはしなかったが脚が劇的に曲がった―あたかも、ゴム製の椅子に座っているかのようであった。ポリプロピレン製にして、全ての問題が解決した。」
この証言から高級感を湛えたプラスチックを実現するには、物体の表面が輝くような(brillante)質感を出す必要があるとカステッリが考えていることが分かります
コロンボの椅子以外にカステッリの思い出に残っているプロジェクトとして、ジーノ・コロンビーニ(Gino Colombini)がデザインしたジューサーや灰皿兼ゴミ箱―これは灰皿を外せば傘立てにもなるという優れものです―があります。ジューサーはあまり売れなかったが、灰皿兼ゴミ箱はよく売れたということです。さらに、カステッリの妻でデザイナーであるアンナ・カステッリ・フェッリエーリ(Anna Castelli Ferrieri)がデザインした収納家具(Componibili)もよく売れました。
デザインを文化として捉えるカステッリは、クオリティの高いプラスチックを住居内部に持ち込むことをテーマとした“クオリティ(Qualità)”という雑誌を1955年に自ら創刊している。また、1972年には、デザインとコミュニケーションに関する独立研究所であるチェントロカッパ(Centrokappa)を設立すると同時に、ニューヨークの現代美術館で開催されたItaly:New Domestic Landscapeに出展しています。ミケーレ・デルッキ、パオラ・ナヴォーネ(Paola Navone)、フランコ・ラッジ(Franco Raggi)、アルベルト・メダらが参加したチェントロカッパは、1978年に“1950年代のイタリアンデザイン”展を催し、ルーチョ・フォンターナの“光る彫刻”などを再現し、1972年から1985年まで若手デザイナーにとって参照基準となったということです。1970年代後半は、メンディーニがModo誌の編集長を務めている時代でしたが、フルー、B&B、エラム、バッセッティなど多くの企業がそのコミュニケーション(グラフィックス)をチェントロカッパに委託しました。カステッリによれば、1954年のコンパッソ・ドーロ賞の設立と1956年のインダストリアルデザイン協会の設立―彼自身も創設者の一人である―が、戦後のイタリアンデザインの発展にとって重要な出来事であったということです。
カステッリにとって、デザインとは、「社会・文化的な要請の急激な変化を解釈する際に、素材の経済性とプロセスの効率性を目的とした新たな生産テクノロジーの適用として解釈されるような、“革新的な性格”を備えた製品を作ること」であり、また、インダストリアルデザインについて次のように述べている。
私にとってインダストリアルデザインとは、デザイン・プロセス全体を意味しており、創造的な活動と経済的な活動との間に橋を架け、製品を構想してからユーザーの手に至るまで、言い換えれば、何を製造するかの選択からテクノロジー上の研究や市場調査そして製品の広告宣伝と販売に至るまでのプロセス全体を意味している。結果として、プロジェクトの有効性に関する判断要素は、複雑であると同時に、美的なクオリティ以外に経済・組織・技術・社会的なパラメーターにかかわるのであり、プラスチックの場合は量産性も考慮される。」
カステッリはデザイナーにもエンジニアにもならず、デザイン起業家となりましたが、これは彼がプロジェクトする人々を指揮するのが好きだったからであり、言い換えれば、それぞれ異なる言語を喋っているデザイナーと技術者の両者を理解でき、また、両者の間を媒介するような仕事を遂行するのが好きだったからです。彼は化学のエンジニアとして、自らの触媒機能・解決を促進する機能を愛していました。
最後に彼は、デザイン経営を実践する企業の特徴について次のように語っています。
「私は製造の奴隷になりたくない。カルテル方式の経営とは、企業内部でプロジェクト遂行、テクノロジー探求、マーケティングを行い、企業外部で鋳型(押し抜き成型)の実現と製造を行うというものである。それは正しい選択で、今でもアクチュアリティがある。」

