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覚えたてのフェイクスピア

『新潮』7月号を読んでいたら小学1年の次男が表紙を眺めながら「ふ・え・い・く・す・ぴ・あ」と発しており、それが野田秀樹の『フェイクスピア』であることはすぐにわかったのであるが、次男にとっての「フェイクスピア」は習いたてのカタカナの羅列でしかないのが面白かった。いままで、姿形は目にしていたけど何者なのかがよくわかっていなかった者たちがどうやらカタカナ一味であり、一つ一つに決まった読み方があるらしいとわかりかけている時ってどんな風なんだろうか?というのを知りたいからというわけではないんやが、最近私は語学の学習を趣味にしており、今日の次男の姿を見るにつけ、ああ、今私はこの子と同じことをやっているんやなーと気付かされたわけなので。

しかし意味はわからず「서울신문」を「ソ・ウ・ル(イメージ的には小さいル)・シ・ン・ム・ン」なんて読んでいた頃の自分は今はもういない。ちゃんと「ソウル新聞」のことであるとわかってしまう。知ってることが増えることは喜ばしいことではあるが、あの知らなかった頃の自分には戻れないのが、なんとなく、取り返しのつかないことをしてしまったという気分になったりもする。(こんな書き方するとまるで私がだいぶとハングル上級者のようであるが、ハングル検定5級に受かったかどうかドキドキしながら結果が送られてくるのを待っている程度である)

そういえば、先日ついに、ず〜っと抜けずに大人の歯の裏側にへばりついて気張っておった乳歯を歯医者さんに抜いてもらったのであるが、今、その乳歯のあった場所を舌で押して摩ってしてみても、あの硬質な異物はもう存在せず、なんとなく歯のあった窪みが名残を留めておるのだが、やはり少し淋しい。今、小学5年の長男と、カタカナ覚えたての次男とが、一人立ちする頃には、今日も2人ぎゃあぎゃあ喚きながら枕投げをしていた和室が、乳歯のあった窪みのようになるのだろうか。

ハングルに関しては、少し勉強が進んだから、おかげで文字を覚えたての時期は過ぎ去ってしまったのであるが、幸いこの世の中には無数に言語が存在しているので、いまはロシア語のキリル文字を一生懸命覚えているところなのである。失っては手にし、失っては手にし、これを繰り返すことで、私はいつまでも小学1年の学びたての頃に還れる気がするから、ひょっとすると、語学の学習は人を若返らせる、アンチエイジングの効果があったりするんじゃないかしら?と思いはじめているのであるのである。

#令和3年  #6月27日 #コラム #エッセイ
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