「クリぼっち」という言葉に見える「孤独の効用」の無知~「おひとりさま」クリスマスのすすめ~
0.はじめに
そろそろクリスマスがやってくるので、今日は時事ネタをやります。クリスマスを独りで過ごすことを自虐的に表現した「クリぼっち」に関する問題ですね。
子どもの頃はクリスマスが楽しみで仕方なかったのに、いつからだろう、楽しむどころか憎しみと悲しみが募る日になってしまった・・・。
この鬱屈した気持ちをなんとかしたい!
と思う方におすすめです。
1.孤独の効用
まず、クリスマスは一旦置いておくとして、孤独の一般的な効用について述べます。集団主義が根強い日本では何かとマイナスに捉えられがちな孤独ですが、プラスの側面もあります。
孤独を賛美した哲学者として、ドイツのショーペンハウアーがいます。彼は人間が完全に自由でいられるのは孤独な時間だけであり、友であれ、恋人であれ、完全に融和することはできない、と主張します。
また、社交に伴うあらゆる災厄の危険性についても述べています。しかも、それは個性が強い人であればあるほど大きな負担となる、と彼は言います。なぜなら、個性が強いほど他人との違いを意識せざるを得ず、他人に合わせることが苦痛になるからです。そして、
「孤独を愛さない人間は自由をも愛さない人間と言うべきだ」
と言い、孤独を社交で埋め合わせようとする人を痛烈に批判しています。
彼は『幸福について』においてセネカやペトラルカ、アリストテレス、ソクラテスなどの言葉を引用しながら孤独のメリットを説きます。
「自分で自分のことを満足させよ」
「必要なものは一切合財、自分の内面の中にある」
「(店先の贅沢品を見て)私に必要ないものが随分とあるのだな(ソクラテス)」
など、孤独を生きるための知恵を読者に授けます。
「孤独は優れた人間の運命的な持分なのだ」とも述べています。ぼっちを自虐する気持ちはショーペンハウアーには一片たりともありません(笑)
それどころか、積極的に孤独を推奨しています。
この気持ちを持ってクリスマス当日を迎えたいものです。
2.クリスマス・ファシズム批判
とはいえ、ショーペンハウアーに反論したくなる人もいるでしょう。つまり、
「それは「強者」の論理だ。自分は「弱者」であり、陰キャだから、そんな風に割りきれない!」
というわけです。
まあ、言いたいことはわかりますが、ここは落ち着いて冷静に分析を進めましょう。
そもそも、クリスマスはキリスト教の宗教行事です。日本古来の伝統ではありません。海外から輸入しただけです。もちろん、だからと言ってキリスト教徒以外は参加してはいけない、とか即刻廃止すべきだ、というわけではない。参加「したい」人は自由に参加すれば良いと思います。
重要なのは、参加「したくない」人まで参加しなければならない義務はない、ということです。
クリスマスに参加する自由は保障されるべきですが、同時に参加しない・忌避する自由も保障されていなければなりません。そうでなければ、日本でのクリスマスは同調圧力たっぷりの暴力的行事に成り下がります。
本家の宗教行事と違い、日本でのクリスマスはある種のお祭り、露骨に言えば「商業イベント」に過ぎません。「年末商戦」という言葉があるくらいですからね。
サンタクロースもクリスマスケーキも、資本主義の論理で提供されているにすぎない、とも言えます。
そうした「カネの匂い」に嫌気が差す人もいるでしょう。筆者もその一人です。
ちなみにバレンタインも構図は全く同じでございますな。
だから、「弱い」人でも参加しなければ良いのです。
3.対策
ただし。
いかに参加しない権利があるといっても、避けがたいものがあります。
テレビをつければ、クリスマスを一緒に過ごす恋人のドラマが流れてきて、そんな「素敵な」相手に会いたいという欲望が煽られてしまう。
街を歩けば、消費を煽る広告、漂う甘いお菓子の香り、官能的なクリスマスソング、イチャつくカップルの姿が、目や鼻や耳から洪水の如く流れ込んでくる。それに対し、
「気にするな。自分には関係ないさ」
という心意気で立ち向かおうにも多勢に無勢。心の弱さを突かれそうになるでしょう。
そこで私がおすすめしたいのが、
