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【随想・随筆】「女さん」と「男さん」に物申す

今回は現代の「女さん」と「男さん」に色々言わせてもらう。
まず、言葉の定義からいこう。
私は、生物学的な意味での女性性(男性性)を持つ人を女性(男性)と呼び、性別役割分業など、社会的な性に染まりきった、第二次性徴以後の女性(男性)のことを「女(男)」と表現している。
そして、その女(男)の中でも、とりわけ情けない様相を呈している者たちのことを、皮肉を込めて「女さん(男さん)」と呼んでいる。

まあ、男女双方から嫌われそうな記事になりそうなので、一応書いておくが、私は男女をふたつの別個体としてではなく、コインの裏表の関係だと捉えている。
つまり、私が女を批判する場合、常にその裏にいる男をも、同時に批判しているのであり、逆もまた然りである。
だから、私のことを「女(男)の敵だ」と罵るのは筋違いである。私はどちらにも加担するつもりはない。コインの裏表の関係なのだから、当然である。

言葉の定義は以上だ。本題に入ろう。
以前「美人とは何か」という記事を投稿したので、今回もまず、この「美人」をキーワードにして話を進めよう。
前の記事でも書いたが、現代人は「美人」の本質を理解していない。現代人が言う「美人」とは、メディアが作り上げた虚像、及びそれを信じた者の妄想に過ぎない。
たとえば、「足は細いほうが綺麗」とか、「小顔のほうが美人」とか、「肌は白いほうが美しい」とか、まあ他にも色々あるが、現代ではこうした価値観が蔓延している。
しかし、よく考えればわかるように、これは普遍的な真理ではなく、一時的・個別的な意見(価値観)でしかない。時代によって、国によって、時には気分によって変わる。
私は「美」を普遍的なものと考えるので、こうした移ろいゆく価値観に基づいた「美人」なるものは、そもそも本来の「美人」ではないと考えている。「美」は時空を貫く普遍性を備えていなければならない、と私は考える。
したがって、こうした「似非美人」概念に惑わされる必要はないのだが、残念なことに、「女さん」も「男さん」もこの概念に惑わされているようである。

高校までの校則では、女子生徒に対し、「化粧をしてはならない」という規範が課される。しかし、学生を卒業すると手の平返しのようにこう言う。
「ノーメイクで人前に出るのは失礼だ」と。よくもこうも容易く二枚舌を決め込めるものよ、と私などは呆れるばかりだが、当の女性たちもこの、ご都合主義的な規範変更に文句を言わないばかりか、見事に順応している。だいたい「ノーメイク」は失礼、というのは「そのままの顔だと見るに堪えない」と言ってるのと同じで、侮辱だろうと私は思うのだが、女性たちが抗議する様子もない。全く不思議なものである。
こんなことを書くと、次のように反論されるだろう。
「学生(小娘=ガール)と社会人(大人の女性=レディー)は違う。大人には大人のたしなみがあるのだから、規範が違うのは当たり前だ。何を寝ぼけたことを言っているのか。」と。

寝ぼけているのはあなたの方ですよ、と感情的に言い返したくなるような馬鹿げた主張にしか見えないが、ここは喧嘩の場ではない。丁寧に再反論させていただくことにしよう。
まずは「ノーメイクはダメ」という言葉の本質を探ろう。これはつまり、
「女性(レディー)が人前に出る場合は容姿を美しく加工しなければならない」
ということ、もっと言うと、
「女は美しくあらねばならない」
という価値観に基づいた規範だということがわかる。
「女性」というのがポイントだ。筆者は男性だが、「人前に出るときは化粧しなさい」などと言われた記憶は一切ない。つまり、この規範は女性のみに課されているわけだ。
さらに詳しく分析しよう。化粧が単に「美」を高める行為だとすれば、それは性別を問わないはずだ。「美」に男も女も関係ないからである。
つまり、この理屈だと男性にも同じ規範が課されなければならないが、実際はそうなっていない。「美しくあらねばならない」ことを課されているのは、実際には女性だけなのである。

