エッセイ『知らんことばっかり』
今日の読売新聞の「生成AI活用自治体手探り」という記事に鳥取県の平井伸治知事の言葉が掲載されていたのでその箇所を引用します。
平井伸治知事は「いくら端末をたたいたところで、出てくるのは世間で言われている情報の混合体だ。活用することは否定しないが、地べたをはって集めた情報に価値があり、『チャットGPT』より『ちゃんと地道』が大切だ」と強調する。
『』で強調しているとはいえ、文章を読むだけでは「チャットGPT」と「ちゃんとじーみーちー」がダジャレになっていることがわかりにくい。いわゆる「ボケ殺し」といえるでしょう。記者が知ったうえでボケ殺ししたのか、それとも故意ではなく結果としてボケ殺しになってしまったのか、わかりませんが、どちらにせよ結果は同じ。もし仮に平井知事がこのボケ殺しについて遺憾の意を表明した場合、より罪深いのは故意にボケ殺しをしたほうか、それとも知らずにボケ殺ししたほうか、どちらでしょう。どちらであったとしてもボケ殺しをしたという結果は同じですから、どちらのほうが罪深いということはないはずなのですが、にも拘らず、我々は「知らなかった」ほうが罪は軽減されると思いがちです。
徳島市の阿波おどりで、今年初めて設置されたプレミアム桟敷席が建築基準法に違反した状態で客を入れていた問題で、徳島市の担当課は読売新聞の取材に対して「違法状態との認識がなかった」と釈明しています。これも「故意ではなかった」ことを免罪符にしています。故意でなければ罪が無くなるのなら、世の中のほとんどの交通事故は無罪になってしまいます。
旧統一教会の件でも先生方は「知らなかった」とおっしゃってましたが、不思議なことに「知らなかった」で済みがちなのは偉い人たちばかりで、僕たちがいくら「知らなかった」と言ったところで「そんなこと知るかい」と一蹴されてしまうのです。知らんことばっかりやないか!
蠱惑暇(こわくいとま)