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地域に残る人の優しさや自然を守りたい。シンプルだからこそ豊かさも課題も輪郭が明確になる―菊地亮太さん・芙美子さん

夏はみずみずしい草の緑、冬は眩しいほどの雪景色が広がる牧場の一画でチーズ工房チカプを経営する菊地亮太さんと芙美子さん。2013年根室に移住しお店をオープンしてから10年目を迎え、この間二人はどんなことを思いながらチーズ作りや地域と向き合って来られたのでしょうか。ここ(根室)で暮らすことやチーズを通して伝えたいこと、人・親として向き合うべきことなど、どこまでも真っ直ぐな二人の言葉は、これからの時代に大切な「道標」になるかもしれません。

「大きく手を広げず自分たちのできる範囲でチーズ作りを続けます」と亮太さん、芙美子さん

子どもとともにどんな日々を生きたいか、自分たちのことを考えるようになった

-根室への移住、そしてチカプさんオープン10年目を迎えましたが、この間を振り返るとどんな思いですか?

芙美子:心から豊かな生活だと感じています。ご飯を食べている時に窓から見える景色ひとつでも、根室の自然はいつ見ても何度見ても感動します。ほんの少し外に出るとそう感じられる、ここの生活は本当にすごいと思います。

亮太:特に秋から冬にかけての春国岱(しゅんくにたい)や温根沼(おんねとう)の夕陽は最高にきれいです。僕としては自営業なので仕事と生活のバランスを自分で決められるため、都会で働いていた頃よりもストレスのない生活を送れていることがありがたいです。

-根室生活の中で大きな変化はありましたか?

亮太:最近は根室の価値をより一層感じています。東日本大震災の後、スーパーから物がなくなるなど都会のもろさを目の当たりにしました。10年と少し経ちコロナが発生しましたが、こっちの生活では、基本的には家とチーズ工房の往復なので、マスクをつける時間も少なく、街に出たとしても人との距離も十分保てるので、都会の生活と比べると精神的に楽なのかなと思います。

芙美子:東京では自分の生き方を考える時間も余裕もなかったのですが、地域や社会問題も含めて私たちと子どもがどんな人生を歩むか、日々どんな生活をしていきたいかと、自分たちのことをよく考えるようになりました。

ほかには家の中で壊れた物を自分たちで修理するようになりましたね。(笑)

亮太:以前はお金を払って誰かに修理してもらっていたことが、自分でも意外とできることに気づきました。また都会には良くも悪くも情報やツールが山のようにあり、結局お金がかかりますが、ここの暮らしでは自分たちがしっかりと使える物を吟味して買うようになりました。

同じ牛乳からまったく違うチーズができる。だからチーズ作りはおもしろい

₋そもそもチカプさんのチーズはどのような工程で作られるのですか

亮太:まずは隣の横峯牧場で搾乳した牛乳200リットルを軽トラで運び込みます。加熱殺菌していったん冷ました後に乳酸菌を加えると発酵が進みます。

約1時間後に「(※)レンネット」と言う酵素を入れしばらく待つと、豆腐やプリンのような状態になります。その固まりを、ピアノ線のようなワイヤーをたくさん張ったカードナイフと呼ばれるもので細かくカットし、温度を上げて水分を抜きます。最後に残った塊を型に入れて重りを載せ、1日目の作業が終わりです。
翌朝まで待つとチーズの原型が出来ていて、それを塩水に入れて塩味をつけます。

セミハードタイプのアカゲラクミンの型詰めの様子(写真提供:チカプ)

この後熟成庫に移し表面を塩水で磨く工程を行います。ハードタイプの「シマフクロウ」は二日に一度この作業を繰り返し、半年後にやっと完成します。

芙美子:白カビタイプの「シマエナガ」は、プリン状に固まったものを、おたまのようなものですくって、高さ約30cmの細長い型に詰めていきます。水分が抜けたあと塩と白カビを添加し、毎日反転を繰り返しながら、約2週間後、白カビがきれいに生えたら完成です。

同じ牛乳からまったく違うチーズができるので、チーズ作りっておもしろいなと思います。

2週間かけてチーズの上下を反転させ完成する「シマエナガ」(写真提供:チカプ)

-牛乳の味の違いもチーズに影響しますか?

