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押絵の奇蹟(現代訳リライト版)【夢野久作】

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青空文庫▼


あらすじ

明治30年代、東京の丸の内にある演芸館で、美しいピアニスト・井ノ口トシ子が演奏中に喀血し、倒れた。自分の命が長くないことを悟った彼女は、同じ年の歌舞伎役者、中村半次郎(本名・菱田新太郎)に宛てた長い手紙を書き始めた。

トシ子は明治13年、九州の福岡市で生まれた。彼女の父親は黒田藩の馬廻り500石の家に生まれた漢学者で、冗談を一度も言ったことがない堅物の男だった。対照的に、母親は女からも惚れられるほどの美人で、特に押絵作りに優れた手芸の名人だった。この二人の間に、3年後に生まれたのがトシ子である。

トシ子の母親が彼女を妊娠していた頃、博多一の大富豪・柴田忠兵衛が、母親の手芸の腕前を聞きつけ、娘の初節句のために押絵を注文した。柴田はその押絵のモデルとして、当時博多に興行に来ていた東京の名優、中村半太夫(中村半次郎の父親)の舞台「壇浦兜軍記」を母親に見せた。トシ子の父親はそれに嫉妬し、いい顔をしなかったが、母親がその舞台を見た後に作り上げた押絵「阿古屋の琴責め」は、見物人が押し寄せるほどの出来栄えだった。

やがてトシ子が生まれ、彼女は母親の手芸の才能は受け継がなかったが、幼い頃から琴が上手だった。父親は「俺の婆様の遺伝だな」と喜んだが、母親はなぜか曖昧な受け答えをした。そして、トシ子の後に弟妹が生まれることはなかった。母親の手芸はますます評判を呼び、夫が持ち込む仕事に追われ、昼夜問わず働き続けることになった。そんな母親が押絵のモデルに使うのは、いつもトシ子の顔だった。「お前の顔は役者のように綺麗だから、お手本にしているのだよ」と母は言うが、その後に辛そうな顔をするのだった。

トシ子が12歳になった明治24年の春、以前押絵を注文した柴田が再度押絵を注文し、大量の錦絵を届けた。母はその中から「里見八犬伝」の一幕を選び、その役者絵を見たトシ子は、描かれた犬塚信乃の顔立ちが自分に似ていることに気がついた。

やがて八犬伝の押絵が完成し、櫛田神社に奉納された。その評判を聞いたトシ子の父親は正装して見に行き、周囲の群衆の噂を耳にする。娘のトシ子が、歌舞伎役者の中村半太夫と瓜二つに似ているというものだった。妻が妊娠したのは、半太夫の舞台を見ていた頃。その後、妻との間に子供が生まれない…妻が作る押絵のモデルはすべて娘・トシ子の顔…

父親は「妻と中村半太夫の不義密通」を疑い、帰宅するや否や妻子を一刀の下に切り捨て、自身は切腹した。辛くも生き延びたトシ子は柴田に育てられ、後に彼の援助で上京する。そしてある日、歌舞伎の雑誌に載っていた17歳の名優・中村半次郎の写真を見て驚愕する。半次郎の顔立ちは、トシ子の母親にうり二つだったのだ。

トシ子は、自分と半次郎が「男女の双生児」だと確信する。同時にそれは「母親と半太夫の不義密通」の残酷な証拠でもあり、自身の運命を思い泣き伏す。

しかしトシ子は、図書館で資料を調べるうちに、奇妙な学説を見つける。それは、「母親が配偶者以外の者を常に想い続ければ、肉体関係を持たなくても、その者に似た容貌の子供が生まれる」というものであった。

果たして母親と半太夫は、不義密通を犯していたのか?それとも、互いを想うだけの純愛だったのか……

現代訳リライト


看護婦さんの眠っている隙を見て、拙い女文字を走らせるので、読みづらく分かりにくいことばかりだと思いますが、どうか許してください。あれから後、お便り一つせず姿を隠してしまった失礼を、どれほどお思いでしょうか。お詫びが叶う方法を考えると胸がいっぱいになり、悲しく情けなく思うばかりでした。そして、一昨晩、やっとの思いで帰京し、新聞を取り寄せ、私のことが載っている記事を見ましたが、どの記事も私の心を責めるものばかりでした。

あの、丸の内演芸館で催された明治音楽会の春季大会の席上で、突然私が喀血し、近くの総合病院に入院した夜のうちに行方不明になったことについて、新聞社や皆様から寄せられたご同情。それから、お世話になった岡沢先生ご夫婦の心配。そして、特にあなた様が、私のために舞台を休んでまで心配してくださり、いろいろと私を探してくださったことに感謝しています。同じく喀血して入院し、私の名前を呼び続けているという記事を見たときの心苦しさ。そして、あなた様と私が同じ運命にあると知った時の恐ろしさ。ハンカチを絞って泣きました。

私は、ずっと前からあなた様が今の歌舞伎界で一番若く美しい女形の名優、中村半次郎様こと菱田新太郎様であることを知っていました。それだけでなく、あなた様が私と同じ二十三歳であり、婦人をお近づけにならずに女嫌いという評判が立っていることも知っていました。もしかしたら、あなた様は私と同じ運命の糸に縛られているから他の女性に興味がないのではないかと考えていました。言い換えれば、あなた様と一緒の運命に結びつけられる女性は私だけなのではないかと。

拙いピアノ教師として、このような及びもつかないことを考えていることが他人に知られたら、笑われたことでしょう。中村半次郎様こと菱田新太郎様を知っている日本中の女性は皆、同じ夢を見ているから心配することはないと。

「あなた様の運命をずっと前から知っていました。あなた様からの結婚の申込みを受けるのは私しかいないと毎日思っていました。」と申し上げたら、信じていただけないかもしれません。作り話だと思われるかもしれません。でも、そんなことを申し上げてどうするのでしょう。

忘れもしない、あの丸の内演芸館の演奏場で、私は拙いピアノの独奏をしていた時のことです。明治音楽会の幹事をしている松富さんが、楽屋の入口で私の肩を叩いて言いました。「井ノ口さん、しっかりやりなさい。名優の菱田新太郎君が昨日から一人であの一番後ろの席に来ているのですよ。新太郎君は女嫌いと西洋音楽嫌いで有名な人なんですからね。それが男嫌いで通っているあなたの演奏を聴きに来ているのですからね。」と。

この言葉を聞いた時の私の驚きはどれほどだったでしょう。今まで想像していたあなた様と私の夢のような運命のつながりが現実に現れた恐ろしさに、病気と言って逃げ出そうかと思うほど息苦しくなり、胸がドキドキしていました。しかし、あなた様のお顔を見たいという気持ちに引き止められ、「月光の曲」を弾いていたのです。

そのうちに、鳥打帽と背広を着て、大きな色眼鏡をかけたあなた様が、正面の入口からそっと入ってきて、電灯の下の壁に寄りかかりました。その姿を見た時の私の胸の轟きは、どれほどだったでしょう。あなた様は急いで来たせいか、人に気づかれないように壁に身体を寄せて、色眼鏡を外し汗を拭いてから、そっと私の方を見ました。

そのお顔を見た時の不思議な驚きに打たれ、私は気を失いました。皆様に心配をかけただけでなく、思いもかけず喀血し、演奏会が中止になりましたこと、本当に申し訳なく思います。皆様は私の病気のせいだと思い、同情してくださっていますが、私は色眼鏡を外したあなた様のお顔を見て「あっ、お母様…」と叫びそうになったのです。それほどあなた様のお顔が私の亡きお母様に似ていたからです。

あなた様が私のお母様の生まれ変わりだとしか思えなかったのです。私はその時、運命が目の前で行き詰まっていることをありありと感じました。

前にも申し上げた通り、私は一生のうちに一度は、あなた様からの結婚の申込みを受けることを覚悟していました。そして、その申込みを受けてはならないという悲しい運命をも、よく理解していました。

その理由を、これからあなた様にお伝えしなければならない私の切なさ、情けなさ。身を切られるような気持ちです。しかし、この世でただ一人、その理由を理解してくださるあなた様に、お手紙でお伝えできることは、私にとって何よりの幸福です。秘密を胸に秘めたまま旅立つよりも、ずっと。

その理由の第一は、現在、私たちを苦しめているこの病気です。

私の病気は、代々母から伝わったもので、治る見込みはありません。次に、右の背中から右の乳の下へ抜けている刀の刺し傷。この傷と、その背後にある私の生涯の秘密は、命に代えても他人に知られないようにしてきましたが、あなた様にはお伝えしなければなりません。

もう一つ、あなた様に身を委ねられない大切な理由。それは、失礼ながら、私たちは赤の他人ではないように思われるからです。あなた様は、私のお母様の面影をそのまま受け継いでいますが、私はあなた様の若い頃の姿をそのまま女になった姿です。これだけでも、私の言葉が嘘でないことをご理解いただけるでしょう。

どうか心を落ち着けて、これから私が書き綴ることを最後までご覧ください。あなた様と私が両親の姿を取り替えたようになっている理由が、明らかになるはずです。この不思議な縁が、神の思し召しなのか、悪魔の所業なのか、悩み続けている私の心も理解していただけるでしょう。

私はあの演奏場で、あなた様のお顔を見上げた瞬間から、私たちの運命が目の前に迫っていることを知りました。

お許しください。思いが乱れて、取り止めのないことばかり書いているようです。しかし、私たちの運命がはっきりと分かるまでは、あなた様に身を委ねることはできません。それよりも、この病気で亡くなった方が、あなた様のためになると思っています。

あの夜、演奏場から程近い総合病院へ運ばれた後、看護婦の隙を見て、あなた様が私の病室に忍び込んできて、あのようなお言葉を漏らされた時の私の嬉しさと悲しさ。「その病気はきっと僕が治してあげる。君さえ承知してくれれば君は僕の妻だ。僕は命も何もいらない。その証拠にさあ接吻を…接吻を…」ああ、何という勇敢なお心でしょう。もし私があの時に気絶せずにいたら、どのようなことになっていたでしょうか。

