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ローカル郷土資料館に行ってみよう!~連休の混雑にうんざりしているあなたへ、旅を楽しむ視点を持とう~

0.はじめに

いよいよ2023年夏の青春18きっぷ、その利用シーズンがやってくる。このきっぷは全国のJR線・普通列車を破格の値段で利用できるフリーきっぷの代表格だ。筆者のような貧乏旅人にとっては大変ありがたい存在である(ちなみにまだ私は使ったことがないので、今年使ってみようかなと考えている)。
さて、ありがたいきっぷであることに異論はないが、便利ということは、当然それを利用する人も多くいるわけで、シーズン中の普通列車が混雑する可能性も高くなる。
さらに言うと、「北海道&東日本パス」や「大人の休日倶楽部パス」なども同じくシーズンを迎えていることから、列車の混雑状況は気になるところだ。

ところで、皆さんは旅において何を重視するだろうか?
人それぞれ答えはあると思うが、筆者の場合、「旅情」を重視する。
そして、この「旅情」の妨げになるのがまさに「混雑」なのである。
どれほど魅力的な街並みや観光施設があろうとも、そこに大勢の人が密集していれば楽しくない。なぜなら、それらをゆっくりと味わえないから、というのが筆者の率直な感想である。
とくに、日本では休日を分散させるという考え方が根付いていないせいで、大型連休に人が集中してしまう。
だから、連休中に旅する場合、「いかに人混みを避けるか」というのは最も切実な目標の1つなのだ。
では、どうすれば人混みを避けることができるのか?
答えは単純だ。
「人が集まらない所を逆張りして、そこに行く」ことだ。
そして、そのための候補地として私は
「地域の郷土資料館」
を勧めたい。
なぜ、郷土資料館を勧めるのか、以下見ていこう。

1.郷土資料館は混雑のリスクが低い?

これは筆者の感覚だが、郷土資料館は未だ「学校の社会科見学で行く場所」「研究者や学芸員が行く所」という風に捉えられている気がする。というのも、筆者は郷土資料館めぐりが好きなのだが、大きな博物館はともかく、地域の小さな郷土資料館や、区民センターなどに置いてあるコンパクトな郷土資料室などが混雑していた、という記憶が殆どないからだ。規模が大きくないため、団体旅行者が訪れることが少ない、ということもあるだろう(もちろん、たまたま団体見学者と鉢合わせするという可能性はあるが)。
また、仮にそこそこの人数が来たとしても、それが個人見学者であれば、そそくさと展示を見て立ち去っていくことが多い。そのため、混雑するリスクが低い場所だと思われるのだ。

だが、実は郷土資料館には見どころが多くある。
時間がないならともかく、余裕があるならぜひ展示をじっくり見て、色々考えたり、想像することをおすすめしたい。そうすることで、見学の時間が楽しくなることはもちろん、旅の熟練度も上がるからだ。

2.旅の熟練度は好奇心に比例する

旅は、その人が持つ知識や経験、好奇心や想像力によって彩られ、充実したものになる。筆者はそのように考えている。そして、そうした能力を育むのに、郷土資料館はまさにうってつけの存在なのだ。
なぜ、郷土資料館が適しているのかは後で述べるとして、以下、旅の熟練度に関する話をしよう。

さて、ネットではいまいちだった旅行先に対する評価として、しばしば、
・「〇〇(市町村名)は観光するところがない」
・「駅前が寂れていて、何もない」
といったものが下されることがある。
これは、逆に言えば、

・観光地が多い=魅力的
・駅前が栄えている=良い

という風に彼らが認識している、ということだ。
どのように考えるかは個人の自由ではあるが、これではあまりに発想が貧困だと言わざるを得ない。なぜなら、こうした評価はすべて「受け身」だからだ。魅力的な場所は企業の広告やガイドブックによって「教えられる」ものではなく、自分の眼と足で「発見」し、「味わう」ものなのだ。
別に、広告やガイドブックを見るのが悪いわけではない。
それだけに依存しているのが問題なのだ。
言ってしまえば、こうした姿勢は「お客様的目線」つまり、「金を払って楽しませてもらう」という受け身の姿勢なのだ。それでは、楽しめる範囲は限られてしまう。そうではなく、自らの好奇心や想像力で様々なものを楽しむ姿勢が重要ではないだろうか。

