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イタリア:デザイン起業家列伝(2/15)

本noteでは、詩情溢れる家具を追求したディーノ・ガヴィーナ(Dino Gavina)を取り上げましょう(本noteも拙著『イタリアのデザイン思考とデザインマネジメント』の第5章に基づいています)。ガヴィーナは、ガヴィーナ(Gavina;1953年)、ガヴィーナ株式会社(Gavina S.p.A;1960年)―同社は1968年に米国Knoll社へ売却―、フロス(Flos;1961年)、デュシャンセンター(Centro Duchamp;1966年)、合理主義の克服(Ultrarazionale;1968年)、サイモン(Simon,1971年)―後にカッシーナ社から再販―、超家具(Ultramobile;1971年)、メタ家具(Metamobile;1974年)、地上の楽園(Padadiso Terrestre;1983年)などの企業を経営し、「生産は言語活動であり、詩である。今日、人々はもはや本を読まないが、オブジェを読解せざるを得ない。オブジェを生産する人は、こういった読解が人間の側からなのか、そうでないかということについて最初に責任を負っている。」と述べたことで有名です。ガヴィーナは、以下で述べるようにカルロ・スカルパと協業して、デルフィ(Delfi)やコルナーロ(Cornaro)といった詩情に満ちた家具をサイモン・インターナショナル社の下で「合理主義の克服(Ultrarazionale)」シリーズ(図3)として発売し、戦後のイタリアンデザインの成立に起業家として大きな役目を果たしたため、デザイン起業家の証言集である『デザイン・ファクトリー』では、インタビューワーのG.カステッリィ(Kartell創業者)からライバル視されています。具体的には、「メード・イン・イタリーを成立させた起業家の代表例としてガヴィーナの名前が挙げられることがあるけれども、デザイン起業家達の認識は本当にそうなのか?自分(カステッリィ)だって詩情溢れるプラスチックを追求したので、貢献を認めて欲しい」という気持ちを滲ませています。詩や神話といった象徴的な次元に特に拘った起業家として、ガヴィーナと、ポルトロノーヴァを率いたセルジョ・カッミッリィ(Sergio Cammilli)そしてドリアデ社を率いたエンリコ・アストリ(Enrico Astroi)を挙げることができます。なお、ガヴィーナは、ローマのSapienza大学建築学部で工業デザインを教えたりもしています。

1 デザインマネジメント


図1が、ガヴィーナの証言を共起ネットワーク図にしたものです。思い出に残っているデザイナー名として、マルコ・ザヌーソ(Marco Zanuso)、ルーチョ・フォンターナ(Lucio Fontana)、カルロ・スカルパ、ピエル・ジャコモ・カスティリオーニ兄弟の名などが挙げられ、また、成功した家具―椅子のトリポリーナ(tripolina)とガラス棚家具のオリント(Olinto)―の名前も見えます。