やがて、ひとりでに気がついた時、唇や頬に残っていたあなた様の温もりが懐かしく、悲しかった。あの時に、どんなに泣いたことでしょう。何も知らないあなた様を、こんなに苦しめる私の罪深さ、運命の意地悪さを恨みながら泣いたことでしょう。

そのうちに夜が明けかかると、私は看護婦の寝息を見計らって起き上がり、高熱のためにふらふらしながらも身の回りのものをまとめて病院を脱け出しました。そして、演奏の時に着ていたものの上に被布を羽織り、汽車に乗って故郷の九州福岡へ帰りました。博多駅より二つ手前の筥崎駅で降り、人目を忍びながら、氏神の博多の櫛田神社へ参詣し、絵馬堂に掲げてある二枚の押絵に「お別れ」をしました。

あなた様と私の運命に関わる不思議な秘密は、その二枚の押絵に隠れています。私の背中と胸の傷も、あなた様の唇を安心して受け入れられない理由も、すべてその押絵が関わっているのです。だから私はその運命とお別れするために九州まで行ったのです。早かれ遅かれ助からぬ命と思いながら…。

しかし、その二枚の押絵を見ているうちに、何かしら高貴な力に引き立てられるような気がしました。八犬伝の一節で、犬塚信乃と犬飼現八が芳流閣の上で闘っている場面と、阿古屋の琴責めの舞台面。どちらも大きな硝子張りの額縁に入っており、西の正面に並べられています。それを見上げているうちに、運命の力が再び私の心に働きかけているのではないかと思いました。

その時ほどに運命の力を嬉しく、楽しく感じたことは一度もありませんでした。この世の中に運命でないものは一つもない。だから私はこの病気で死ぬとは限らない。もしかすると、再び健康な身体になって、あなた様に会うことができるかもしれない。


そのような運命を知っているのは、二つの押絵ばかり。

刀を振り上げている犬塚信乃と、琴を弾いている阿古屋だけが、すべてを知っているのです。運命に逆らおうとしても、何の役にも立たない。私は運命の手に抱かれて、あなた様のお傍に参りましょう。そして、お懐かしい胸に縋って、今までのことをすべて打ち明け、心ゆくまで泣かせていただきましょう。それが私の本当の運命なのでしょう。

そんな夢を見るような、安らかな気持ちになりながら、うつつともなくウトウトして上りの汽車に乗ったのです。東京へ帰り着くと、場末の名もない小さな宿屋に泊まり、あれから後の新聞を読みました。その中でも、特にあなた様の親切に心を打たれました。あなた様のお心のほどと、そのために急に重くなったご病気のことを知り、運命の力をどれほど恐ろしく思い知ったことでしょう。新聞を抱き締めて泣き濡れました。

何度も思い返して、運命に身を委ね、あなた様にお目にかかり、この秘密を打ち明けるほかに道はない。そうすれば、あなた様と私の病気も癒えるかもしれない。いえ、あなた様と私が同じ病気に倒れたのは、運命が私をあなた様の元へ引き戻そうとしているのかもしれない。そう思いながら、いく度もあなた様へ手紙を書き直しました。お恥ずかしい心と拙い文章が気になり、何枚も破り捨てました。

そうしているうちに、私はもどかしくて堪えられなくなりました。すぐにでもあなた様にお目にかからなければ死んでしまいそうな思いに駆られ、手紙を書いているうちに気が遠くなりそうでした。すぐに宿の払いを済ませ、他人の目を避けてあなた様の見舞いに伺うつもりで、手荷物をまとめました。その時、博多で求めた灰色のブランケットを畳んでいるうちに、二度目の喀血をしました。

どうぞお許しください。その時、毛布の上に突っ伏して、あなた様と私の運命が砕かれていく姿を幻に見ました。青い空か海か分からない美しいものが、お互いに血を吐きながらも一つに抱き合っているあなた様と私の身体を吸い込もうと待っているのが見えました。そうして、あなた様と私はその方へ吸い寄せられていきました。

幻が消えると、私は気を取り直しました。息も絶え絶えに思いながら、血の跡を隠し、この北里先生の療養院に参りました。もう命はないと思いながら、この紙と鉛筆を寝床の下に忍ばせ、看護婦の隙を見て手紙を書いています。

この手紙を最後まで読んでいただければ、あなた様はすぐにある一つのことを思い出すに違いないと思います。それはあなた様にとって何でもないことかもしれませんが、それを思い出していただければ、すべての秘密を解くことができると信じています。あなた様と私の間にある不思議な運命の謎を解いていただける方は、広い世の中であなた様だけです。私はそのたった一つのことを、あなた様にお尋ねしたくてたまりませんでした。そうした勇気を出すことができず、今日まで生き延びてきたのです。

何から先に申し上げてよいかわかりません。この悩ましさをどうしましょう。焦っても進まないこの筆のもどかしさをどうしましょう。ああ、あなた様のあの熱い涙のお言葉と、お口づけを一生の思い出としてあの世に旅立っては悪いのでしょうか。

私はこの頃、毎晩のようにあの押絵の夢ばかり見ます。あの芳流閣の一番頂上の真青な屋根瓦の上にまたがって、銀色の刀を振り上げている犬塚信乃の凛々しい姿や、厳しい畠山重忠の前で琴を弾いている阿古屋の姿を繰り返し夢に見ます。それにつれて父や母の顔や、故郷の家の様子が幻のように美しく、千切れ千切れに見えてきます。目が覚めると、ちょうどその頃の子供心に戻ったような、甘く懐かしい涙が流れて止まりません。

それは熱のためだけではないでしょう。おそらく私の命が残り少ないからでしょう…そう思うと、あなた様の顔が一層懐かしく、悲しく思い出され、胸がいっぱいになります。

私の生家は福岡市の真ん中を流れ、博多湾に注ぐ那珂川の口の三角州にありました。

その三角州は東中洲といい、博多と福岡の町の間に挟まれています。両方の町から橋が架かっていますが、博多側の一番南の端にある水車橋の袂の飢人地蔵様の横に私の生家がありました。その家は今でも昔の形のまま、杉の垣根に囲まれ、十七銀行のテニスコートの横に地蔵様と並んでいます。

今から二十年ほど前に私たちが住んでいた頃の東中洲は、今のように繁華な所ではなく、海岸際と南の端の川が分かれている近くに家が並んでいました。私たちの家はその中間の博多側の川縁に、菜種やカボチャの花や青い麦に囲まれた一軒家でした。私の家は黒田藩の馬廻五百石の家柄で、父は養子でしたが、昔気質の頑固一徹で、近くの若い人たちに漢学を教えていました。

父は生まれつき酒が嫌いで、大の甘党だったため、私が十歳になった時には胃の調子が悪く、保養のために畑仕事をしていました。そのせいか顔色が黒く、眉毛が太く、目が深く切れていて、大きな口を持つ武士らしい怖い顔をしていました。

一方、母は世にも美しい、不思議な人でした。母は生きるためにしか食事をしないように見えるほど小食で、髪をきちんと流行風に結っていました。飾り気がなく、それがまた美しく見えました。母を育てた乳母のオセキという元気な婆さんは、大きな段々重ねの桐の箱を背負って小間物屋をしていましたが、母はその婆さんから油や元結を買う以外は贅沢をしませんでした。夏には自分で染めた紺絞りの単衣を着ていて、白い顔色や襟足が映えて上品に見えました。

ある時、母が手拭を姉さん冠りにして火鉢の前でおまんじゅうを焼いてくれた姿が今でも目に焼き付いています。「あなたのお母様は絵のようだが、絵よりも美しい」とある人が言いました。「女でさえ惚れ惚れする」と昆布売りの女が言ったこともあります。母の美しさは噂になり、福岡の流行歌にも取り上げられました。

「みなさんみなさん、福岡博多で、釣り合いとれぬが何じゃいナ。トコトンヤレトンヤレナ。あれは井ノ口旦那と奥さん。中洲に仲よく、暮すが不思議じゃないかいな。トコトンヤレトンヤレナア」

母の本当の不思議は指先の技術でした。母は七歳の時に初のお節句に貰った押絵の人形を壊して作り直し、独学で押絵の技術を覚えました。それ以来、手習いが済むと人形の顔形や花模様を描いて遊んでいました。十歳くらいになると、遊びで作った押絵の人形が評判になり、売れ始めました。十四歳の時には押絵の技術が師匠と変わらないほど上達し、刺繍も大人のそれよりも綺麗に作れるようになりました。

父が月川家から養子に来たのは母が十五歳の時で、父は二十四歳でした。母が結婚した翌年の十六歳の正月、師匠の家に年始に行った際、厚い博多織の男帯の仕立て直しを頼まれました。母は泣く泣く引き受けましたが、仕立て直した帯が評判になり、相撲取りが礼に訪れました。父はそれを見て怒り、「うちの家内はお前達のような者に近づきは持たぬ」と言い、母に角力取りの仕立てをしないように厳命しました。

さらに母が十八歳の時、博多で一番の大金持ちの柴忠(本名は柴田忠兵衛)さんが父に会いに来ました。彼は娘の初節句に母の押絵を飾りたいと頼み、東京から来る中村半太夫(あなた様のお父様)が演じる「阿古屋の琴責め」の場面を五人組に作って欲しいと言いました。費用や手数は一切惜しまないと言う彼の熱心な頼みでしたが、厳格な父はなかなか許しませんでした。

柴忠さんの説明で芝居が辻学問であること、俳優が礼儀正しい人間であることを理解し、父はようやく「見に行こう」と言いました。芝居が始まると、母、父、お祖母様の三人で瓢楽座に出かけました。最初の日に中村半太夫が羽織袴で挨拶に来て、彼の人品に父は感心し、「武士ならば千石取りじゃ」と言いました。