3.二代目:クラウディオ・ルーティ


次にクラウディオ・ルーティ(Claudio Luti)の証言に移りましょう。
ルーティは、ミラノカトリック大学で経済学を専攻した後、会計士事務所を経てベルサーチェのCEOとなり、カステッリ社の経営をまかされることになりました。ファッションと家具ビジネスを比較すると、ファッションでは6か月毎に新作コレクションを出すので、前のコレクションが失敗しても、半年後にまた勝負できるが、家具ビジネスでは、流通やコミュニケーションの力で、“偽物を本物として押し通す(cotrabbandare)”ことはできないということです―というのも製品が市場に溢れかえっているため、紛い物であるかどうかをユーザーに直ちに見抜かれるからです。他方、ファッションでは、流通網を半年以内に再構築できるし、極めて短い時間で自分自身のコレクションをコミュニケーションすることができるということです。ファッションとは異なり、市場に留まるためには、流通に力を入れるのではなく、カルテル社のカタログに載せている製品を刷新しなければならないと判断したルーティは、カルテル社の歴史を踏まえ、スタルクやマジストレッティそしてチッテリオとの対話を通じて、クオリティが高くて革新的な長寿命製品を扱うようにカタログを改訂しました。以下の図3のルーティの共起ネットワーク図には、そういっマジストレッティやスタルクという名が登場しています。

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ルーティによれば、1980年代のプラスチックのイメージは、“チープ”なもので、言い換えれば、極限まで薄く、肋材として用いた場合には曲がってしまい、細部への注意は払われず、低コストなものでした。革新的な性質と色彩を備え得る、素材としてのプラスチックの多能性は忘れ去られていたのです。プラスチックの可能性を再認識させてくれたのが、フィリップ・スタルクが1988年にデザインしたドクター・グロブ(Dr.Glob)という椅子で、これは、光沢感があるような表面の仕上げを行わず、淡いパステルカラーを基本色とするような当時としては有り得ない色調を施し、手ごたえのある厚みに加えて丸みを帯びつつもくっきりとした角を備え、プラスチック以外の金属などの素材とプラスチックを同時に使うものでした。プラスチックの可能性を探っていた当時、新製品には独特の色調を施すのが常であり、ルーティは、「スタルクが日本から持ち帰った見本があったのだが、対応するパントーネ色がなかったので、素材の取引業者に相談したところ、日本からの見本に見られる淡いパステルカラーを提供してくれた。」と証言しています―ベネトンに代表されるような彩度の高い原色ではなく、日本の淡いパステルカラーを基本色とすることは当時として画期的なことであった。色調面での革新に加えて、プラスチック以外の金属などの素材とプラスチック素材を組み合わせること、写真製版の特殊技術を適用して得られた「光沢を欠いた不透明なプラスチック」、タルカムパウダーを基本とするようなプラスチックの添加剤、といった方面での革新も探求したということです。そのほか、透明なプラスチックというテーマの下、繻子のような光沢を持った透明な表面を備えた椅子を実現したり、様々なタイプのテクスチャの作成や、ポリカードネート(policarbonato)を使って表面のクオリティを向上させるような取り組みを行った結果、現在のカルテル社のカタログには、寄せ木張りの床(Parquet)製品が掲載されています。
スタルクに続いて、チッテリオがキャビン(ワゴン)や引き出し付き整理棚(cassettiere)などをデザインしたのですが、費用がかさむので技術者の意見は厚さを6mmにすることに反対であった―しかし、プラスチックの表面の知覚が、触知可能で聴覚上の刺激を与えるようでなければならないと考え、技術者の意見を退けました。引き出しを開け閉めする時に響く音が、メルセデスベンツのドアを閉めるときの乾いた音(il suono secco)であるようにしたかったとルーティは述べています。
また、マジストレッティがデザインしたマウナケア(Mauna-Kea)[図2]―これはハワイ諸島にあるマウナケアという火山をイメージした椅子です―は、カラー及び構造上の組み合わせから160通りのパターンを選ぶことができ、ジャストインタイム方式を採用しているため注文から1週間で届くということです。中国でコピーされたマウナケアを調べたところ、9千回の打撃で壊れたが、オリジナルのマウナケアは壊れるまで50万回の打撃が必要だったとも述べています。
ルーティは、デザイン・プロジェクトの進め方について次のように証言しています。
最初に選定するのは、製品ではなくデザイナーであり、技術者との打ち合わせは、デザイナーとのミーティングの後である。有名デザイナーと協働したとしても、採用するのは2割のプロジェクトで、後りの8割は捨てる―これを我々は大度(物惜しみしないこと)の徳(generosita)と呼んでいる。優秀なデザイナーをスカウトするのは大変難しい―但し(デザイン起業家である)カッペリーニは、そういった嗅覚・勘を備えているのだが。なお、リスクとビジョンを我々と共有して楽しんでくれるサプライヤーが存在するのがイタリアの特長であり、また、製造拠点を海外に移すことは考えていない。というのも、製造途中で白紙に戻すこともあるため、海外の製造業者と協業することは難しいからである。わたしは、1年に一つづつ新作の椅子を市場に投入するが、モデル同士でかたち(フォルム)の共食い(カニバリゼーション)が起きないか、いつも心配している―椅子というのは、家具ビジネスの分野で数量としては最も多く売れる商品である。」
そしてルーティは、マーケティングについて次のように述べている。
「デザイン経営を行う企業では、マーケティング・マネージャーの業務は少ない。マーケティング調査の結果であるような製品を作ることは私にとって無駄である―というのも、常に二番手・フォロワーになってしまうだろうから。プラスチック製の最初のソファーを実現し、最初のプラスチック塗装を考案するのが私の役割だ。」
なお、カルテルの店舗やカタログの内容は生活様式の展示を意識したものとなっており、具体的には、ユーザーの住居内部の景観に似せているため、新築された住居のためのカラフルな椅子を四つ購入することができるだけでなく、今ある椅子を置き換えるようなこともシミュレーションできる仕組みになっているということです。