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友人で芸術家のL.フォンターナが、ガヴィーナをトリエンナーレに連れて行ったことから、彼にデザインへの道が開かれたということですが、元々、ほとんどすべてのヨーロッパ中の美術館を知っていて芸術に造詣の深かったガヴィーナは、便器を泉(fontana)として1917年に展示したマルセル・デュシャンのイタリア家具に対する影響について次のように指摘しています―「1955年にカスティリオーニは、大工が使うありふれた作業台を量産すべき家具として再定義することで、家の中に持ち込むことを提案したが、これは、モノ(便器)が元々の使用文脈から引き離されて、芸術作品(泉;fontana)となる効果を狙ったデュシャンの教えに対する敬意である。」。言い換えれば、デザイナーは、本来の用途とは違う文脈でモノが作用する可能性を切り開くということです(いわゆるラディカルデザインの考え方)。才能あるデザイナーなら、通常用いられる使用の文脈からモノを引き離して、モノの活用場面を変えることで柳宗悦が述べるような民芸の美をクローズアップしたり、往時の埋もれた家具が持つ美を再評価することが可能だと言えるでしょう。なお、後述するように、過去に行ったデザイン・プロジェクトのアーカイブがあれば、今の時代に合わせてそれらをリメイクするようなことも才あるデザイナーならできるでしょう―後述するピエロ・リッソーニの事例。デザイン起業家が才能あるデザイナーを発掘する際、デザイナーが持つこれらの能力にも注意を払う必要がありますね。もちろん、デザイナーに感化されてであれ、起業家自身も民芸の美を評価できることがデザイン経営を実践する上では望ましいでしょう。ガヴィーナによれば、フロス社が今日まで生き残っているのは、その時々のデザイン・プロジェクトを担当するデザイナーの人選を、極めて才能のあるカスティリオーニに一任するような体制を作ったからだということです。
ガヴィーナは、誰がデザインしたのか分からないけれども、「交差した四本の棒と一枚の動物の皮からできていて、海沿いの小屋の中にあるような、座って海を眺めるための椅子」をトリポリーナとして提示したが、先ほど触れた大工が使うありふれた作業台であれ、椅子トリポリーナであれ、無名の巨匠の美に気づかせてくれたのは、カスティリオーニの感受性と知性であったということです。日本の文脈で言うところの民芸の美にカスティリオーニも気が付いていたということですが、トリポリーナの成功を契機として、マルセル・ブロイヤーが自転車のフレームからヒントを得て1925年にデザインしたチェスカとワシリーチェアをガヴィーナは再び製造する算段を付け、忘れ去られた往時の椅子を復活させました。忘れ去られた別の時代の家具を復活させることが、当時の家具業界では革命的なことであり、ブームになったのですが、もっぱら機能・性能面からモノを捉えるような合理主義(razionalismo)に異を唱えるガヴィーナは、合理主義者のル・コルビジェが往時にデザインした家具を再び世に出すプロジェクトを断っています。コルビジェの家具は、ガヴィーナの評価によると、一見、合理主義的な立場を表わしているけれども、実際は、何十箇所もの溶接が必要なために量産できないからです(コルビジェの家具は、カッシーナ社で巨匠シリーズ(I Maestri)として再販されることになりました。)。
ウルム造形大学であれ、コルビジェであれ、かたちが機能に従うとする合理主義の考え方では、建物の建築プロジェクトとインテリアのデザイン・プロジェクトは分離/対置していましたが、カルロ・スカルパやBBPR(*)の建築家らは、それらを連続するものとして捉えました。つまり、都市計画・建物の建築プロジェクト・オブジェのデザインとの間の結合/連結が考えられるのであって、この点でも合理主義の乗り越えが図られたのでした。デザイナーが、都市を含む生活環境全体を構成する手段/道具としてではなく、最終目標として個々のモノをデザインしてしまうという点にスカルパの軽蔑があったのです。デザインは、有機的で詩情に溢れ、視覚と触覚を満たすようなモノから構成される生活環境やタウンスケープの創造を目指すということです―そういったところで初めて人々は、産業社会が課してくる反復的で単調な業務に由来するストレスに対する癒しを得ることができるでしょう。なお、インテリアとエクステリアの連続という点に関して、アンドレア・ブランジィは次のように指摘しています。
「法王シスト五世(1520-1590)は、ローマの街全体を構成する要素として、教会の劇的な内部空間を構想していたが、他方で、教会の劇的な内部空間が表出/延長されたものとして、ローマの街路や広場を考えていた―そういった街路や広場には、信仰を深めるためのモニュメント・宮殿・オベリスク(方尖塔)・ファサードなどを設置した。複数の遠近法が適用された結果として、複数の視点を備えたローマの教会内部では、舞台装飾の技法(シェノグラフィア)に基づき、聖体顕示台・説教壇・聖骨箱・祭壇・聖体行列用移動天蓋・十字架像などから無限に増殖していくイメージが創られ、バロックの音楽と芳香の助けもあって、現世でのエクスタシーが表現されている。」
教会や住居の内部空間と外部の都市空間との連続性を考慮しつつ、詩情に溢れた家具や美術館そして墓地をデザインしたのがカルロ・スカルパでした。