四五日目になると、父は「頭が痛くなりそうだ」と言い、お母様と二人で留守番をすると言いました。母は遠慮しましたが、柴忠さんの強い勧めで、あと三日ほど芝居を見に行きました。そして五日目にざっと下絵を描き、六日目にもう一度芝居を見て細かい部分を直してから作業に取り掛かりました。一週間で「阿古屋の琴責め」の五人組の人形が完成しました。

その押絵人形は、阿古屋の髪の毛を一本一本黒繻子で植え、眼球には膠を塗って光らせ、緋縮緬の着物に白と絞りの牡丹を浮かせ、金銀の蝶々を飛ばして動くようにし、帯の唐草模様を絵刳り込みにしたものでした。中村半太夫が見た時、「自分が一番苦心している遊女の姿態をどうしてこんなに細かく見て取られたのか」と驚き、博多の人々の噂になりました。

その「阿古屋の琴責め」の五人組の押絵が柴忠さんの家に飾られると見物が絶えず、最終的に押絵を櫛田神社に寄贈することになりました。その押絵は、立派なビイドロ張りの額縁に納められ、さらに金網で包まれ、神社の絵馬堂に飾られました。

その後、母の評判がますます高まりましたが、私を身ごもったために八月からの注文はすべて断ることになりました。

私が生まれる前後のことについては、後にいろいろと聞きました。例えば、私の生まれてからすぐに流行り出した手鞠歌のことなどです。

私が生まれてから間もなく流行り出した手鞠歌で、今でも福岡の子守女が歌っている歌です。

「イッチョはじまり一キリカンジョ……
一本棒で暮すは大塚どんよ。(杖術の先生のこと)
二ョーボで暮すは井ノ口どんよ。
三宝で暮すが長沢どんよ。(櫛田神社の神主様のこと)
四わんぼうで暮すが寺倉(金貸)どんよ。
五めんなされよアラ六むずかしや。
七ツなんでも焼きもち焼いて。
九めん十めんなさらばなされ。
眼ひき袖引きゃ妾わたしのままよ。
孩児ややが出来ても妾の腹よ。
あなたのお腹なかは借りまいものよ。
主ぬしは誰ともおしゃらばおしゃれ。
生んだその子にシルシはないが。
思うたお方にチョット生きうつし。
あらイッコイッコ上がった」

この手鞠歌は、父と母、そして私についての噂を元に作られたものでしょう。父は色黒で逞しく、醜男でしたが、母は美しい人でした。このギャップが人々の噂を呼んだのです。

父は手鞠歌が流行り出してからというもの、毎日墓参りや神仏への安産の願掛けをし、母を外に出さないようにしました。父は冗談一つ言わない真面目な人でしたから、歌の裏に隠された本当の意味は理解していなかったでしょう。ただ、自分のことが歌われているのが気に障ったのでしょう。そんな歌を家の表で歌う子守女たちを叱りつける声が川向うまでよく聞こえたそうです。

その頃の私の家の暮らしは、作米と漢学の礼金のほか、母の押し絵や針仕事で成り立っていました。私が生まれた後、両親は多くの辛いことを経験したことでしょう。その意味も、この手鞠歌に込められているのです。母は鳥目になると言ってオセキ婆さんの止めるのも聞かず、早くから髪を洗い、針仕事を始めました。父もまた、それからは人が笑うのを気にせず、朝夕の買い物を自分で出かけるようになり、母は家にいて仕事をしていると父の機嫌が良かったので、お祖母様は困っていたそうです。

しかし、今になって考えると、父の心持ちがよくわかる気がします。美しい母を働かせて金を貯める楽しみと、母を愛し大切にする心持ちを混同していたのです。父にとって、母が家にいて夜も寝ずに働く姿を見るのが何よりも楽しく、嬉しかったのでしょう。おそらく母の仕事好きも普通の意味を超えていたのでしょう。私が生まれた後、母は人間世界を離れ、仕事に没頭して他のことを忘れようとしていたのだと思います。

私が生まれた後も、母は家のことはもちろん、外から頼まれる裁縫や刺繍、押絵の人形など、どんなに忙しくても断りませんでした。物心ついた後も同じで、夜も寝ずに羽織や袴、婚礼の晴着を作り、近所の娘さんたちに裁縫を教え、家内四人の着物も縫っていました。夏の暑い夜、蚊に責められてもお構いなしに、冬の寒い日に手足を温める暇もないほど働いていました。

私の家には、昔からの風習や習慣が色濃く残っていました。父は厳格で、母はそれに従っていました。父が決して冗談を言わず、真面目一筋の人間だったことが、母の働きぶりに影響を与えていたのだと思います。父は母を大切にしていましたが、その愛情は少し歪んでいました。母を働かせることが、父にとっての愛情表現だったのです。

母が十八歳の時、博多で一番の大金持ちの柴忠さんが父に会いに来ました。

彼は娘の初節句に母の押絵を飾りたいと頼み、東京から来る中村半太夫(あなた様のお父様)が演じる「阿古屋の琴責め」の場面を五人組に作って欲しいと言いました。費用や手数は一切惜しまないと言う彼の熱心な頼みでしたが、厳格な父はなかなか許しませんでした。

最終的に母が五人組の押絵を作ることを許されました。中村半太夫がその押絵を見て感嘆し、博多の人々の間で評判になりました。その押絵は最終的に櫛田神社に寄贈されました。その後、母の評判はますます高まりましたが、私を身ごもったために仕事の依頼を断ることになりました。

私が生まれる前後のことについて、後に聞いた話の中で、手鞠歌についても触れました。その手鞠歌は、父と母、そして私についての噂を元に作られたものです。父が色黒で逞しい一方、母が美しいことが噂の的になったのです。

父は手鞠歌が流行り出してからというもの、毎日墓参りや神仏への安産の願掛けをし、母を外に出さないようにしました。父は冗談一つ言わない真面目な人でしたから、歌の裏に隠された本当の意味は理解していなかったでしょう。ただ、自分のことが歌われているのが気に障ったのでしょう。そんな歌を家の表で歌う子守女たちを叱りつける声が川向こうまでよく聞こえたそうです。

その頃の私の家の暮らしは、作米と漢学の礼金のほかは母の押し絵や針仕事で成り立っていました。私が生まれた後、両親は多くの辛いことを経験したことでしょう。その意味も、この手鞠歌に込められているのです。母は鳥目になると言ってオセキ婆さんの止めるのも聞かず、早くから髪を洗い、針仕事を始めました。父もまた、それからは人が笑うのを気にせず、朝夕の買い物を自分で出かけるようになり、母は家にいて仕事をしていると父の機嫌が良かったので、お祖母様は困っていたそうです。

しかし、今になって考えると、父の心持ちがよくわかる気がします。美しい母を働かせて金を貯める楽しみと、母を愛し大切にする心持ちを混同していたのです。父にとって、母が家にいて夜も寝ずに働く姿を見るのが何よりも楽しく、嬉しかったのでしょう。おそらく母の仕事好きも普通の意味を超えていたのでしょう。私が生まれた後、母は人間世界を離れ、仕事に没頭して他のことを忘れようとしていたのだと思います。

何を申しましても私が生れましたのが阿古屋の琴責めの人形が出来ました年の新の師走も押し詰まった日で御座いましたのに、それから一箇月半ほど経った新の二月の中旬を過ぎますと、もう家うちの事はもとより、旧正月の仕事として外ほかから頼んで来る裁縫や袱紗ふくさの刺繍、縫紋ぬいもん、こまこました押絵の人形など、どんなにお忙がしくともお断りにならなかったそうです。

これは私が物心ついてから後のちも同じ事で、羽織、袴、婚礼の晴着と急ぎの頼みを、夜よの眼も寝ずにお作りになるほかに、お父様の漢学のお稽古のあとで、近いあたりの娘さんが十人ばかりもお稽古に来られます。それを教えながらお母様は家内四人(お祖母様のも)の着物まで縫われますので、そのまめなことと熱心なことは、子供心にも感心する位で御座いました。夏の暑い夜、蚊に責められてもお構いにならず、冬の寒い日に手足をお温めになる暇もない位セッセとお仕事を励まれました。

その頃、博多や福岡の町では押し絵が大変に流行していました。町の大家では、女の子が生まれると初節句には、みんな歌舞伎役者の柴忠のように、小さな舞台を作り、その中に押し絵の人形を立てるのが習わしでした。3人組なら3円、5人組なら5円と、値段を決めて注文に来ました。母は、そんなにお金をかけるのはできないと言っても聞き入れてもらえません。父が「できる範囲で手伝う」と言うので、母は泣く泣く引き受けていました。当時はお米が1升10銭以下で、「米が10銭そこそこサッコラサノサ」という歌が流行っていましたが、お金の心配は父がしてくれ、毎日郵便局に預けていたので、母は本当に地獄のようなお仕事でした。

しかし、母の作品は他よりも丁寧に作られていました。安物でない黒い絹糸を1本1本に植え、小さな指先まで綿で作り、着物にも模様を切り抜き織り目が合うように作っていました。正月の羽子板も大きいものは、板だけでなく上部を彫り抜き、提灯の絵描きに手水鉢や石灯籠などの模様を描いてもらい、母が着色していました。

押し絵の下絵は、母が持つ錦絵や弟子からの写しの下書きから生まれ、優しい表情や厳しい表情の面白さを表現していました。また、大きな袱紗に刺繍された花や蝶の模様の美しさにも感心しました。父は、母のそんな仕事ぶりを火鉢の向こうから私と一緒に眺め、時には押し絵の足の竹を削って手伝うのが楽しみのようでした。

私は大人しい子供で、泣き散らすこともあまりありませんでした。

6、7歳になると、母からもらった布切れで人形を作ったり、母の下絵を見て遊んでいました。私にとって母の押し絵の仕事を見るのが何よりの楽しみで、父が畑仕事から母を呼ぶのが恨めしく思えました。特に母が人形の顔の目、鼻、口を描く時は、私を呼んで向きを変えながら私の顔を見比べ、そのまま人形の顔に描いていました。

