高校野球をこの暑いさなかに屋根のない甲子園球場で開催することについて正気の沙汰ではないと考えています。近頃は高校野球は7イニング制を導入しよかいという話も進んでいるらしい。
7イニング制導入について書かれた記事によると、7イニング制は、米国など諸外国の高校世代で導入され、U―18の国際大会でも採用されているそうです。今後、少子化や中学校部活動の地域移行の進行などによって見込まれる部員数の減少のほか、気候変動の影響など社会環境の変化、選手の健康面への配慮など、広い視点で日本の高校野球に資するか否かを検討していくということです。
大人かつ部外者の私からしたら、それは是非とも7イニング制を導入して、できることなら気候のよい秋あたりに開催し、可能であるなら屋根付き球場でやりなさいよ、とは思うのですが、それって所詮、大人かつ部外者だからなんですよね。だからこそ冷静な意見が言えるというのはもちろんそうなんでしょうけど、いつも思うのは、この議論には球児たちの顔が見えないし声が聞こえないんですよね。
先日の日経新聞に小説家の早見和真さんが書いていましたが、(以下引用)「もし選手自らが「肩を守りたいから百球で代わりたい」「暑すぎるからドームでやりたい」と口を揃えるなら、僕は絶対にモヤモヤしない。逆に「投げられるだけ試合で投げていたい」「炎天下の甲子園で野球がしたい」という声が聞こえてくるなら、それこそ子どもを守るべき大人としてなんとか実現する方法はないかと考えたい」
まさにそういうことで。
熱中症の危険がある→じゃあドームでやろう、秋にやろうではなくて、それでも夏の甲子園を目指してやりたいんや!という球児たちの声を最大限汲み取ったうえで、「じゃあどういう最善策を我々は打てるのか」ということを考えるのが本来大人のやるべきことではないかしら。
力のある人(大人)が力のない人(球児たち)の心の声を掬い上げることなく、君たちのことを僕らが最大限尊重して君たちにとって最善の未来を築いてあげるよと善意を押し付ける様は()の中が「大人」と「球児たち」ではなくとも、さまざまな関係に置き換えれば、あらゆる場所で起こりがちな「過ち」ではないかと思う。この場合、「力のない人」の力はあまりにも弱いからよほど大きな声にならなければもみ消されるか無視されてしまう。ではどうすればよいかといえば、そこはやはり、力のある人の思いやりが的を射なければならない。その責任は重いし、間違ったところに刺されば力のない人にとっては重傷になるし、反対にうまい具合に刺さればこれほど力強いものはない。力のある人たちの思いやりは重い槍でもある。その重い槍は使い方を誤れば、力のない人なんぞ木端微塵にしてしまう威力がある。その自覚のない力のある人は、考えようによっては気候変動よりも危険である。
基本的に力のない人側にいる私だって、時に力のある人になることがある。自分は重い槍をちゃんと思いやりに変えられているかしら。力のある人はそれを常に考えておかなければなりません。
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