亮太:放牧の牛のミルクを使用しているので、季節により味が変わることはあります。一番その差が出るのがハードチーズ。僕たちは夏の放牧の牛のミルクで作るハードチーズの、ナッツのような香ばしさやすっきりした味わいが好きなので、「シマフクロウ」は夏の放牧の時期を中心に作り半年間熟成させて冬の時期から販売を開始しています。

芙美子:「シマフクロウ」は半年経たないと結果が分からないので、半年経ってカットしてみたら、全然ダメだった…ということも数えきれないほどありましたが、ここ数年でようやく理想の味に近づいてきたなと感じれるようになりました。

ハードタイプの「シマフクロウ」は熟成により深い味わいが楽しめます(写真提供:チカプ)

芙美子:その日の天気や、その日の牛の体調などにも大きく影響されるため毎日同じチーズはできません。その点も楽しみながら食べてもらえると嬉しいですね。

亮太:原料は牛のミルクなので、牛の体調や季節により味が変化することは本来自然な在り方かなと思います。市販の牛乳は、たくさんの牧場から集められたものなので、そういう変化には気付きにくいかもしれません。

芙美子:私たちのような小規模工房では、どんな原料でどうやって作られたかという背景が見えやすいので、消費者にとっては選ぶ際の判断材料になるのではないかと思います。

亮太:こんな風に僕たちのチーズを通して食べ物の背景や「食文化」について、思いを巡らせてもらえたら嬉しいです。

※レンネット=主成分は「キモシン」と言う酵素。子牛を始めとする反芻動物の第4胃袋の消火液などから抽出することができ、乳酸菌の次にレンネットをミルクに入れてしばらく待つとたんぱく質が凝固してプリンや豆腐のような状態になりチーズの素ができる。

(参考:農林水産省「チーズのプロがナビゲート!国産チーズを学ぼう」

やりたいことを持ち生き生きと暮らしている人たちに出会えた

取材中誰かの視線を感じて窓の外を見ると、20頭ほどのエゾシカ達がまるで我が家の庭のように何か話しながら通り過ぎていきました。上空には遥か北の国から飛んできたオオワシが気持ちよさそうに翼を広げています。こんな自然の中にある小さなチーズ工房「チカプ(アイヌ語の鳥)」は、地元だけではなく根室のお土産や贈答として全国から注文が入ります。「チカプ」をオープンするため二人が移住を決意した背景には自然をはじめ、魅力的な人々の存在が大きかったそうです。

-東京での生活に対して、当時はどのように感じていましたか?

芙美子:私はもともと長崎県出身でよく家族と山登りをするなど、自然と触れ合う環境で育ちました。その影響か日ごろから東京で一生暮らすことはできないと感じていました。

亮太:僕は神奈川県出身でソフトウェアを開発する会社に勤めており、都会の生活はこんなもんかなぁと、ずっと東京で暮らしていくと思っていました。

-根室へ移住することを決意した一番の理由は?

芙美子:私の姉夫婦が根室の牧場を購入して、そこに使っていないチーズ工房があるから見に来ないかと言われ、2011年のゴールデンウィークに社会科見学気分で初めて根室に来ました。
その時、のちに私たちがチーズの勉強をさせていただく中標津町の三友牧場さんに連れて行かれたんです。

亮太:たまたまその日に三友さんの所で農家さんの集まりがあり、そこに来ていた人たちは、それぞれが自分のやりたいことを持って、とても自分らしく生きているように僕には見えました。
こんな生き方もあるんだなと感じ、一度きりの人生こちらの世界に飛び込んでみるのも悪くないな、というぐらいの感覚でした。

熟成庫で半年間かけてやっと出来上がる「シマフクロウ」を大事そうに磨き上げる亮太さん

芙美子:私も三友さんの所で出会った人たちには、なんて目がキラキラしているのだろうと、都会では感じられないものに触れた気がしました。
また根室に来て別当賀(べっとうが)の(※)フットパスを歩いた時に、その景色にとても感動して、ここで暮らせるなら最高だなと思いました。

亮太:結果的に東京に帰り1週間後には移住を決めていました。年齢的にもちょうどいいタイミングだったのかもしれません。あと10年遅かったら移住はできなかったかもしれないです。

※フットパス=イギリスで発祥した自然や風景などを楽しみながら歩くことができる道。根室市のフットパスは厚床(あっとこ)、初田牛(はったうし)、別当賀パスや、太平洋に面したおちいし岬、浜松、三里浜パスがある。

(参考:Nemuro Footpath落石シーサイドウェイ

外から来た僕たちを受け入れてくれる優しさや温かみが根室には残されている

-お子さんも生まれて、子育てに関してはいかがですか?