人形の顔は私に似ているわけではありませんでしたが、だんだん自分の顔に似た部分が分かるようになりました。ある時、私が「これは私の目や口、鼻、眉毛だ」と言うと、母は「あなたの顔は役者のように綺麗だから手本にしているの」と笑いました。しかし、すぐに悲しい顔をして、涙を落としました。私も悲しくなり、二度とそんな事は言いませんでした。はっきりとは覚えていませんが、その後、母は自分や私の顔を見比べながら、押し絵の顔を作っていたようです。

正月の人形を済ませると、3月3日の雛祭りの人形作りに取り掛かりました。博多の店から中級品を、田舎からは極安の品を大量に注文されました。2月になると上物を注文するので、月末になると徹夜も珍しくありませんでした。そんな時は私は父に抱かれて寝ていました。

3月になると、ようやく母に抱かれることができると思ったのも束の間、梅雨の間は機織り仕事、夜具の洗濯、一年分の晴れ着の手入れをしなければならず、その合間に裁縫や刺しゅうの注文もありました。6月に入るとポツポツと8月の雛祭りの人形作りに取りかかります。福岡の習わしで3月過ぎに生まれた女の子は8月に祝うのですが、母はそれほど忙しくありませんでした。

8月になると、正月の押し絵の準備をします。当時は今のようにボール紙がなかったので、母が古紙屋に頼んで古紙を大量に買い、合わせ紙を作っていました。それが大変で、秋の日に縁側から庭や畑に一杯干していることが多くありました。そんな時、父は「せめてその手伝いくらいはできる」とよく言っていました。しかし、父の手は畑仕事で荒れていたので、糊付きの紙を扱うと逆に邪魔になり、母一人でやるよりも手間取っていました。

私も母の忙しさを見て、手伝いたいと思っていましたが、なぜか同じ指を持っているのに、母のような裁縫や洗濯ができず、字を書くことと琴を弾くことだけが得意でした。毎日学校帰りに琴の稽古に通い、家で復習するのが何よりの楽しみでした。両親は私のことを可愛がり、弾くたびに褒めて、お菓子をくれました。

「この子は祖母の血を引いているらしい。あの阿古屋(有名な琴の名人)のように上手になるだろう。弾く手つきも押し絵そのままだ」
と父は言っていましたが、不思議なことに母はそんな時、はっきりと返事をせず、淋しそうな微笑みを浮かべ、時に涙を溜めていました。しかし父はそれに気づかず、私だけが気づいていました。

12歳の春、家の様子はずいぶん良くなり、父は家の修繕や塀の改築をしました。

三人で見回りながら
「どうしてこの子の弟か妹が生まれないのか。もう一人か二人いないと家が広すぎる」
と父が言った時も、母は暗い冷たい表情を浮かべただけでした。

家が立派になるにつれ、母も安い仕事は受けなくなり、上等の押し絵や刺しゅうばかりを作るようになりましたが、それでもたくさんの量と高い手間暇がかかる作品ばかりでした。押し絵の顔は私と母の顔を混ぜたもので、上等のものほど私の顔を取り入れていたので不思議に思っていました。

しかし、その中で2度ほど父の顔を使ったことがあります。それは私が12歳の春のことでした。最初は、大阪の店から外国の金持ちに売る金張りの押し絵を注文されました。母は三国志の関羽、張飛、玄徔の3人を作りましたが、錦絵の手本が気に入らず、父に手本を見せてもらい、何度も顔を書き直しました。その時、
「俺は貴様の押し絵になって外国へ行って異人どもを睨み殺してくれる」
と父が怖い形相で言ったので、私と母は驚いて飛び上がりました。しかし、すぐに3人で大笑いしたものでした。
「まあ、筆が火鉢に落ちた」
母が灰まみれの筆を拾うと、またみんなで大笑いしました。母がこんなに心から笑うのはこの時しかありませんでした。

出来上がった関羽と張飛の人形は厳かで立派で、特に張飛の目は生き写しのようでした。人形を見に柴忠さんも来て、感心しながらこう言いました。

「奥さんの押し絵の腕前は阿古屋の琴の段物より上手になりました。そこで、この阿古屋の作品と並べて、今一つ同じようなものを作り、櫛田神社に奉納したいと思いますが」

母は喜んで頷き、父は自慢そうに「奥はわしの顔を手本にこの人形を作った」と話しました。母は恥ずかしそうに台所へ逃げましたが、台所で泣いていました。
「私は錦絵さえあればお金は要らない。父さまはいつも慾深いことばかり」

しばらくして東京から大きな箱が送られてきました。開けてみると、たくさんの錦絵が詰まっていました。
「まあ、みんな絵ばかり」
母の指がワナワナと震えていたのが印象的でした。錦絵の美しさと香りに、お座敷中が明るくなったようでした。関羽や張飛の3枚続きの絵が何種類かありましたが、母は八犬伝の5枚続きの絵を選びました。

「これを作ってみましょう。この屋根の瓦や現八の前垂れを本物のようにしてみましょう」
と母が父に相談しました。父も驚きましたが、信乃と現八の顔をうっとりと眺めていました。しかし、私が信乃の顔を横から見た時の驚きは何ともいえませんでした…


信乃の顔のすぐ横にある赤い短冊には「中村珊玉」と書かれていました。父が改名したことは知りませんでしたので、別の人かと一瞬思いました。しかし、阿古屋の顔に男らしい長い眉をつけただけで、そのままうり二つの信乃の顔になることが分かりました。同時に、母がその錦絵を選んだ本当の理由が初めて分かったような、分からないような、不思議で恐ろしい気持ちになり、母に尋ねることもできず、小さな胸がワクワクしました。

しかし当時の私には、そこまで深く自分の気持ちを考える力はなく、何か悪いことを隠しているような怖い気持ちになり、親の顔を見上げることもできずに、ただ信乃と現八の顔を見比べていたように思います。

おそらく父の名前が変わっていたせいで、気付かなかったのでしょう。
「この瓦をどうやって本物のようにするか」
父はにこにこしながら母に尋ねていました。

母はその日から5枚続きの絵を写し取り、5日目に楠の一枚板に仕上げました。板の上に金の鯱と青い瓦が本物のように切り抜かれ、片膝をついて刀を振り上げる信乃の顔には私の顔を、身構える現八の顔には父の顔を生き生きと描いていました。その現八の前垂れの刺繍の美しさに、柴忠さんも感心していました。

その押し絵は、春の終わりに櫛田神社の絵馬堂に、阿古屋の琴の段物と並べて奉納されました。柴忠さんの工夫で額は硝子張りの箱に入れられ、色あせた阿古屋の人形とくらべると、新しく鮮やかでした。

明治24年5月24日の昼前、父は突然
「俺はちょっとその見物人を見てくる」
と、私を残して出かけていきました。その日の父の顔つきを、私は今でも覚えています。

帰ってきた父の顔は、まるで病人のように血の気がなく、私の琴を跨いで刀掛けに行き、鞘を抜いて見ました。そして怖い目つきでじっと私の顔を見つめ、笑みを浮かべながら私を抱き上げ、また床の間の前に座り、私の顔をじっと見入っていました。口元がゆがみ、大きな目から涙がこぼれ落ちました。

私は怖くて悲しくなり、ただ父の顔を見つめていると、父は突然私を押し倒し、頬を思いっきり打ちました。私は初めて父に殴られ、大声で泣きました。

「まあ、あなた、何をなさいます」
母が台所から走ってきましたが、父に帯締めを捕まれ、畳に押し付けられました。

母は丸髷に薄化粧をしており、青い帷子を着けていました。
「お帰りなさいませ。まあ、あなたはどうしてそんな手荒いことを」
と言いかけると、父の大声が私の後ろから響きました。
「黙れッ。そこに座れッ」
母はびっくりした顔をしながら素直に座りました。
「もっとこっちへ寄れッ」
と父が言うと、母は進んで座り直しました。

父は黙って母の顔を睨め、私の帯締めを掴んでいました。母も黙って父の顔を見つめ、2度ほどまばたきをしました。
「貴様は…中村半太夫と不義をした覚えがあろう」
父の手が震えました。
「あっ…まあ…」
母は驚いて泣き伏しました。しばらくして父は低い声で言いました。
「覚えがあろうの…」
「ええっ…そんな事ありません…夢にも…まあ」
母は青白い顔と赤い目を上げました。
「黙れっ」
父の声が私の耳に響きました。
「覚えがないといって証拠がある」

母はじっと父の顔を見つめ、気を落ち着けようとしました。その悩ましく痛々しい姿を忘れることはできません。母の声はいつもと違ってふるえていました。
「ど…どのような…」
「黙れ。どのようなとは白々しい…あの櫛田神社の犬塚信乃の押し絵の顔は誰に似せて作ったッ」
母はホーッと溜め息をつき、静かに私の顔を見ながら言いました。
「このトシ子(私)に似せて作りました」
「このトシ子の顔は誰に似ている」
父は私の頭を掴み、母の方へ向けました。
「ええっ」
母の声がしただけで、私の左目に父の指が入り、痛くて目を開けられなくなりました。するとまた父の声が続きました。

「俺は今日まで知らなんだ。けれども櫛田神社の額を見ながら人の噂を聞いて、あの犬塚信乃の押し絵の顔が中村半太夫の舞台に生き写しだとわかった。貴様の作った人形の顔が上物になればなる程、中村半太夫に似ていることも知った。この子の眼鼻立ちが中村半太夫と瓜二つになっていることは近所の子守女まで知っていた。この年月、貴様に子が生まれぬわけも今わかった。貴様は、よくもよくもこの永い間俺に恥をかかせおったな」

母は畳に伏し、声を押し殺して泣き続けていましたが、一言も弁明しようとしませんでした。私は母がすぐに詫びると思っていましたが、今回ばかりは泣くばかりで、やがてその声さえ上げずに心行く限り泣いているようでした。