・「なるべく都会に行かない」
・「仕事や趣味をスケジュールに組んで没頭し、余計なことを考えないようにする」
というもの。
後者はわかりやすいでしょう。
「クリスマスは所詮商業イベントだ」
と心得て、そこから距離を取ることで心の平静を保つアプローチです。余計なことを考えてしまうと嫉妬や欲望が刺激されてしまうので、それを避けるために仕事や趣味に打ち込むというわけです。実践されている方も多いのでは、と推察します。
前者について。
余計なことを考えないようにするアプローチ、という点で後者と同じです。
ただ、ずっと家にいるのも退屈だと感じる方も多いでしょう。するとどこか出かけよう、ということになりますが、そのとき行き先の候補からなるべく都会を外した方が良いかと思います。
というのも、先述の通り、都会には欲望・嫉妬の増幅装置が張り巡らせてあるからです。逆に田舎はそういうのはあまりないでしょう。人口が少なく、商戦を仕掛けても採算が悪いからです。
だから、クリスマスに秘境駅訪問をやるのもありだと筆者は考えております。少なくとも鬱陶しい広告はないでしょうし、イチャついたカップルとのエンカウント率もそう高くはないでしょう。
それでも、遭遇する可能性がないわけではない。でも、それはそれで許せるのではないか?と私は思うんです。
よく、「リア充爆発しろ」という気持ちをカップルに対して抱いている人がいると思いますが、この「リア充カップル」への反発は、時と場所によっては抑制されることがあるのではないか、と考えます。
「リア充カップル」に嫉妬する原因は、そのカップルの欲望が可視化され、しかも想像力によってそれが増幅されるからです。
たとえば、クリスマスの夜に街を歩いているカップルがいた場合、
「あいつらはあのお洒落なレストランで食事し、イルミネーションの前で写真を撮り、どこかの宿に泊まって『原始的姿』で戯れるのだろう。ああ、嘆かわしい、妬ましい!なぜ自分にはそんな相手がいないんだぁ!」
という具合に嫉妬する方もいるでしょう。
お気づきの方もいると思いますが、ここにある要素はすべて都会的なものです。田舎にはありません。
レストランもイルミネーションも「そっち系」の宿も、秘境駅にはない。自動販売機すらない所もありますからね。
だから、仮に秘境駅や田舎の駅でカップルに遭遇しても、彼らがイチャつく姿を見せられる可能性は低いはず。田舎だと人目につくからイチャつくのも難しいのではないかと思います。都会でカップルがイチャつけるのは、都会というのが様々な人が入り乱れる「匿名的・流動的」な空間だからです。要するに、イチャついても後ろ指を指す人がいないわけです。
まあ、そりゃそうでしょう。「そっち系」の宿が知り合いばかりでは行く気にならんでしょう。
つまり、リア充カップルが嫌であれば人が少ない所へ逃げよう、というわけですね。出かけたいけどリア充に遭遇したくない場合の現実的な選択肢として一考の余地ありです。
私はいくつも秘境駅や無人駅を訪問していますが、カップルで来る人はまずいません。せいぜい地元の学生くらいですが、彼らは別に目障りな「戯れ」をするわけではないので特に問題はありません。
むしろ、札幌の郊外で生まれ育った筆者的には、地方で列車を待ちながら談笑する男女、というのは悪くない、というか憧れの対象にすらなり得ます。少なくともイルミネーションだらけの公園でカップルとすれ違うよりはだいぶ心の負担が少ないです。
とはいえ、
「なんでクリスマスにわざわざ不便な所に行かなければならないんだ」
と反発する方もいるでしょう。
そんな方には、都会の中でカップルが目障りでなくなる場所を見つけ、そこで時間を過ごすのがおすすめです。
例を挙げます。
たとえば、ブックオフのトレカコーナーや駿河屋のゲームコーナー。基本的に男性客が多いですが、たまにカップルが来ることがあります。
カップルがこのような場所を訪れる理由は次のうちのどれかでしょう。
1.男性が店に興味があって来た。女性は興味ないが、付き添いでついて来た
2.二人とも店に興味があって来た
3.女性が店に興味があって来た。男性は興味ないが、付き添いでついて来た