4 終わりに

1958年のスチレンの唄(Le Chant du Styrène )というドキュメンタリー(*)は、小説家レイモン・クノーの言葉とともにプラスチックが製造されているプロセスを追ったものですが、本noteでプラスチックに詩情を吹き込む挑戦を行ったG.カステッリの起業家魂を感じることができるでしょう。プラスチックに詩情を吹き込むという点では、後に紹介するラミネートに詩情を吹き込んだアベット・ラミナーティ社の取り組みも同様です。プラスチックでさえ、デザイン起業家の手にかかるとファンタジー溢れるものになるのです(特に表面の光沢は重要です)。本noteにも、デザイン経営を実践する際の様々なヒントが散りばめられており、たとえばマーケティングを重視するとフォロワーになってしまう、といったルーティの言葉は、他のデザイン起業家からもよく聞かれるものです。なお、カステッリィの妻のアンナはデザイナーですが、「わたしは他人の家のインテリアデザインをできるけれどもやらない。というのも、個々の人が自分のテイストに合うように自らのインテリアは整えるものだから。」と述べています。カステッリィは、クオリティという雑誌を創刊していますが、インテリアデザインが国民的教養となるように、日本のデザイン起業家もお金を出し合って様々なインテリア雑誌を発行して欲しいですね。

(*)https://www.youtube.com/watch?v=lG1hZyQUF6Y&ab_channel=Ateliercplusr

画像出典:冒頭の図:https://bit.ly/3FdDxY6, https://bit.ly/3kvjA7r, https://bit.ly/3CbipjF、図2: https://bit.ly/3qwRsEF, https://bit.ly/3F9VG9h, https://bit.ly/2YIyqzO, https://bit.ly/3DcP9do, https://bit.ly/3c41c0L, https://bit.ly/2YEYs6W, https://bit.ly/3D9WVVq



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