2.スカルパの工夫ーデザインにおける詩の次元の確保(1)

ガヴィーナは、生涯の友であったカルロ・スカルパの業績について次のように述べています―「1950/60年代に米国でルイス・カーン(Louis Kahn)がエジプトやローマの聖なる性質を参照しつつ、詩的な豊かさの回復へと建築を導いたのと同様に、イタリアにおいて、古代の人々が手掛けた建築の聖なる性質に着目することで、詩的な美の回復へと建築を導いたのはほかならぬスカルパであった。」。家電メーカーのブリオン・ヴェーガ(Brionvega)社を創業したジュゼッペ・ブリオン(Giuseppe Brion)の息子であるエニオ・ブリオン(Ennio Brion)によると、ブリオン家の墓のデザインをスカルパに依頼したのは、諸々の建築家の中で最も詩情あふれるデザインを行うのがスカルパであるためであったということです。
スカルパが、デザインにおいて詩の次元を確保した方法は、(1)光源を標準化せず、(2)長さの単位としてメートル法を採用せず、(3)普遍ではなく個物(特殊)から出発することでした。
(1)光源の非標準化とは、ベネチアでガラスの壺をデザインした経験から、取り込むのが自然光であれ人工光であれ、大理石などを含め様々な素材への光源からの反射を意識しつつ、空間の性質に合わせて照明の配置パターンや種類を変化させることです。
他方、(2)ジャイアント・オーダー(ミケランジェロやボッロミーニが採用した柱梁の建築様式で、丈が高く太い円柱と梁で複数のフロア(階)を支える)の比率にヒントを得て、横の長さと縦の長さが1:3、1:3.392、1:4235といった比率を持つドージェ(Doge)というテーブルや、1:4.151という比率を持ったテーブルのオルセーオロ(Orseolo)などをスカルパはデザインしましたが、その意図は、10進法の通常のメートル法尺度を合理的に適用せずにこういった比率を用いることで、古代の荘厳な建築物やモニュメントを彷彿させることでした。なお、テーブルに1対3という比率を適用したのはスカルパが最初であったということです。ドージェというテーブルは、当初は、ガラス製ではありませんでしたが、ガヴィーナの勧めもあって、支柱がテーブルの板を支える構造がよく見えるようにガラスが採用されました。いずれ紹介するジャンカルロ・ピレッティがデザインした椅子プリアでも、座席と背もたれを透明なプラスチックとすることで、椅子を開閉する様子を見て楽しめるようになっていますが、ドージェでも視覚を満足させる配慮がなされていると言えるでしょう。スカルパは、そのほかにも、コルナーロ、グリッティ(Gritti)、木製のヴァルマラーナ(Valmarana)―ジャイアント・オーダーが適用されたヴィチェンツァにある邸宅にちなんだもの―、といったテーブルをデザインしています(オルセーオロ、コルナーロ、グリッティは、それぞれベネチア海洋共和国の元首を務めた名門一族の名称)。