こうなると、次に問題となるのは、
「なぜ女性だけが化粧を強制されるのか、すなわち化粧の真の目的(社会的意義)とは何か」
ということである。
化粧は個々人の趣味の問題ではなく、社会的規範の問題にされている。趣味なら社会の側があれこれ口を出す権限はないからである。では、そうまでして女性に化粧を強いて、(彼らが言うところの)「美しさ」を高めるよう仕向けるのは、一体なぜなのか。これは当然疑問点として浮上してくる。
私の考えはこうだ。
「女性だけに化粧が強制されるのは、それによって男性の官能を刺激し、最終的には男女の生殖行為に持っていくためである。なぜなら、そうしないと人口が維持できず、また社会も維持できない(と、彼らが勝手に考えている)からだ」と。
まあ他にも、化粧やファッション、ロマンチックな恋愛やきらびやかな結婚式など、欲望を煽ることで、金儲けをするため、という資本主義的な理由もあるだろう。が、それは一旦置いておこう。話がややこしくなる。

つまり、化粧の強制とは、「少女」を「女」として社会の歯車に組み込むための、一種のプロパガンダである。少女に化粧が禁じられている理由は、おそらく、あまり早い段階で男性の官能を刺激すると逆効果だと踏んでいるからだろう。要するに、今は学業に専念させ、「女」になったら「女の役割」を課そう、というわけである。
まあいずれにせよ、ここでは個々人の意思は全く考慮に入れられることなく、社会の要請という形で規範が上から押し付けられている。いかにも、「右に倣え」が大好きな日本人らしい。

ちなみに男性の側はと言うと、化粧を課されない代わりに、働いて金を稼ぐことや、化粧した女性を「美しいと【思わなければならない】」という規範が課される。というのも、いくら女性が化粧を頑張ったところで、男性がそれを正当に評価しなければ、当初の目的が達成できないからである。
ただまあ、何事にも例外はあるわけで、化粧を評価しないどころか、むしろ嫌悪の対象とする人もいる。まあそれが私なわけだが。

私は化粧している人を見かけても、美しいとは全く感じない。けばけばしくて見るに堪えない、としか思わない。なぜか。
好みの問題だと片付けることもできようが、加工された容姿には人間的な温かみが感じられないから、というのもあるだろう。口紅、マニキュア、香水、睫毛を太くする。あれで美しいと思う感覚がわからない。
髪の毛を皆同じように縛り、耳障りなハイヒールの音を響かせる。これの一体どこに「美」があるというのだろうか。本物の「美」はそんなものではない、と私は思う。まあしかし、現実にはそれを「美」だと感じる「男さん」が多いようなので、私は肩身が狭いとまではいわなくとも、影で大人しくしているしかなさそうだ。

それと、「女さん」はやたら虫を嫌がる。別に私も好きではないが、なぜあそこまでギャーギャー騒ぐのか、これまでよくわからなかった。しかし、最近色々考えた結果、彼女たちの心理が読めるような気がした。
要するに、彼女たちは「美」(実際には紛い物の「美」)を求めているわけだが、虫はその対極、すなわち「醜」として認識している。そうでなければ、あそこまで騒ぐ理由がない。自分の「美」を損なう邪魔者だと思うからこそ、あそこまで露骨な嫌悪感を示すのではないだろうか。
だが、よく考えてみてほしい。虫は本当に醜いのだろうか?
私に言わせれば、「虫は醜い」と勝手に決めつける彼女たちの心・精神・生活様式の方が数百倍醜いと思うが、言い過ぎだろうか。
化粧品やアクセサリーなど、本来不必要なファッションアイテムの製造、販売、使用、廃棄は膨大なエネルギーを浪費し、環境を破壊する。
衣服なんか特にそうだろうが、貧しい国に工場を造り、現地の人を低賃金・長時間で働かせ、それを日本に輸出しているのだろう。「見た目の加工」というしょうもない欲望のために、他の人たちを犠牲にしているわけだ。そうした生活スタイルをしている人を、本当に「美しい」と言えるだろうか。

