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【随想・随筆】ベッドタウンの憂鬱・弐「都市近郊電車の貧困」

3月のダイヤ大変更により、わが地元では日中時間帯の列車が1本減った。元々本数が多かったので大して気にしていなかったが、実はかなりの影響があったと今では感じる。
もっとも、それは私の基礎的価値観が今まさに揺さぶられているから、というのも大きいけれど。

どういう事かというと、私の居住地はベッドタウンであるため、利用者は「早く来た列車」に乗る習慣がついている。だから、列車が減った影響で車内の人口密度が上がってしまったのだ。もちろん、上がったところで所詮はローカル輸送なので、ラッシュ時以外は別に大した混雑にはなりにくい。
しかし、既に人が少ないローカル線を旅しまくっている筆者からすると、もはやこの程度の人口密度ですら、嫌悪感を覚えるようになってしまった。
それだけではない。車内の乗客の精神的貧困さも目につく。
なんだあれは。揃いも揃ってスマホをいじっている輩ばかりではないか。まあ私も使うことはあるから、あまり偉そうなことは言えないが、それでも多すぎるし、他のことをする人が少なすぎるのもおかしい。
本来多様なはずの車内の光景が、「スマホいじり」という画一的なものになってしまっているのだ。
本を読むもよし、音楽を聴くもよし、眠るもよし、談笑するもよし。色々あって良さそうなものだが、「スマホいじり」がなぜか一位なのだ。いや、実はスマホで本を読んだり、音楽を聴いているのかもしれない。すなわち、車内の読書や音楽については、なくなったのではなく、スマホの機能に集約・吸収されただけだ・・というわけである。
まあそれはそうかもしれないが、そんなことは周囲の人間からはわからない。トルストイの『戦争と平和』を電子書籍で読んでいたとしても、端から見たらネットサーフィンをしているだけに見える可能性だってある。というかその方があり得る。

要するに、車内の景観が悪化している、ということをここでは言いたいのだ。高尚な文学作品を読んだり、あるいは車窓を眺めながら詩を書いてみるのでもいい。とにかくそうした文化的・芸術的な営みをする人がいて、それが誰かの目に留まれば、その営みに触発された人がまた新たな文化的行動に出るかもしれない。そして、それを見た別の人が・・・というように、文化的行動の連続的発生も期待できるだろう。
これに対し、車内の全員がスマホをいじっていれば、このような連鎖は起きない。ただ列車に乗っている「無駄」(彼らにとって)な時間を必死で潰そうとしているだけであり、自身及び周囲の精神的な向上は望めず、むしろどんどん貧困化していく。

つまり、車内における各人の行動は、単に個人の自由の問題ではなく、景観や文化の問題なのである。各人の行動は、車内全体に影響を与える。それが善いものであれ、悪いものであれ、だ。
伊集院光氏は『100分de名著』において、「ひと昔前は、電車でスマホを開くことはどこか恥ずかしいことのような雰囲気があったけど、今はそういうのはない」という趣旨の発言をしたことがあるが、この発言こそ、車内における「スマホ主義」の情けなさを表している言葉だといえよう。
スマホいじりのように、端から見たら無教養な人間に思われかねないような行動は、昔の日本人なら遠慮したであろう。なぜなら「恥の文化」が日本にあるからだ。
しかし、ひとたびスマホが普及してしまえば、どこ吹く風か、と言わんばかりの傍若無人ぶりを発揮してスマホに心を奪われてしまい、日本人は恥知らずの醜態を曝すことになった。
まあ別にアメリカ人もイギリス人もインド人も同じだろうが、それにしても情けない話だ。

※余談だが、人前でイチャつくカップルが増えた?のもこうした恥感情の消失による、という見方もできよう。まあこちらは別にどうでもいいが・・・。

そして、これが更に質の悪い話なのだが、列車を降りた後も酷いのだ。彼らが降りた後の行動が、まるで機械のようで、人間味がなく、気味が悪いのだ。もっともこれはスマホ普及以前、もっと言えば鉄道普及時点での問題ではあるのだが・・・。

どういうことか説明しよう。
彼らは電車が目的地に着くと、同じタイミングで降り、同じようなテンポで歩き、同じような音を立てて改札を抜ける。
さすがに改札を抜けた後はバスに乗るなり、自転車に乗るなり、歩くなりと多彩な行動に分化するが、駅を出るまでの行動が恐ろしくパターン化されており、まるでロボットのようなのだ。
もはや当たり前の光景になってしまったが、これはよくよく考えればおかしい。
本来、人間には個性があり、それぞれの時間を持っている。せっかちな人もいれば、のんびりした人もいる。だから、機械的に列車を降り、機械的に進み、機械的に改札を出る、などということは、人間の本質を考えればあり得ない話なのだ。