母の声をじっと聞いていた父は、やがて武士らしい威厳のある声で言いました。

「おれは覚悟した。貴様の返事一つでは、その場を立たせずにこの刀で成敗を決めてくれる。先祖の位牌を汚した詫びにするつもりだ。さあ、返事をしないのか」
父は私の頭から手を放し、また帯締めを掴みました。

そのとき母はぴたりと泣き止み、静かに顔を上げました。うつむいたまま前垂れを解き、丁寧に畳んで横に置き、鼻紙で顔の乱れを直し、髪をまとめてから、やおら父を見上げました。その時の母の神々しさは、悲しみも驚きもなく、女神のような清浄な方に見えました。

母は両手を畳の上に揃え、じっと父を見上げながら言いました。
「申し訳ございません。お疑いはごもっともです」
新しい涙がキラキラと光り、長い睫毛から白い頬を伝って落ちましたが、母はそのまま続けました。
「どうぞ、お心のままにおしまいください。私は不義を働いた覚えはございませんが、この上のお宮仕えはできません」
「何っ…何っ…」
「お名残り惜しいですが、あなたの手にかかりまして…」
「何じゃと…」
父は私をゆすぶりました。母は落ちる涙を鼻紙で押さえて言いました。
「ただ、このトシ子(私)だけはお許しください。それは正にあなた様の…」
「何を…またしてぬけぬけと…」
「いいえ…これだけは正に…」
「ええっ…まだ言うかっ…」
「いいえ…これだけは…」
「黙れっ…ならぬっ」
父がそう言うと私を突き放しました。私は琴の上に伏せ、琴柱が2、3本倒れてパチンパチンと音がしました。

ここから先を書くのは忍びますが、書かないと疑問が残ると思うので、覚えている通りに書きます。

私がようやく起き直った時、正座して手を膝に置いた母と、突っ立った父の姿が、暗い庭を背に見えました。その時、父の右手に刀はなく、母の後ろの壁に赤い花びらのような滴が5、6つ飛びかかっていました。

しばらくすると、母の襟元から赤いものがずうっと流れ出し、左肩の下から深紅の塊がむらむらと湧き出て乳の下へ這い拡がりました。青い召し物の襟が三角に切れ落ち、血の網に包まれた白い乳の片方が見えましたが、母はうつむいたままちゃんと座っていました。

私は夢中で母に飛びついたように思います。背中と胸に何か火のように熱いものが触れ、母の上に折り重なって倒れたようですが、夢中でどんな気持ちだったかはっきりしません。気がついた時は病院の寝台に白い着物の人に取り囲まれていました。

母の肩を斬られ、私と母を一緒に刀で刺されましたが、私の肺は避けられて助かりました。しかし母は心臓を貫かれ、片手で私を抱き締めたまま絶命したそうです。父はその後切腹したが、詳しいことは知りません。柴忠さんが始末をしたそうですが、両親の事を訪ねると苦い顔をされるので、私も気をつけて訪ねないようにしていました。

私は3年間柴忠さん家にお世話になり、福岡の小学校に通いました。柴忠さん夫妻の親切は計り知れませんでした。特に、母が押し絵を作った娘さんには、私を妹のように可愛がっていただきました。

しかし16歳で高等小学校を卒業すると、柴忠さんに東京の音楽学校入学を決意しました。教会でオルガンを習い西洋音楽の面白さに魅了されたことと、生まれ故郷の福岡には居られなくなった気持ちからです。

新聞に「不義者の子」「東京一の女形俳優と福岡一の別嬪夫人の間に生まれた謎の子」と指さされるようになり、成長するにつれてわかってきたからです。学校の修身の時間に、先生が貞女の話をすると、妙な表情になり口を噤まれる心苦しさ。級友全員の視線を感じ、泣いた情なさ。柴忠さんに「中村半太夫の娘さんが見たい」と言われ、障子の外で泣いた口惜しさ。

そのうち、私の傷を人に見られるのが恥ずかしくなり、夜中に内緒で風呂に入りました。ある冬の夜、切り戸の外で下男たちが「恐ろしい大きな傷だ」と囁く声が聞こえ、寒くなるまで風呂に沈んでいた情けなさ。そのあと布団の中で泣き明かしたこと。母にそんな酷いことをされる筈がないと思いながらも、私の顔が中村半太夫に似ているという事実は動かせませんでした。

それだけでなく、私自身にもわからない不思議な理由がありました。泣かされながらも、毎晩お掃除をした後で湯殿の鏡を見ないことはありませんでした。すると、鏡に映る私の顔が日によって信乃か阿古屋に似て来るのです。これが母の世間への復讐なのか、母の残された思いの固まりなのかと思うと、鏡に向かって泣いたり、信乃や阿古屋の表情を真似て遊んだりしていました。「不義者の子」という名前さえ気持ちよく思えてきました。そんなことで、男性の親切を喜ばなくなった性質になったのかもしれません。

しかし14、15歳になると、私の気持ちがまた変わってきたように思います。

その頃までは、毎晩家中が寝静まった後、私一人でお湯殿の鏡台の前に座るのが、秘密の楽しみになっていました。そうして毎晩、そのような物思いを重ねては、泣いたり笑ったりしていました。すると、次第に鏡の中の私の顔の輪郭が、なぜか亡くなったお母さまに似てきたことに気づき、驚くようになりました。以前と変わらぬ目鼻立ちでありながら、少し面長になり、あごや首筋にほのかな青白い色がさして、お化粧をしていないのに、そのあたりがお母さまにそっくりに見えるようになったのです。毎日見るうちにそれがはっきりとわかり、最終的にはあの犬塚信乃と阿古屋の目鼻立ちや唇を備えたお母さまがきちんと鏡の中に座り、私を見ておられるようにさえ思えるようになりました。

そのお母さまのお姿は、不思議にも、お父さまにお斬りになる直前の、何とも言えない清らかなお姿に見えてしまうのでした。そうしてそのお姿を一心に見つめていると、やがてその鏡の中のお母さまの唇が動き出し、かつてお話しになった言葉がはっきりと私の耳に響いてきました。
「私は不義を働いたつもりは毛頭ありません...しかし、このままでは宮仕えはできません」
そのお声を聞くたびに、私はいつも振り返らずにはいられませんでした。そして、誰もいないことを確かめると、今一度自分の口でそのお母さまの謎めいた言葉を繰り返し、あの時とおりの涙を
ほろほろと流さずにはいられなかったのです。

私はだんだん鏡を見るのが怖くなってきました。鏡に映る私の顔は、時に気味が悪く不思議に思え、またある時はたまらなくなつかしく思えました。結局鏡というものは、馬鹿げていて恐ろしく、気が立つ品物のように感じられるようになりました。やがて通学路でさえ、他人の店の窓ガラスを見るのが悲しくて気味が悪く、胸がドキドキするようになったのです。そうしてついには、

...もうどんな事があっても鏡は見ない。化粧もしない。髪は引き締めてクルリと巻くことにしよう。そしてお母さまの謎めいた言葉の本当の意味がわかるまでは結婚もしない。
私は東京に上って中村珊玉様にお目にかかり、「私は不義を働いたつもりは毛頭ありません...しかし、このままでは宮仕えはできません」とはっきりおっしゃったお母さまの言葉の意味を解き明かしてもらおう...そして私がお母さまの不義の子でないことを確かめるまでは、絶対に男性の親切を受け入れまい...
と、男勝りな心持ちになってしまいました。

こう決心すると、ある夕方にそっと柴忠さんの家を抜け出し、博多築港の石垣の上に行きました。そして手持ちの粗末な手鏡を帯から取り出し、自分の顔とお別れを告げると、青々とした満ち潮の海に投げ込みました。鏡が一丈ほど深く、丸く穏やかな波に揺られキラキラ光りながら、底に見えなくなるまで見送ったのでした。
これが私の16歳の春のことでした。

柴忠さんは喜んで私のわがままを聞き入れてくださいました。
「それは良いことだと思います。ちょうど東京の音楽学校の講師で帝大の教授をしている岡沢という私の幼なじみがいますから、紹介状を書いてあげましょう。気立ての良い夫婦で子供がいないので、喜んで世話をするでしょう。中洲の屋敷を売った金は私が預かっていますから、必要な時にいつでも言ってください。そして、これは私の寸志ですが、旅行の際に備えて肌身離さず付けておいてください。あなたは今や、井ノ口家の一人娘になられたのですからね...」
と柴忠さんは親切な言葉を並べ、旅費とともに生まれて初めて見る百円札と紹介状を下さいました。開封済みの紹介状には、柴忠さんから読むように言われ、また岡沢先生あての手紙の内容も見せていただきましたが、どちらにも私の事を亡くした友人の一人娘と書かれていて、両親の事は一切記されていませんでした。私はほっと安心したものです。

女性らしい愚痴を長々と書き連ねてしまい、おそらくうんざりされたことでしょう。しかし、その時の私は一生懸命だったのです。そのおかげか、門司から備後の尾道まで船に酔うこともなく、新橋に着いた時には三日三夜かかっていました。そこで岡沢先生夫妻に迎えられ、谷中の静かな家にお世話になりました。

その後、中村珊玉様を訪ねるか、歌舞伎座に行くかと考えつつも、具体的な手がかりも方向も分からずにいました。岡沢先生に打ち明けることもできず、途方に暮れていました。東京の忙しさと賑やかさ、上野の仏和女学校の難しい学科、そして初めて岡沢先生に教わったピアノの楽しさに夢中になり、一年ほど夢のように過ごしました。