化粧品も同じだ。成分に何が含まれているのか知らないが、環境に悪影響を及ぼすものも含まれているのではないだろうか。何せあれだけの数だ。影響は小さくないはず。
しかも、そうした商品は大型ショッピングセンターに大量に置いてある。そこでは年中長時間、冷暖房をつけて大量のエネルギーを浪費している。しかも、当のセンター自体が豊かな自然を破壊し、けばけばしい駐車場をつけて建設されている。環境に優しくない商品を、環境に優しくない環境で購入し、消費しているわけだ。
私などは、どれだけ容姿端麗だろうと、そのように環境への配慮を欠いた消費行動を取る女性など、「美人」とは呼ばない。心が汚れきっているからだ。「虫を愛せ」とまでは言わないが、嫌だからとすぐに殺虫剤を使う、あるいはそれすら男性任せにするような「女さん」も同様である。
そもそも、先ほども書いたが化粧した人を美しいとは感じないけど。

ちなみに、「男さん」も同じ穴の狢である。「女さん」の化粧品の代わりに、クルマや酒を貪欲に求めているからである。しかも、クルマの場合、「モテたいから」という理由で購入する者もいるらしい。下半身主義もここまで極まると、怒りを通り越して呆れるほかない。

あと、これは本で読んで知ったのだが、「女さん」はトイレで水を流しながら用を足すらしい。その理由が、「音を聞かれるのが恥ずかしいから」だそう。全くふざけた話だ。
そもそも、栄養補給のため水・食料を摂取した後、不要なものが排出されるのは、男女や美醜を問わず、誰でも同じである。それを恥ずかしいと思う理由がわからない。
そのくせ、職場において、旦那の悪口を平気で口にする主婦はうじゃうじゃいる。そっちの方がよほど恥ずかしく、みっともないだろうに。
まあ、こうした暴露のおかげで、「旦那の稼ぎが悪い」などと「女さん」は口にできなくなった。なぜなら、水道代を余分に浪費し、稼ぎを得るチャンスを自分で潰しているからである。

こうした事実が明るみになったところで、「男さん」も「女さん」もそれを咎めたり、反省したりすることは、やはりないのだろう。彼らは結局、自分たちの快楽のことしか考えないからである。環境なんて気にしない。だって自分が努力しても意味ないもーん!他の人もやってるもーん!というわけでござい。ダメだこりゃ。まあ、以前も書いたが、「彼氏・彼女」という言葉しか遣えない程度の精神性では、改善は全く無理な話だ。

「じゃあ、お前が言う美とは何か、言ってみろ」と言われそうな流れである。
ならば答えよう。
美とは、時間や空間の条件を問わず、それを認識した者に、深い思索を促すエネルギーのことである、と。
私の同級生にして、伝説の少女であるその女性は、たったひとつの手紙、ごくわずかな文章で私の心を動かし、今も動かし続けている。下半身に囚われていた当初はそのエネルギーに気づかなかったが、その少女に会うことはもうできないかもしれない、という事実を知った後は、逆に清清しい気持ちを呼び起こし、その少女の存在が、
「自分にとっていかなる存在であったのか」
かを自らに深く考えさせる契機となった。ここでの「美」とは、その少女の精神性であり、手紙を贈ろうという、当時の同級生たちの優しい気持ちであり、それらの価値を信じた私の精神でもある。
「美」とは極めて抽象的な概念であり、目に見えるものではない。長い時間をかけて認識するものである。この意味で、特定のパーツが綺麗で、それが官能を刺激するから「美人」、などというのは誤りだということがわかるだろう。それは普遍性を持たず、時間や空間の制約を受けるからだ。

人間世界では、一定の年齢になると、社会の側から「男」か「女」か、いずれかにラベリングされる。それを完全に回避するのは難しいだろう。
だが、ラベリングされていることを自覚し、その概念に染まりきらないこと、すなわち、自分の中の「少年性」「少女性」を売り渡すことなく、保存していくことは可能だ。
身体的には「男(女)」であっても、その深奥に宿る精神に、豊かな想像力、生き物や自然を慈しむ気持ち、飽くなき好奇心が備わっていること。これこそ、「美」の姿である。
酒や金や地位に終着した「男さん」や、化粧にうつつを抜かし、土から離れ、虫を毛嫌いして資源を浪費する「女さん」は、いつまで経っても「美」を備えることができない。
なぜなら、彼らは「美」の本質を知らず、紛い物の「美」を「美」と誤解したまま、その生涯を終えるからである。

私の容姿は「美」から離れているが、私は、心優しき仲間たちの思い出と、そこから得られる豊かな想像力と詩心に「美」という名をつけ、これからの旅路に携えてゆこうと思う。
(おわり)

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