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(3)スカルパは、336kgもの重量を持つ大理石のみを用いたデルフィというテーブルもデザインしていますが、テーブルを支える二つの脚はあたかもモノリス(大理石の一本の石で作られた碑)のようで、芸術作品の持つ一回性(アウラ)を感じさせるものとなっています。素材としての大理石は、様々なかたちに成り得るが、その質感を活かしたような厚みを備えたかたちへと仕上げることで詩情を表現しており、言い換えれば、デザインする対象に物理法則を適用するのではなく、可能態としての質料(ヒューレ)の特性が発揮されるような形相(エイドス)を与えるという発想法を採用しています。
スカルパは、ガヴィーナ社のみならず、カッシーナ社のためにもサルピ(Sarpi)などのテーブルをデザインしていますが、アウラと詩情を備えた家具に溢れたインテリアは、A.C.アルガンによれば、同時に、神話・風俗・儀式・禁忌を感じさせる舞台になるということです(インテリアは家族のドラマが繰り広げられる舞台)。
デザインの対象となる個々のモノを、生活世界全体を創るための一要素・手段として捉えるというスカルパの立場に立つと、カッシーナやカルテルなどの家具をデザインする際には、アルマーニ・フェレ・クリツィアといったプレタポルテの服を着た人がそういった家具の傍らにいて、芝居がかった身振りを呈する舞台のようなシーンをイメージするということになり、他方、フロスやアルテミデの照明をデザインする際には、カッシーナやカルテルなどの家具が備え付けられた舞台としてのインテリア空間を思い浮かべるということになります。プレタポルテの服をデザインする際には、そういった服を着た人が、たとえば、ベネッティやフェレッティといった高級クルーザーに乗船するシーンを想定するでしょう。要するに、生活様式全体の一部分をデザインしているという意識が必要で、世界が舞台である以上、デザイナーならば、信号・道路の舗装・建築物の上塗りやタイルの規則性を備えた模様・広告看板の撤去、といったことから構成される都市環境全体についても考える必要があるということになります(そこでは、芝居がかった身振り手振りを誘発するような新たなドラマが生じるでしょう)。

3.無意識ーデザインにおける詩の次元の確保(2)

スカルパとの協業は続けながらも、機能重視の合理主義に反発するガヴィーナは、1971年に、シュルレアリズムの芸術家であるマン・レイ(Man Ray)やセバスチャン・マッタ(Sebastian Matta)などと提携して、ル・テモン(Le témoin)、マグリッタ(MAgriTTA)、トラッチャ(Traccia)などの家具を超家具(Ultramobile)シリーズ(冒頭の図)として発表しました―ポルトロノーヴァ社のセルジョ・カッミッリィも、ガヴィーナ同様、デザイナーに加えて芸術家とも協業して家具を製作した起業家として挙げられます。芸術家と協業するが故に、より一層詩や神話の次元を感じさせる家具を製作したのは、戦後のデザイン起業家の中でもっぱらガヴィーナとカッミッリィであり、詩情重視という方向性を示した点で戦後のイタリアンデザインの成立に大きな役割を果たしたと言えますが、先駆者の試みを反復したとも評価できます―戦前には、起業家のオリベッティが、画才のあったマルチェッロ・ニッツォーリと協業して詩情重視のデザイン・プロジェクトを走らせていました。
超家具シリーズの理念は、「生が狂気、存在が感嘆、未来が冒険、超家具も冒険であるがゆえに、ショックを与えるような対象・驚嘆さを喚起するようなトーテム・家の中で呼吸し、胸をどきどきさせるような存在・活気があって冷笑的な襲撃・愉快な躍動の中で結晶化した詩」として家具を捉えるものでしたが、それらは無意識の内容をイメージしてかたちにしたある種不気味なものであり、その前衛性についていけなくなったトビア・スカルパやガエターノ・ペーシェなどのデザイナー達は、ガヴィーナの元を去り、カッシーナ社とのプロジェクトに注力するようになりました。怒ったガヴィーナは、友人のチェーザレ・カッシーナに対し、「君は私の友人なのか、それともジャガーなのか?」と詰め寄りましたが、娘のアデーレ・カッシーナが、ガヴィーナの名前であるDinoに括弧をつけて神Dioが分かるようにDi(n)oとして「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに―Date a Di(n)o quell che è di Dino e a Cesare quell che è di Cesare―(要するに“ディーノのものはディーノに、カッシーナのものはカッシーナに”と述べ、デザイナーらがガヴィーナの下を去ってカッシーナに移ったことは致し方ないということ)」と回答したということです。