翌年の春、ある夕食時のことでした。

岡沢先生が突然こう言い出しました。

「トシ子さん、まだ歌舞伎座に行ったことなかったね」
その言葉にハッとし、先生の顔を見上げながら赤くなりました。先生が私の心の奥に隠していた秘密を見抜いたように感じ、親切心から言っているのではないかと思いました。しかし、奥様は何も知らないように優しく笑って言いました。
「まあ、本当に。トシ子さんはもう東京通だと思っていたら、大切な歌舞伎座を見逃していたのね。明日は日曜日だから、一緒に行きませんか?私も久しぶりに行きたいわ」岡沢先生も笑顔で答えました。
「うん、俺もそう思っていた。歌舞伎座は田舎者が見るものだと思って忘れていた。ハハハハハ。でも、そんな巻き髪では困るから、伊豆の大島に岡沢の親戚がいると思われたら困るぞ」奥様は笑いながら答えました。「まあ、そんなことを……」

その後、先生夫妻はいろいろと歌舞伎芝居の話をしてくれました。音楽と劇の関係、拍子木の音楽的価値と舞台表現など、興味深い話が尽きませんでしたが、私は上の空でため息を押さえつつご飯を食べていました。その中で耳に止まったのは奥様の話で、翌日の演目の中心が「阿古屋の琴責め」で、その役を演じるのが私と同じ年の中村半次郎様だということでした。

私はその時、ご飯を何杯食べたか覚えていません。ただ夢心地で岡沢先生夫妻のお給仕をしながら、別のことばかり考えていました。岡沢先生が「歌舞伎座を見せるのを忘れていた」と言いましたが、本当は私こそうっかりしていたのです。何のために東京に来たのか、その時まで忘れていました。お母様の大切な秘密を唯一知っている中村珊玉様が亡くなったことさえも気付かずにいたのです。

夕食後、先生の用事で郵便を出しに行った帰りに、裏町の小さな文具屋兼雑誌屋で「歌舞伎時代」という雑誌を一冊買いました。部屋に戻って夕明かりのさす窓際で雑誌を開いてみました。それまで雑誌に手を触れたこともない田舎娘でしたが、俳優の名前は古い錦絵についていた名前ばかり知っていました。中村珊玉様に男のお子さんがいること、その方が私と同じ年の中村半次郎様だとは夢にも思いませんでした。

あなた様とお父様の写真を見たのはその時が初めてでした。お父様の写真を見ているうちに、私の顔が鏡の中に浮かび上がってきた時の胸の轟きはどんなものでしょう。次のページを開くと、貴方様のお洋服姿が載っており、その顔が母に似ていることに驚きました。畳に手をついて写真を見入ったまま、不思議で恐ろしい気持ちに包まれました。

そのうち、部屋が暗くなっていることに気づき、小さなランプに火を灯し、震える指で目次の感想談を読みました。今度の追善興行についてあなた様が雑誌記者に語った話を読んで、涙が出そうになりましたが、袖を噛んで我慢しました。その時の雑誌の切り抜きを大切に保管していました。古い話ですので、もうお忘れかもしれませんが。

初の大役「琴責め」

中村半次郎丈談
ありがとう存じます。おかげで熱も出なくなり、生命がけで勉強しております。阿古屋の琴責めというのは、当家の六代前の先祖、白井半之助から伝わっております。父の代になってから方々で演じ、いつも当りを取ったと申します。着付は代々の好みですが、父の代から牡丹に蝶々ということに決まりました。帯は黒地に金銀の唐草模様で、決まっていないのは襟だけですが、父のように黒や黄の凝った渋好みは未熟な私には使えないので、もっと古代紫か水色にしようと思っています。父親の追善ですから白襟にしようかとも思いますが、どうも私の力ではその気分が出せそうもなく、考え中です。

十三貫目の衣裳の由来ですか。それは詳しい事は知りませんが、明治二十四年の正月、父が関西地方の興行に出かけ、長崎から博多を打ち止めにして、三月のお芝居に間に合うように帰って来ました。その時に何かを見て感じ、今度の旅行のお土産として、この衣裳を工夫したそうです。一代改めなかったのは、その時の出来事がきっかけだったそうです。

父は凝り性で、指さし図が細かく、職人は面喰い通しでした。型の方も特にこの衣裳のために改めた箇所があります。初め「あずまや」と申しまして某家の御秘蔵品を模した唐織好みの草色の裲襠を着て出てきますが、琴にかかる前に後ろ向きになり、その裲襠を脱いで正面に直るまでに衣裳全体を皆様にお見せするようになっています。

牡丹の花の中で開いている五つと、その上に飛んでいる三つの蝶々は造り物で浮かしてあり、シグサのたびにユラユラと動くようにしてあります。衣裳に台座を作っておいて、裲襠を脱ぐ時に手早く止めさせるという凝りようです。舞台栄えを主眼にして、針金や鯨鬚、鉛玉などを使っていますが、スッキリとしなやかにという注文ですから、職人も相当苦労したことでしょう。

父はこの衣裳に特別な思い入れがあり、うわごとにまで言う位でした。小一年もかかって完成し、翌年の春狂言に間に合ったそうです。その前に父は二度ばかり関西へ行き、衣裳のお手本を見て細かい指図をし直し、春芝居の間際になってから、着付けと身体の極まり具合をもう一度確認しに出かけたと後で話していました。しかし、お手本の正体は錦絵だったか押絵だったかは不明です。

父はよく女に化けて旅行する癖があり、十徳を着て、お高祖頭巾を冠って養生眼鏡をかけると、チョットしたお金持ちの後家さんに見えました。興行中でも気に入らない事があると、そんな風にして姿を隠し、太夫元が困っているのを面白がったそうです。その時の旅行もそんな姿で汽車に乗って行ったのでしょう。父の姿を見かけたものはおらず、衣裳のお手本の正体は不明のままです。

その春興行の前後から父は健康を損ね、仕立屋たちは衣裳の祟りだと蔭口を言っていましたが、元々ひ弱な体質に無理な旅行が原因でしょう。秘密の旅行も止め、舞台に立つ時以外は静養しながら昨年の春まで持ちこたえていました。

一方、私は父から伝えられた事は口伝ばかりで、体が弱いために本当の勉強が出来ていません。それで今回のお芝居で大役の御注文が出た時は胆を潰しました。初めは伯父の冗談だと思って笑っていましたが、八丁堀の大旦那様や平川町の先生方が来て、本当だと分かると涙が出ました。父と私は肩幅などがよく合っていたので、衣裳はあまり手を入れずに済みました。

しかし、この扮装は総体で十三貫目もあり、シャグマだけでも一貫目近くあります。それを未熟な私が着るのは大変ですが、舞台に出ると楽に動けるのは、父の霊が衣裳に乗り移って軽くしてくれるのでしょう。

この時、私はこの記事の上でどれほど泣いたことか。母の押絵を見た貴方のお父様が、それほどまでに牡丹と蝶々の着付けを大切にされた心情を思うと、私は立っても居てもいられませんでした。

中村半次郎様と私とは、お話に聞いた事のある夫婦児だったに違いない。一人は母に似て、一人は父に似た双生児だったに違いない。母は私達を産むとすぐに男の子を本当の父の元へ送り、オセキ婆さんがその手伝いをしたに違いない。そう考えるより他に考えようがないのです。

「ああ。中村珊玉様……あなたはそれほどまでに私の母を……そうしてまた私の母も……」と叫びかけて、私は自分の手で自分の口を押えました。今考えると、どうして発狂しなかったのか不思議です。いいえ、暫くの間発狂していたのかも知れません。

その夜、岡沢先生のところのお湯殿で、もう二度と見ない決心をしていた鏡の前に丸一年ぶりに座り、その中の母の顔を見つめながら泣きました。お兄様が御覧になれば、気が変になったと思われたでしょう。

お兄様……お懐かしいお兄様……。そう申し上げては悪いかも知れませんが、どうぞ許してください。私はその夜から貴方を私のたった一人のお兄様と決めました。そうしてもしホントのお兄様でなければ、もっとお懐かしい大切な秘密のお兄様と思って、恋い焦れながら死んで行きたいと、神様にお願いするようになりました。

その翌朝、私は熱が出たようでクラクラしましたが、白くお化粧をして顔色の悪いのを隠しました。奥様が髪結さんを呼んで下さり、私は生まれて初めて他人に髪を結ってもらうのだと思いながら鏡を見ていました。髪結いさんに笑われました。

故郷を出るときに柴忠さんのお嬢様から頂いた着物に着替え、先生御夫婦のお伴をして上野から鉄道馬車に乗りました。久し振りに帯を締め、気がシャンとしました。馬車に乗っている間は居眠りせずに済みましたが、歌舞伎座に入って平土間に座ると、人いきれで暖かくなり、またウトウトしました。先生や奥様の説明を夢うつつに聞いていました。

お兄様が阿古屋に扮して出てお出でになりましたが、睡くてボンヤリしていました。それを我慢して眼を瞠っていた苦しさを今も覚えています。お兄様もその日は体調が悪く、無理におつとめになったのだそうで、その悩ましいお姿が琴責めの時に良く映ったと聞きましたが、私は白いお下着の襟の銀糸の波形の光りだけを覚えています。それ以外は白いお顔と赤いお召物がぼんやりと眼に残っています。

家に帰って先生に「面白かったか」と聞かれ、何も答えられず恥ずかしかったです。それでも病気を隠し通しました。この胸の疵を医者に見られるくらいなら死んだ方がいい。私はこの病気が酷くなって死ぬ時が近づいて来るのを待とう。そうしてあの世で待っている母の元へ行って、抱きついて泣こう。母だけは私の本当の母に違いないのだからと、そんな風に思い込みました。熱のため夢のような心地になりかけるのを、唇が痛くなるほど噛みしめて我慢し、学校へ行きました。いつの間にか病気が癒ったのです。

お兄様に一度会わなければならない運命を持っていたのでしょう。けれども、その時の私は何故病気が癒ったのかと天道様を恨んだものです。それからの私は「不義者の子」という大きな札を貼られたように思い、その日その日を過ごしていました。「ああお母様。あなたは私を助けたいばかりに、あんな嘘を仰った」と思いながら涙にくれたことが幾度もありました。中村や菱田という文字を見るたびに、心が波打ちました。