まあ、3はあまりなさそうですね。1が大半で、残りは2でしょうか。
このように、サブカルのお店でカップルに遭遇したとき、どう感じるか。
ひとつは、反発するパターン。
「こんなところに女(男)を連れてくるな。雰囲気が台無しだ。カップルはおとなしくデートスポットでイチャついてろ」
というもの。
内心こう思ってる人はいるかもしれませんが、そんなに多くはないはず。というのも、サブカル系のお店はデートスポットではないので、アベックに囲まれて居心地が悪くなることはまずないからです。
もうひとつは、それを微笑ましい姿として捉え、温かく迎え入れる、というか反発はしないパターン。
「ほう・・・。なるほど・・・。」
と一瞥した後は気にせず、自分の時間に集中する。そして、ある意味で彼らに仲間意識を持つ。
というのも、1と3の場合、それぞれ女性や男性が相方の趣味に理解を示し、自分は興味ないけど付き添ってあげている。それは献身的とまで言わなくても素晴らしいことです。
2の場合、彼らの傍観者としても
「同志が来たか?!」
とある意味では歓迎ムードにすらなるかもしれません(笑)
先日、札幌のゲーム屋に行きましたが、カップルがドリームキャストのコーナーでソフトを探していました。筆者は僅かな微笑ましさを感じるとともに、ある種の仲間意識を感じました。まあ、あくまでそう感じただけですけどね(笑)
このように、都会であってもカップルが目障りでなくなる空間はあります。
こう考えることで、本質が見えてきますね。つまり、
「カップルそれ自体が目障りなのではなく、周辺環境も含めた時空間が官能的な雰囲気を纏っていることが目障り」
だったというわけです。
イルミネーション、カフェ、「始原姿での遊戯」ホテルと、そこで都会的なファッションを着こなすカップル。
周りに山や田んぼしかなく、学校の制服を着て、列車が来るまで退屈しのぎに談笑するカップル。
両者は果たして同じものに映るかどうか。
今度、街に出たときにご自身の感覚で考察してみてください。
「どんな時と場所であっても、カップルは目障りなのか、それとも時と場合次第で目障りどころか、むしろ微笑ましい存在たりうるのか」
ということを。
4.おわりに
ということで、孤独の効用とクリスマスのリア充対策についてでした。まあ私は自分は自分、他人は他人なので普段はカップルがいてもどこ吹く風、というスタンスですが、クリスマスの新宿や渋谷でも同じスタンスを取れるかどうかわかりません。さすがに嫉妬の念を押さえきれないかもしれない。
だから、クリスマスは都会にあまり行きたくありません(いろんな意味で)。今時期だとインフルエンザの心配もありますからね。嫉妬させられてウィルスのおまけまでもらっては「泣きっ面に蜂」です。秘境駅に行くか、記事を書くか、本を読むか、ゲームするか、とにかく自分を自分で楽しませる方向に舵を取りたいところです。
嫉妬というのは、光ばかり見るから起こるんですよね。闇を知れば、嫉妬は収まります。そりゃ、カップルを見ればイチャついて楽しそうに見えるかもしれません。でも、実際はそう「見せて」いるだけで実は退屈かもしれないし、寂しいのかもしれない。本当のところはわからないのです。
そもそも、クリスマスに「どっか行こう」だの「【始原お遊戯】をしよう」だの相手から言われても、自分の方にその気がないこともあるんじゃないでしょうか。だから本心は断りたいけど、それだと相手に悪いから「仕方なく」付き合う、というのも充分あり得ます。それは結局、相手のために自分の意志をねじ曲げているわけで、ショーペンハウアーがいうように「調和していない」時間でしかない。しかもその時間が資本主義的都合で搾取され、消費へと駆り立てられるとしたら、何か悲しくなってきます。
子どもの頃、同級生と下校したり公園で遊んだりしましたが、充分楽しかったです。金もイルミネーションもカフェも「お遊戯」ホテルも、何もなくても、そこには「楽しむ気持ち」があったから。
クリスマスを孤独に過ごす人たちは、かつての少年少女時代の思い出、金も娯楽もなくても楽しく遊んでいた時代の記憶を繙き、精神の糧とするのがよいかもしれません。
それでは皆さん、よいクリスマスを。