デザインに関して起業家が経験不足だと見通しが立たず、試行錯誤によるロスが発生するということに関して、次のようなエピソードをガヴィーナは残しています。それによると、ランブダ(Lambda)という椅子を製造したいけれども、それを量産するための鋳型の見積もりが高すぎるとザヌーソに相談されて、ボローニャのラミネート(金属の薄片)職人に頼んでみたものの、手作業で脚を椅子本体に接合するという羽目になり、誤ったプロジェクトであることが分かったとのことです。起業家がデザイン・プロセスに詳しくなれば、こういった試行錯誤による無駄な費用を削減することができる一方で、デザインに投資しないことで費用を削減するような選択肢は、最初から彼にはありませんでした。
ここで付言すると、任意のデザイナーに才能があるかどうかを起業家が見抜く際に参考となるのが、当該デザイナーが受けた教育です。デザイナーのカスティリィオーニは、「デザインの首都であるミラノのミラノ工科大にデザイン学部が1993年に設置されるまで、プロジェッティスタ(デザイナー)は、工学・建築・芸術(アート)の三つを学ばなければならず、それがイタリアンデザインの強みであった。」と述べており、裏面では、デザインに固有の学問領域は存在しないともいえますが、そういった複数の専門分野をマスターしているかどうかが一つの判断基準となるでしょう。たとえば、リチャード・サッパー(Richard Sapper)の場合、哲学・解剖学・工学・経済学・商学そしてグラフィックデザインを修めています。ジオ・ポンティやマルコ・ザヌーソなどが大物デザイナーと言われる理由がここにあり、起業家は先を争うようにそういった複数の専門分野を修めたプロジェッティスタと協業していったのでした。デザインに固有の学問領域は存在しないからといって、デザインが建築に吸収されるわけでありません。建築は、空虚な空間の使い方を考えたり、空虚な空間を「内容のあるモノ」で満たすことを考える一方で、デザインは、空虚な空間を埋める「内容のあるモノ(=対象そのもの;オブジェ)」を作ります。

4.終わりに

本noteでは、スカルパやシュルレアリズム(超現実主義)の芸術家と協業して、ガヴィーナが家具において詩の次元を確保し、それによってドイツの合理主義を乗り越えようと努力したガヴィーナの冒険を紹介しましたーそれは、素晴らしいものでした。製品に詩情を付与することで官能的かつ魅力的なモノ作りを可能にするのがイタリアのデザイン理論ですが、その具体的な事例がここにあります。確かに無意識の世界は、現実離れしたファンタジーとして詩情を感じさせてくれる可能性があります。プラトンは『饗宴』で「無から有を生むきっかけをなしたものを”詩”と呼ぶ。すべての手製のものの制作過程は”詩”のようなものであり、それに参加している人は、”詩人”である。」と述べており、今まで見たことのないモノをイメージするのがファンタジーであることを鑑みると、「ファンタジーのない商品に死を!」と叫びたいところです。また、フランス科学認識論のG.バシュラールは、『空間の詩学』で、「理想の幸せなすまい(ドムス)は蝶である」と述べたG.ポンティを称して、「自宅を建てるのに多くの比喩を使ってアイディアを練る詩人」と述べています(ポンティは、普通に切る角度に対して90度の角度で大理石を切るように指示を出し、詩の次元を確保しました。)。機能や性能一辺倒の商品は、味気なく無機質であるがゆえに癒しをもたらさず、要するにツマラナイので、今後の日本は、そういった詩的な設計をする建築家やアーティストとタッグを組んで、モノ作りをしていきたいですね。

(*)Gian Luigi Banfi,Ludovico Barbiano Bergiojoso,Enrico Peresutti, Ernest Nathan Rogersをメンバーとして1932年に結成された建築家グループの名称

画像出典:冒頭の図:https://bit.ly/3onyVIa, https://bit.ly/30niKCT, https://bit.ly/3wCejzD, https://bit.ly/3C43jfz、図1: https://bit.ly/3HdY5BO, https://bit.ly/3c9hKUZ、図2:https://bit.ly/3kvxrL3, https://bit.ly/3n5yYZS, https://bit.ly/2YArLaG, https://bit.ly/3wAYUQ6


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