歌舞伎座の方を向いて歩いているのに気付き、気が咎めてほかの道にそれて行ったこともありました。しかし、暑中休暇が来ると、思いがけないことで、悲しい悩みから救われました。それは岡沢先生の書斎にあった昔の八犬伝の本を開いて見てからのことです。

芳流閣の押絵を思い出し、信乃と現八が何故高い屋根の上で闘わなければならないのかと不思議に思い、絵の描いてある所を探して読み返しました。話のおもしろさに引き込まれ、八犬伝の全体の女主人公である伏姫様が夫の八房という犬に身を触れずにみごもったという話の所まで読みました。作者の曲亭馬琴がいろいろな例を引いて本当らしく書いているのを読んで、驚きました。

男と女が思い合うだけで、その相手によく似た子供を生んだり生ませたりすることが出来るという空想が、私には本当にあり得ると思えました。それから私はそんな事実があるかどうかを確かめるため、毎日のように上野の図書館に行き、産科の書物や心理学の書物を読みました。図書館の人は私が産婆の試験を受けていると思ったのでしょう。書物の名前を教えてくれて感謝しましたが、今から考えると可笑しいです。

しかし、そんな不思議なことを書いた書物は見当たりませんでした。そればかりか、生れて初めて知る事にビックリし、図書館行きを止めようかと思ったほどです。しかし、遺伝について書かれた書物を読んでいると、「女の子は男親に似やすく、男の子は女親に似やすい」という学理を発見し、身体が汗ばんでしまいました。

お兄様と私はやはり不義の子で、それを知っているのは私一人だけ。そう思うと、目の前が暗くなりました。それからの私は、図書館に行く力も無くなり、御飯さえ咽喉を通らず、岡沢先生御夫婦に心配をかけないために無理にお膳についていました。

「このごろトシ子さんの風付がスッキリして来たこと……東京に来た甲斐があるわ……」と言って褒められたり、冷やかされたりした時の辛さ。それでも心の底に諦めきれない何かが残っていたのでしょう。上野の図書館に行き、医学に関する不思議な出来事や珍しい事実を書いた書物を読み散らしていると、大変なお話を見つけ出しました。

その書物を書かれたのは、亡くなっておられる医学博士の石神刀文という方で、明治二十年頃に西洋の書物から翻訳されたものです。「法医学夜話」という題名で、その中には法医学上の問題になった色々な不思議な出来事が書かれています。そのおしまいの方に次のようなお話がありました。

法医学夜話の内容

書物の中にあったお話は、次のような内容です。ある時、フランスの地方で、貴族の夫婦が結婚し、子供を儲けました。しかし、その子供が成長するにつれて、父親に全く似ていないことに気付きました。母親もまた、不倫の疑いをかけられましたが、彼女は「私は夫以外の男性とは関係を持ったことがない」と言い張りました。この事件は大変な話題になり、最終的には法廷に持ち込まれました。

法廷で、母親は「私は夢の中で、夫とは違う男の姿を見ましたが、実際にはそんなことはありません」と証言しました。結局、この事件は、母親の証言を信じた法廷が「夢の中の出来事が現実に影響を与えることはない」という結論を出して終結しました。しかし、この事件は、当時の人々に大きな衝撃を与え、夢が現実に影響を与えることがあるのではないかという議論が巻き起こりました。

このような話を読んだ私は、ますます自分の置かれた状況に対して混乱しました。岡沢先生の元での生活は、見かけ上は平穏でしたが、私の内心は嵐のようでした。先生御夫婦は、私の変わらぬ風付を見て、「東京に来た甲斐があった」と喜んでいましたが、私の心は暗く沈んでいました。私は、母が言った「不義の子」という言葉が頭から離れず、いつもそのことを考えていました。

私の病気が癒えたのは、お兄様に会う運命があったからでしょう。けれども、その時の私は、なぜ病気が癒えたのかを考え、天道様を恨んだものです。私は「不義者の子」という札を貼られたように思い、その日その日を過ごしていました。「ああお母様。あなたは私を助けたいばかりに、あんな嘘を言った」と涙にくれることが幾度もありました。

中村や菱田という文字を見るたびに心が波打ち、歌舞伎座の方を向いて歩いていると気付き、気が咎めて他の道にそれて行ったこともありました。しかし、暑中休暇が来ると、思いがけないことで悲しい悩みから救われました。それは岡沢先生の書斎にあった八犬伝の本を開いたことがきっかけでした。

私は芳流閣の押絵を思い出し、信乃と現八が高い屋根の上で闘わなければならなかった理由を探して八犬伝を読み始めました。話のおもしろさに引き込まれ、伏姫様の話まで読みました。作者の曲亭馬琴がいろいろな例を引いて本当らしく書いているのを読んで驚きました。男と女が思い合うだけで、相手によく似た子供を生んだり生ませたりすることが出来るという話に、私は本当にあり得ると思いました。

それから私は毎日のように上野の図書館に行き、産科や心理学の書物を読みました。図書館の人は私が産婆の試験を受けていると思ったのでしょう。書物の名前を教えてくれて感謝しましたが、今から考えると可笑しいです。しかし、そんな不思議なことを書いた書物は見当たりませんでした。遺伝についての書物を読んでいると、「女の子は男親に似やすく、男の子は女親に似やすい」という学理を発見し、身体が汗ばんでしまいました。

お兄様と私はやはり不義の子で、それを知っているのは私一人だけ。そう思うと、目の前が暗くなりました。それからの私は、図書館に行く力も無くなり、御飯さえ咽喉を通らず、岡沢先生御夫婦に心配をかけないために無理にお膳についていました。「このごろトシ子さんの風付がスッキリして来たこと……東京に来た甲斐があるわ……」と言って褒められたり、冷やかされたりした時の辛さ。

しかし、諦めきれない気持ちが残っていたのでしょう。上野の図書館に行き、医学に関する不思議な出来事や珍しい事実を書いた書物を読み散らしていると、大変なお話を見つけ出しました。その書物を書かれたのは、亡くなっておられる医学博士の石神刀文という方で、明治二十年頃に西洋の書物から翻訳されたものです。「法医学夜話」という題名で、その中には法医学上の問題になった色々な不思議な出来事が書かれています。そのおしまいの方に次のようなお話がありました。

その話は、ある貴族の夫婦に関するものでした。妻は夫以外の男性とは関係を持たないと言い張ったのに、子供が成長するにつれて父親に全く似ていないことに気付きました。この事件は法廷に持ち込まれ、妻は「夢の中で、夫とは違う男の姿を見ましたが、実際にはそんなことはありません」と証言しました。最終的に、法廷は「夢の中の出来事が現実に影響を与えることはない」と結論を出しましたが、この事件は、当時の人々に大きな衝撃を与え、夢が現実に影響を与える可能性についての議論が巻き起こりました。

私が八犬伝を読み進めると、物語の中に登場する伏姫様が、夫である八房という犬に身を触れずにみごもったという話に衝撃を受けました。曲亭馬琴はさも本当らしくいろいろな例を引いて書いていました。その時、私は母の言葉の秘密を解く鍵がこの話にあると感じ、大変喜びました。さらに読み進めると、八房の犬の子である八犬士の身体には、父の犬の身体についていた八つの斑紋が一つずつ大きなほくろとなって現れ、親子のしるしとなっていたと書いてありました。

私はその話を読んで、自分の置かれた状況に対してますます混乱しました。岡沢先生の元での生活は見かけ上は平穏でしたが、私の内心は嵐のようでした。先生御夫婦は「東京に来た甲斐があった」と喜んでいましたが、私の心は暗く沈んでいました。「不義者の子」という札を貼られたように感じながら、その日その日を過ごしていました。母が言った「不義の子」という言葉が頭から離れず、常にそのことを考えていました。

私はそのような状況から抜け出すため、毎日のように上野の図書館に通い、産科や心理学の書物を読み漁りました。図書館の人々は私が産婆の試験を受けていると思ったようです。しかし、そんな不思議なことを書いた書物はなかなか見つかりませんでした。遺伝についての書物を読んでいると、「女の子は男親に似やすく、男の子は女親に似やすい」という学理を発見し、身体が汗ばんでしまいました。お兄様と私はやはり不義の子で、それを知っているのは私一人だけと感じ、目の前が暗くなりました。

その後、私は図書館に行く力もなくなり、食事も喉を通らなくなりました。ただ、岡沢先生御夫婦に心配をかけないために無理にお膳についていました。「このごろトシ子さんの風付がスッキリして来たこと……東京に来た甲斐があるわ……」と言って褒められたり、冷やかされたりした時の辛さ。けれども、心の底には諦めきれない気持ちが残っていたのでしょう。時々思い出したように図書館に行き、医学に関する不思議な出来事や珍しい事実を書いた書物を読み散らしていました。

そんな中、私は「法医学夜話」という書物の中で、大変なお話を見つけました。その書物は、亡くなった医学博士の石神刀文という方が明治二十年頃に西洋の書物から翻訳されたもので、法医学上の問題になった色々な不思議な出来事が書かれていました。そのおしまいの方に次のような話がありました。

ここにその話の内容を書き写しておきます。

法医学夜話(石神刀文氏著)

第五章 人身の妖異 その一 姙娠奇談

人間の身体に起こる怪異や法医学に関する興味深い話は、決して珍しくない。その中でも特に驚きをもたらすのは、姙娠に関する奇談である。これらの話は常識では判断できないものが多い。まず最初に紹介すべきは、紀元前370年頃、ギリシャのある王妃に起こった奇跡的な現象である。