芙美子:環境面では子どもにとって根室は本当に素晴らしい場所です。冬は玄関を開けて外に出ればすぐに雪遊びができるし、雪のない季節も森に入って虫や植物を観察したり、小枝や落ち葉を拾って遊んだり、時にはヤマブドウやサルナシを食べたり、これは都会では体験できないことですよね。

亮太:空を見ればオオワシが飛んでいたり、日本の中でもこんな環境はほとんどないと思います。

芙美子:最近は森の中でモモンガの巣を子どもと一緒に見に行ったりするのですが、こうして子どもの感性が磨かれていくと嬉しいです。

ただ私たちの住んでいる地域は特に子どもが少ないので、広い社会に出た時に適応していけるのかは少し心配ですね。
どこの地方も同じ課題を抱えているとは思いますが…。

取材時は遊びに出かけていましたが、普段は芙美子さんの隣でお子さんも一緒に出迎えてくれます

₋ふたりが感じる根室の良さを教えてください

亮太:隣の家や地域の人など、顔が見える相手とつながり合う社会が残っているところはとても良いなと思います。

漁師さんからとれたての魚を分けていただいたり、子どものことを自分の子どものようにかわいがってもらったり、外から来た僕たちのことを気にかけてくださる方がたくさんいて、ありがたいなぁと感じる日々です。

また隣の人が元気なかったら、ちょっと見に行ってみるかと言うような根室の空気感が好きです。外から来た僕たちも受け入れてもらえて地域に参加させてもらえていると感じます。
そういう優しさや温かさが根室にはまだかろうじて残されているところが、とてもいいなと感じます。

芙美子:やっぱりこの豊かな自然かなと思います。この自然を外から来る人だけではなく、地元の人ともたくさん共有したいです。少し車を走らせればとても感動的な景色が広がっていて、さらにそこを自分の足で歩くのも最高ですね。

素晴らしい環境の中子どもの未来を見据え、親として地域や社会の問題にも視野を広げていく

₋ふたりが暮らすことや生きていく中で、今一番大切にしていることは何ですか?

芙美子:子どもが生まれたことで、今では子どもが自立して生きて行くために私ができることをやる、そこが軸になった気がします。自分の子どもだけでなく、全ての子どもたちが生きやすい社会を残してあげるのが、大人の役割なんじゃないかと考えるようになりました。

亮太:僕たちふたりであれば普通に生活できればいいと言う程度でしたが、子どもの20年後や30年後の社会は、果たして今よりも良くなっているのかなと視点が変わりました。

地球温暖化や日本国内の問題など、子どもが生まれてより切実に突きつけられたので、もっと視野を広げて社会の問題にもこれまで以上に関心を持ち続けていかなくてはと思っています。

右からシマエナガ、シマフクロウ、アカゲラ(プレーン&クミンシード入り)
芙美子「美味しいパンと、ワインやコーヒーに合わせて食べるのがオススメです」

自然環境、食文化、人、社会と話が尽きなかった今回。何に対しても深く考えを積み重ねているふたりの姿は、彼らが移住を決めるきっかけとなった人たちと同じように、私にはとてもキラキラとして見えました。そこには「生きている」実感が在ります。とてもシンプルな暮らしだからこそ得られるものなのかもしれません。今、そして未来を生きる人たちにとって、ふたりの言葉はとても重要なキーワードになるのではないでしょうか。



プロフィール

菊地亮太さん
1981年生まれ。神奈川県出身。

菊地芙美子さん
1984年生まれ。長崎県出身。

2011年9月 根室市に移住
2011年9月~2012年12月 中標津三友牧場でチーズ研修
2013年12月 チーズ工房チカプ 開業

チーズ工房チカプ HPはchikap.jpです


2023年1月22日取材

取材・文・撮影 こやまけいこ

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