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吾妻流探源

民間の神事芸能に「神子舞」があり、その系統を江戸期では「神事舞大夫」、その集いを「習合(習いあい)」と称したことはあまり知られていない。


その発祥は、口碑伝承によれば甲陽・武田信玄公の組織した「歩き巫女集団」にあったと言う。

巫女には神社につかえる神和系巫女のほかに、全国津々浦々を旅して歩き、民のなかに入って活動した歩き巫女があった。頼まれれば、神がかり状態となり、生霊や死霊を招いたり、神託を受けたり、弓弦を鳴らして祈祷や呪法をおこない、病気を治癒したり、予言や易占もおこなう草の根の霊能者達でもあった。

これを関東では梓巫女、口寄せ、県語あがたかたり、甲斐では白湯文字などともよばれ、また飯縄使いとも混同された。


甲陽・・武田信玄公は「三者(密之者)」や富士の御師などを間諜や特殊工作員として使役した「用間(エージェントを用いる兵法)の達人」であり、またこの歩き巫女の特殊性に目をつけ、自らの諜報ルートとして活用したとも言われている。

これら秘密組織をいくつもかかえた信玄公は、躑躅が崎の館に居て、日本全国の情報に通じていたので、所謂「足長坊主」と渾名されたと言う。


伝説によれば、信濃国の望月盛時(信玄の甥)が川中島で戦死し、未亡人である甲賀望月家出身の望月千代女を、甲斐国、信濃国二国の巫女道棟梁に任命し、小県群(現在の上田市)の禰津村古御館に居を与え、優秀な霊能のある少女たちに巫覡の技術とともに武芸・諜報の技も仕込み、甲陽のために働く歩き巫女=女スパイ網を形成させたという。

甲陽諜報網の根幹には真田家の持つ滋野ー甲賀の人脈・情報ルートが重なっており、武田崩れののちの、後継組織としての真田一族が幾多の情報戦を制して急伸振したのを鑑みると、この説もあながち否定できないものと考えられる。

付記すれば、この祢津村の中心、宮嶽山稜神社には両羽明神が祀られており、これは京都山科の諸羽神社と同様、盲人琵琶の祖とも言われている。付近にはノノウ塚をはじめ巫女や漂白芸能民の伝承が色濃く残る。

そして祢津流(諏訪流)放鷹術や、駿馬の一大産地として、古代から密に京との文化交流がなされた交通の要所でもある。


雅の対語を鄙(ひな)と言うが、一説には縣(あがた)とも言い、都に調(みつぎ)を送る地方の中心地を指すらしい。そうなるとこの滋野家の発祥した小県(ちいさあがた)は、東国信濃の中心的な縣として相当な歴史を感じさせる古地名であることが伺える。

滋野家系はその後諏訪神社神主家の外戚となり、鎌倉時代から信濃武士として全国にその弓馬の武威を知らしめた。

現在全国に散見できる諏訪神社の多くは、このころに信濃武士団に携えられ広まったものであり、彼らが担っていた鷹、馬、武芸と、神事や漂白芸能民の存在と、中世説話、甲賀三郎の人穴傳説の成立などを併せて考えると、忍者文化的には面白いことが判ってくるのではないかと思っている。


私の家では、古くから武芸躰術と舞踊・神拝礼式を併傳というか、むしろ一つのものとして考えてきた経緯があるので、こういった歴史とともに鑑みるならば、地下水脈の如き繋がりを感じざるを得ない。所謂吾妻流(手弱女振り)がそれであるが、男振り(武者振りとも)も基本は同様で、いわゆる力任せの動きはひとつもない。

これは中国の内家拳術である太極拳や八卦掌においても同様で、柔弱なるがゆえに方円の器形に副い、四両の力を以て千斤の重みを抜く功を養成することができる、実に味わいのある巧みな躰術であり、同時に経世の哲学なのだと思っている。

たおやかに舞い、粛々と行ずる静の世界と、必殺の武芸体術という動の世界の、本質的な近さというところに、これからはなお一層着目をして精進をして参りたく存念している。



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