・訳者の言葉
残念ながら、原文にはその王と王妃の名前が明記されていない。当時のギリシャ国内にはアテネ市を除き、いくつかの専制的君主国が分立していたため、この事件もその一国で起こったと推測される。
その王妃は結婚後間もなく妊娠し、一室にこもって紡績と静養に励んでいた。その部屋の壁には、先王の身代わりとなって忠死した黒人奴隷の肖像画が一枚だけ飾られていた。その絵はまるで王妃の寝床を見下ろして微笑んでいるかのようだった。王妃は所在ない時、その黒人奴隷の肖像をじっと見つめていた。やがて出産の日が訪れ、生まれた子供を見て驚いた。期待されたような王の血を引く美しい顔立ちではなく、真っ黒な黒人の子供だった。王妃は驚愕し、そのまま気絶してしまった。
王もこの事実に驚き、激怒した。彼はすぐに王妃を監禁し、召使っていた黒人奴隷を全て捕らえ、拷問にかけた。しかし、誰一人として自白する者はいなかった。この事件は大変な疑獄となった。

・ヒポクラテスの登場
その当時、アテネ市にはヒポクラテスという高名な老医師がいた。彼の徳望、学識、手腕は一世に冠絶するものであった。ヒポクラテスはこの事件を聞きつけ、わざわざ王の前に出頭した。彼は、妊娠中の女性が特定の人の姿を思い浮かべたり、ある一定の形状や色彩のものを長く凝視すると、その影響を受けた子供が生まれることがあると説明した。ヒポクラテスは具体例を挙げてその可能性を示し、王の疑いを解いた。これにより、王妃と黒人奴隷の冤罪は晴れ、問題の肖像画だけが廃棄された。これは法医学の始まりであり、法廷で医師の意見が採用された最初の例とされている。

・訳者の意見
中国に伝わる胎教も、ヒポクラテスの見地から見ると、荒唐無稽な迷信として一概に排斥すべきものではない。高等な科学的研究手段でのみ理解され得る深遠な学理が存在するかもしれないと考えるべきである。
次に紹介するのは、1866年のイギリスで法曹界を揺るがせた事件である。この事件はスコットランドの片田舎で起こり、海外の専門雑誌にも取り上げられた。

・スコットランドの事件
スコットランドの片田舎に住む赤髪の富豪、コンラド(仮名)従男爵がいた。彼は40歳で、由緒ある「鷹が宿」に生まれた若い女性、アリナ(仮名)を妻に迎えた。アリナは絶世の美人で、多くの結婚申し込みを断り、修道院に入る決意をしていた。しかし、コンラド従男爵はあらゆる手段を尽くして彼女を迎えた。結婚式には親戚や友人だけでなく、隣家の医師兼弁護士のランドルフ・タリスマン氏も招かれた。結婚後、アリナはコンラドの子を宿し、月が満ちて男の子を出産した。しかし、その子供の顔を見た従男爵は驚愕した。子供は漆黒の毛髪を持っていたのだ。従男爵はこれを受け入れられず、アリナを罵倒した。アリナは一言も弁解せず、子供を抱いて家を出て、実家に戻った。彼女は家族の前で息絶え、子供だけが生き残った。
この事件は法廷に持ち込まれ、アリナの貞操が争われた。従男爵は肖像画の黒髪の青年と同じ人物が存在すると主張したが、タリスマン氏は強く反論し、肖像画がスペインの闘牛士を描いたものであることを証明した。タリスマン氏はアリナがこの肖像画に恋心を抱いていたことを立証し、アリナの貞操を守るために尽力した。

・遺伝学の観点からの説明
タリスマン氏はさらに進んで、心理的影響が遺伝に及ぼす可能性を説明した。彼は、ある牝馬が斑馬と交尾して生まれた子供が、別の馬との交尾後も斑馬の特徴を持つ子供を産んだ例を挙げた。このような現象は親の深い記憶が遺伝子に影響を与えるからだとし、アリナの子供が黒髪であることもこの理論で説明できると主張した。

・訳者の結論
生物の霊意識の作用は現代の科学では完全には解明できない。妊娠に関するこれらの特例を見ても、単純な法律や常識では理解できない深遠な医学的現象が存在することが分かる。我が国の法廷がこれを無視するのは危険であり、非人道的な判断が行われる可能性が高いと警告する。
(以下を除く)

井の口トシ子より 菱田新太郎様へ

それはちょうど夕方のことでした。遠く駿河台の方からニコライ堂の鐘の音が聞こえ始め、図書館の人が窓を閉め始めたとき、私はやっと気がつきました。その時、広い室には私一人しか残っていませんでした。
書物を返却し、うなだれて外に出ました。そして、寛永寺の門の前の杉木立に近い人のいない場所まで行き、大きな木の根元に座り、涙を絞りながら泣き続けました。その時の気持ちを、どうすればお兄様にお伝えできるでしょうか。
もし、このようなことがあるとしたら、お兄様と私の身の上こそが、良いお手本ではありませんか。

あなたのお父様と私のお母様は、一目で恋に落ち、お互いの姿を胸に秘め、寝ても覚めても忘れることができませんでした。その思いが私たちに現れ、お二人の思いを遂げるためにこの世に生き残っているのではありませんか。
このように考えた時、私の胸は押しつぶされそうになり、目の前が暗くなり、青白い鬼火がもつれ合うのがぼんやりと見えたように思いました。しかし、もう一度冷静になって考えると、その思いはますます確信に変わりました。

あなたのお父様に似た私の姿を見ていた私のお母様も、心の奥深くで何かに気づいていたに違いありません。あの櫛田神社の絵馬堂に奉納された「芳流閣上の二犬士」の場面を作られたのも、お母様の心の中には、私が伏姫の話を読んだ時に感じた驚きと喜びが、母親としての悲しみと共に秘められていたのでしょう。その時代の福岡の士族の家庭には、八犬伝の話が一部ずつ備えられていたのですから、お母様だけが知らないわけがありません。

お母様が、お父様のご成敗を受け入れたのも、私が父の血を引いていることを知りながら、心の奥底にある不思議を理解していたからこそ、何も言わなかったのではないでしょうか。

思い返すたびに、お母様の純真な心と力、芸術の道、人間の道、そして逃れられない恋の道に身を捧げ、早逝されたお母様の気高さを感じます。お母様は、私がこの世にいることをお兄様に知らせないようにし、芸術に身を捧げ、清浄な一生を送ると決心しました。
音楽学校を卒業し、洋行の推薦を受けた時も、お断りしました。万一、私の写真が新聞に載り、お兄様の目に留まるのが怖かったのです。縁談も同じ理由でお断りしました。私はただピアノを弾き続けていました。

しかし、ピアノの鍵盤に触れるたびにお母様の白い肌を思い出し、涙を落としました。お母様が亡くなられた時の血の滴りを思い出し、心が狂おしくなりました。

私のお母様の思いが、私の姿に残っていることを疑いようがなくなり、あなたのお父様と私のお母様が秘めた恋が、お兄様と私によって遂げられなければならない運命が迫っていることを感じます。

世間は私をあなたのお父様の血筋だと信じています。もしお兄様と私が一緒になることがあれば、世間の人はそれを許さないでしょう。古い書物や絵馬堂の押絵が何の証拠になるでしょうか。お兄様が私のことを思っているのではないかとも考えました。私の恐ろしい疵痕をどうやってお兄様に見せられるでしょうか。私は難病にかかっていることを知っていました。

お母様が亡くなられる際に残した言葉に、絶望的な思いが込められていたことを感じました。私の家は代々この病に呪われていたため、縁組みがなかったのです。お母様は私一人の幸福を願っていました。

どうしてこの病身をお兄様に捧げることができましょう。そのためにお兄様の名誉と芸術を捨てさせることができましょうか。私は涙を払いながらピアノの蓋を下ろし、冷たい板に熱い頬を押しつけました。

お兄様、私はもう何もわからなくなりました。ただ、お兄様がこの手紙を読んで、すべてを理解してくださることを心頼みにしています。

お兄様の本当のお母様を知っているのではないかと思うからです。お父様の病気の原因も知っているでしょう。もしそうでなければ、お父様もお母様と同じように一つの恋を胸に秘め、気高い一生を送られたのだと察しできます。

どうかお許しください。女心のせつなさに長々と書いてしまい、読みにくくてお疲れのことと思います。しかし、このことを打ち明けて判断していただけるのはお兄様だけです。私はもうこの秘密を胸に秘めておく力がありません。お兄様の心に頼るしかありません。

もしお兄様が本当のお兄様であれば、私は命に代えてもお願い致します。

看護婦さんの話によると、お兄様の体調は良くなっているそうで、それを聞くだけで私は安心します。どうかこの上もなくご快復され、私のことは忘れて、心静かに養生してください。私はそれを心の支えに、この病院で治療を受けています。

もしお兄様が快復される前に私が亡くなったら、どうか一度でいいのでお墓に参ってください。できれば、花菖蒲を手向けてください。それはお母様が亡くなられた時に咲いていた花です。

どうか無理をなさらずに。お兄様だけでも無事にこの世に生き残り、お母様の芸術を表してください。それが私の願いです。

もしそうでなく、お兄様と私が血を分けた兄妹でなく、本当にあなたのお父様と私のお母様の恋の形見であれば、どうしたらよいでしょう。お父様とお母様の恋は、清浄で気高いものでした。どうか私たちの恋もそのように気高く清浄で悲しいものとして終わることを願っています。

もう一度お会いしたいと思うと、私は狂おしい気持ちになります。しかし、この思いも、お二人の恋の気高さに比べると恥ずかしいものです。思いが乱れ、筆が進みません。

どうぞどうぞお兄さまと私の恋も、そのようにいつまでも気高く、清浄に、悲しくておわりますように……。
今一度お眼にかかりたい……と思いますと、私は又しても狂おしい心地にせめられます。けれども、このような思いすらも、お二方ふたかたの恋の気高さに比べますと、お恥かしい、汚らわしいもののように思われまして……。
思いが乱れまして、もう筆が進みませぬ。お名残なごり惜しう存じます。

あらあらかしこ
明治三十五年三月二十九日

井の口トシ子より
菱田新太郎様
みもとに


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