見出し画像

ネイティブの先生

今日の朝日新聞に出生前検査に関する記事があり、東京都の40代女性の投書に「陰性と言われてほっとした時、なぜそう感じたのか自分の気持ちに目を凝らせば、ひそかにある差別意識に気づくかもしれません」と書いてあり、まさに差別意識というのは、ひそかに、でも確かに存在するものなのだということを確認しました。

昔の話でいいますと、私が高校2年だか3年だかの年に「明日からネイティブの先生が何回か英語の授業を担当します」と連絡があり、いざその先生がやってきて黒人女性だったことにびっくりしたことがあります。「ネイティブの先生」と伝えられただけなのに、私は勝手に白人の男性を思い浮かべていたからです。当時、人知れず私はそれがとてもショックで「こういうところに偏見が潜むのか」と感じました。仲のよかった女の子に「実はさー」と話してみたところ、「そうやねん、私も・・・」と共感してくれたことがどれだけ心強かったか。そういう感情が全く存在しない人も、もちろんいると思いますし、そうあるべきなのだと思いますが、悪気なく抱いているという実感さえなく、持ってしまっている偏見というのは存在します。あの日、幸いにして、無意識の偏見に気づくことができたのは有難い出来事だったのではないかしら。

それよりも数年前、小学生だったか、中学生だったか忘れましたが、エイズの話題になりました。アメリカのバスケットボール選手がエイズであることを公表した頃だったと思います。私はもしも自分がエイズだったとしたら、あのバスケットボール選手と同じように公表すると思うと言ったら友人に、ただそれだけで「寄るな」と言われました。おそらく冗談だったのだと思いますが、ショックでした。自分が「寄るな」と言われたことよりも、「エイズやというだけでこんな仕打ちを受けないといけないのか」という事実について、ただ悲しくなったのです。「エイズ」を「コロナ」に換えても同じなのではないでしょうか。

かくいう私も、いまだに無意識の偏見は持っています。最近でいいますと、『言語学バーリ・トゥード』というめちゃくちゃ面白い本を読んでおりまして、この本が往年のプロレスネタを織りまぜながら、ふんだんに言葉遊びを駆使して面白おかしく言語に関するあれやこれやを解説しているわけなのですが、完全に男性が書いているものと思い込んでおりました。プロレスネタを実に巧みにネタにしている文体が男のものと思えてしまったのです。「女にこんな文章書けるはずがない」なんてことは1mmも思わないのですが、無意識に脳内のどこかで男として捉えてしまったようなんですね。

開き直るわけではないのですが、こうなってくると、もうどうしようもないわけです。気づいた時に己を恥じるしかありません。無意識に存在してしまっているのですから仕方ありません。そうであるなら、いかに意識下に顕れた際、軌道修正するかが大事です。本能を理性で抑え込むなんて言うと、自分が本能的には差別主義者なのかと暗い気分になりますが、実際少なからずそういうところはあるわけですから、そこに自覚的であるべきで、自分の場合は、そこに自覚的でありさえすれば、なんとか対処できるほどのものでしかないのではないかとは思っております。しかし、そこは常にチェックしておきたいところですが。

人種差別、女性差別、家柄差別いろいろありますが、もっと細かい差別はいくらでも存在します。知識マウントなんかも、結局のところ、知ってる人による知らない人に対する差別意識でしょう。知らない人に知ってることを自慢している点、本能的かつ理性的ですからタチが悪い。しかし、こうして書いてみますと、私自身、知識マウントする人たちに対する偏見があるような気もします。お互い様なのかもしれません。っていうくらいには、石橋を叩きまくっておかないと、知らないうちに誰かを傷つけてしまいかねないってことばかり気にしすぎるのもよくない気もしますし、尊厳を著しく傷つけない程度であるならば、そこは「お互い様」という素敵な言葉でまとめられる仲の人を増やしていけたらいいのかなーって思います。

#令和3年10月4日  #コラム #エッセイ #日記
#note日記  #毎日更新 #毎日note 
#ジャミロワクイ  #ジャミロ涌井

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?