しかし、時間を客観化・可視化する近代文明において生まれた鉄道という高速移動手段は、各人が持つ固有の時間を認めない。認めてしまえば、正確な運行ができなくなるからだ。
よって、終点でもない限り、駅に到着してもほとんど待ってはくれず、忙しなく次の駅に向かってしまう。
だから、乗客は早めに支度をして、降りそびれないように緊張していなければならないし、降りた後もみんながまっすぐ改札に向かうため、立ち止まると邪魔になってしまうことから、すぐ改札に向かわざるを得ないのだ。
ラッシュ時は特に顕著だが、疲れた状態で、知らない人と列車に乗るとストレスがかかる。そのストレスから逃げるため、客はいち早く列車から降りようとする。神経質な筆者は、こうした欲望を空気中に漂うエネルギーとして感じ取ってしまうから、なおのこと辛い。

早く改札を出たいので、忙しなく歩く。しかも人によってはスマホをいじりながら歩く。ちょっとひと休みしよう、という雰囲気はない。後から後から人がやってくるから。
本来は列車の高速性によって歪められた人間的な時間を回復するために、ひと息つくことは非常に価値があることなのだが、誰もそれをやろうとしない。彼らは疲れた身体を早く癒したいから、という理由で家路を急ぐのだ。まあ、家に着いたところで休むのではなく、相変わらずスマホいじりに興じるので、何がしたいのかは不明だが。

そして、改札ではICカードのケバケバしい雑音が「規則的」に響く。なぜ「規則的」なのかといえば、ほぼ全員が改札まで最短距離で移動し、一斉に通過しようとするため、次々に改札機にカードがタッチされるからだ。
要するに、そこには「間」がない。ラッシュ時のICカードタッチ音を聞いている人は多いだろうが、あの規則的な音楽、いや「音苦」はさながら軍隊の行進曲のような忙しなさを感じないだろうか。それもそのはず。だって鳴らしてる本人たちが忙しないんだもの。

・・・と、いうわけで最近の私は、鉄道がもたらす均質的な時間とグローバリズムがもたらす均質的な習慣とそれを推進するテクノロジーにより、電車内及び駅構内、改札の景観が悪化し、人々の精神的貧困が進んでいるのではないか、と感じるようになった。
まあ、かといって全く使わずにもいられない状況ではあるので、なんとかしてこのダメージを軽減できないか、自分なりに考えている。

案は色々ある。
まず、ラッシュ時の列車には絶対乗らない。
筆者も先日、帰宅時間がラッシュ時間と重なってしまったが、列車に乗らず、歩いて帰った。学生時代であれば歩くのを嫌って乗ったかもしれないが、ローカル線の静謐を知ってしまった今、それは無理である。
次に、たとえラッシュ時ではなかったとしても、それなりに混雑している、あるいは混雑の予感がする場合もなるべく乗らない、ということ。
列車に乗らない、と言うと、
「定期代がもったいないじゃないか!」
という方も出てくるだろうが、混雑によって失われる繊細な精神や豊かな感受性、「生きた時間」のことを思えば、安い代償といえる。
そもそも、6ヶ月定期ならかなり割り引かれるので、片道だけでもある程度元は取れる。あるいは途中下車を活用して何となくお得感を演出するのも良いだろう。
行きは確実にラッシュを避け、帰りもできるだけ避けるが、避けきれなかった場合は大人しく歩く。お金がある人はタクシーを使って運ちゃんと話をしながら帰るのも良いだろう。とにかく、帰宅においても人間的な時間を失わないよう、工夫が必要だと思う。

乗り鉄の私ですら、列車に乗るより歩いている方が楽しい。沿線の人々の暮らしや植物が身近に感じられるし、交流が生まれることもある。疲れはするが、歩く方が明らかに充実感はある。
大勢の見知らぬ人が、ひとつの列車に乗り合わせる。その不気味さは、鉄道黎明期の明治ですら感じられていたようだ。確か夏目漱石もそのことに言及していた。

最近の私は身体の芯から自然を欲しているようで、自然とのふれあいの時間を取り戻そうとしている。鉄道に乗っても「移動」はできるが、自然に「直接触れる」ことはできない。せいぜい車窓から多少見える程度である。鉄道は自然と我々の距離を引き伸ばしてしまうのだ。これはクルマや飛行機も同じである。
だからなるべく列車に依存せず、歩けるところは歩く、というのが今後の基本方針になるだろう。まあ本州に行くときはさすがに使わざるを得ないだろうが、それでも歩けるところは歩く、という基本的な姿勢は崩さず、堅持したいものである。


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