勝ちと負けの外に
裁判のことは詳しくないのですが、勝訴と敗訴があることくらいは知っていて、つまり、そこには勝ちと負けがあるらしいということはわかるんですけど、裁判を起こさなければならないくらいの出来事というのは、勝ち負けでは片付かない問題が多くあるものなんですよね。
正当性を争い、どちらが勝ちでどちらが負けでという結果が出たところで、むしろ、出てしまったがゆえ、「もう済んだ話でしょ」で終わらされてしまう残酷さが裁判には潜んでいるような気がする。もちろん、控訴やら上告やら、そういう手段はあるんでしょうけど、それでも結局、勝ちか負けかのフィールドに立たなければなりません。
勝ち負けで決着のつく世界の周辺には、曖昧でグレーでぼやけていて、だけどその中には怒り、割り切れなさ、妬み、嫉み、憎しみ、愛情、嫌悪感、悲哀、その他もろもろ、あらゆる感情、理性、合理、非合理、思想、うんぬんかんぬん、エトセトラが実は燃え盛っており、それら全てを勝ち負けの結果で蓋をしてしまうというのが、果たして正解なのか、というのを裁判沙汰のニュースを見るたびに思います。
真実を明るみにせねばならない場所のはずなのに、弁護士や検事の駆け引きがあり、「こういう流れになったらこう言いなさい。そしたら弁護士の私がうまいこと君を無実に導くから」とか、テレビドラマの見過ぎかもしれませんが、ああいうのを見てると、勝ち負けと真実というのは必ずしも一致しないらしい。
確か、水俣病の訴訟では、その「勝ち負け」の理屈によってうやむやにされてしまう感情を優先させるがために水俣病の被害者で、認定訴訟の原告代表でありながら、代表をやめて患者認定申請を取り下げた方もいたはずです。裁判の当事者のなかにも、そういう方がいらっしゃることに私は涙がこぼれたことを記憶しています。
裁判で勝てば、それが正義であるなんていうのは大間違いだと私は思う。
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