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短編『東京奔放日記』

吟行という言葉が最近になって身近になった。ちゃんとした意味を把握できているか不安なんだが、散歩しながら景色を観察して俳句を作ることだと解釈している。この解釈が正しいかどうかいまいちわからないので「吟行している」と言い切れずに「吟行という言葉が身近になった」などとまどるっこしい言い方をしている。

吟行という言葉が身近になったおかげで歩くことが増えた。吟行に歩くことが含まれている(はず)なので当たり前のことではあるが、前までなら電車やバスを利用していたところを歩くようになり、俳句をたしなむのは体にもいいことなのではないかと思う。年配の人が俳句を趣味にするのは実に理に適っている。吟行は歩いて俳句を詠むだけ(ちがうかもしれないが)なので金もかからない。歳事記を用意する必要はあるが、例えばエレキギターを始めるのに比べたら初期費用はタダみたいなものだ。そのうえ、これまでに費やしていた電車代バス代が浮いているんだから考えようによっては毎日、俳句を作ることで金を儲けているとさえいえる。

東京では新宿に宿泊させてもらい、翌日に笹塚で収録をする。これまでは京王線に乗って笹塚まで行っていたのだが、今日は明治神宮を経由して笹塚まで歩いてみた。地図を眺めていたら新宿駅から明治神宮がさほど遠くないようだったのと、吟行という言葉が身近になったのと、やはり坂本龍一が死んだことも大きい。坂本龍一が死の直前まで守り抜く覚悟でいた森がどんなものか、見ておかねばならぬと思った。

京都は都市部から少し歩けば緑豊かな自然がある街だといわれるが、その点さえ実は東京に敵わないんじゃないかという鬱蒼とした生命力に気圧されそうになり、かつて伏見稲荷の千本鳥居を前にしたときに起こった立ちくらみが襲いかかってきた。ここにも何かがいる。鎮座しておられる。新緑の命が漲りセックスみたいな匂いがする。もうどんな匂いか忘れたが確かあんな匂いだったと思う。地面からうねうねと伸び我が世を謳歌する木々の佇まい、匂い立つ緑、こんな素直な生き方がしたい。己の都合を振り翳して真理をぼやかす、詭弁でもって既得権益を守り切る、汚い汚い人間のエゴの犠牲になってはならない。涙が出てくる。

森を出たら八歳ほど若返っていたが、それでもまだ三十五歳か。あの頃僕はくずだったし、今もそれを理性や令和五年仕様の常識で包み隠しているにすぎない。外苑の森の匂いとセックスを安易に結びつけてしまうのだ。油断していたらあのまま自慰行為をしかねない。

グーグルマップのおかげで目的地は見失わないが東西南北がわからなくなり、スマホを裏返したり逆にしたりするのに画面がそれに合わせてひっくり返りやがるもんだから、ああ、こういう大きなお世話する鬱陶しいやつ、おるおる、と苦笑しながら、自分がそういう鬱陶しいやつだった現場を思い出す。右も左もわからずによかれと思ってやったことが逆鱗に触れ、余計なことをするんじゃないと頭ごなしに怒鳴られた。当時僕は上司のことを絶対だと思っていたので、歯を食いしばり耐え忍んだがどうして頭をかち割ってやらなかったんだろうと今でも後悔している。頭をかち割ってしまってからの後悔のほうがいっそ清々しかっただろうに。

グーグルマップは道の起伏まで示してくれないから突然の斜面に驚く。今日はまだ涼しいからよかったものの、昨日みたいな真夏日ならこの斜面は僕に絶望をもたらしたにちがいない。いや、昨日みたいな真夏日ならさすがに吟行という言葉が疎遠になっていたかもしれない。

新宿、明治神宮、原宿、代々木、幡ヶ谷まできた。笹塚はもうすぐそこ。何回繰り返してスクリーンショットしたんやというくらい色が鮮明でなくなっている看板の「かんべ書店」という本屋さんに気まぐれに入ってみる。ブックカバーを集めるのを趣味にしている。鬼滅の刃全巻1万何百円!!と謳っているところが絶妙に時代遅れで愛くるしい。奥へいけばいくほど本棚には「蹂躙」とか「陵辱」とか「相姦」とかの言葉が芽吹く。外苑の森にはこの手の匂いはなかったが、僕の令和五年仕様の常識や理性を全て剥ぎ取ったらこの本棚に陳列されてもなんら違和感はないかもしれない。「蹂躙陵辱相姦棚」の手前の文庫本コーナーで一番安い小説を買う。レジには五十歳くらいのお姉さんがいる。あの奥の棚のラインナップをこのお姉さんはどう思っているんだろう。このお姉さんが仕入れてこのお姉さんが陳列しているんだろうか。三木谷の意向に石井お姉さんは逆らえないのだろうか。原お姉さんが全権を掌握しているんだろうか。意外や意外、ブックカバーはかわいらしかった。

近頃、英語で日記を書いたり、俳句や短歌を作ったり、何かと制限の多い書き方ばかりしていて、奔放に書きたい欲がたまっていたらしい。俳句ができなかった代わりにこんな文章ができあがった。

#短編 #日記 #コラム #エッセイ

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