駅前が寂れているといっても、よく探索し、観察すれば営業している商店があったりするものだ。北海道の例で言えば、江別駅や妹背牛駅には確かに大きな商店はない。しかし、江別駅には青果店や飲食店が、妹背牛駅には地元のお菓子屋さんがある。これらはきちんと駅前を歩いていれば発見できる類のものだ。たしかに、これら商店にある品は大型資本のお店、セブンイレブンのスイーツやロイズチョコレート、柳月のお菓子よりは知名度が低かったり、品数が少ないといえる。もともと、鉄道が開通して商業の中心が駅周辺になったのが、モータリゼーションの影響でそれが郊外に移ったために駅周辺が寂れてしまったわけだから。
ということは、逆に言えば、

「駅前で営業している商店」=「長く営業している商店」=「店主がその地域のことを知っている可能性が高い」
という図式が成り立つ可能性も高い、ということだ。
筆者は旅先の地元商店で買い物をしたとき、
「何年ぐらい営業しているか」を聞くことがあるが、30~40年やっている、という答えが帰ってくることもある。そして、当然長くやっているということは、それだけその地域に長く住んでおり、地域のことを知っている、ということでもある。だから、昔の町の様子を尋ねると、教えてくれることも多い。これは、都会ではできない経験である。
都会の店のレジはあくまで商品と金銭を交換する場であって、コミュニティの場として機能していることは殆どない。会計後に雑談しようとしたら後ろの客に「早くしろ」と急かされるだろう。
また、店員のほうも、店が大資本であればあるほど、従業員はその地域の住民ではなく、本部から派遣された人、あるいは他の地域から出稼ぎに来た人から構成されるだろう。だから、もし彼らに、
「この地域は昔どんな風景だったんですか」
と質問しても答えてはくれないだろう。なぜなら、彼らはその答えを知らないからである。

旅慣れしている方はすでにお気づきのことかと思うが、現在の日本の風景はどこも似たりよったりで、個性がなくなってきている(郊外が特に顕著)。こうした現象を、「ファスト風土化」と言ったりする。だが、駅前の商店に行けば、そうしたファスト風土化という時代の波にさらされながらも、なんとか生き残ってきた、その地域住民の「生きた」証言が得られる。これは旅の醍醐味の一つといってもいいだろう。そして、こうした視点は好奇心や興味が薄弱、偏狭だとまず得られない。
では、どうすれば好奇心を育て、興味を広げることができるのか、
お待たせしました。ここで、郷土資料館の出番です。


3.郷土資料館に行くと興味が広がる理由

最初に断っておくと、興味を広げる方法は郷土資料館だけに限られるわけではない。図書館でもいいし、自宅のインターネットでも構わない。
だが、百聞は一見に如かず、と言うように、現地で現物を見たり話を聞くことは、より深く記憶に残り、結果として興味を広げることにつながりやすい。そして、先述したように、郷土資料館は家族やカップルが大勢押し寄せてくるような場所ではないので、喧騒を嫌う人にとってもおすすめできる場所なのである。

さて、そんな郷土資料館だが、様々な展示がある。
昔の写真、農具や家、開拓者の名前とその解説、文献資料など実に様々だ。これらはどこの郷土資料館にもあることが多いが、その地域特有の展示も必ず存在する。北海道の場合、先住民族アイヌの展示があるし、同じ北海道でも、たとえば歌志内市や岩見沢市など、炭鉱や鉄道で栄えた町はその資料が多く、妹背牛町のように農業が重要な地域はそれに関する展示が充実している。ひとつとして同じ資料館はない。
基本的には、自分の興味のあるものを見て、そこからそれに関連する展示を見ていくことで興味の幅は自然に広がっていく。
ただ見て終わりではなく、

・「この道具はどうやって使うのか」
・「なぜこの地域が開拓地として選ばれたのか」

といった疑問を持ちながら見ていくことで、理解度が深まる。
疑問点は資料館の職員に聞いてみるのが良いだろう。
地域の小さな郷土資料館に行くと、学芸員ではなく、地域住民のボランティアの方が職員を勤めているケースがある。その場合、研究者より専門知識が不足している可能性もあるが、その方が地域にずっと住んでいる方であれば昔の町の様子をエピソードを交えて教えてくれるかもしれない。そうした教科書に載らない民族誌は貴重であり、興味を広げる絶好の機会だ。
何度か通っていれば、観光地が少ない場所に行って「つまらない」と嘆くことは少なくなっているだろう。
郷土資料館が興味を広げてくれる理由、それは「人間の生きてきた歴史、その知恵や栄枯盛衰を肌で感じることができるから」だ。

たとえば、北海道札幌市は現在100万都市になった。多くの企業が進出し、宅地開発も進んだが、代わりにのどかな田園風景の多くを失ってしまった。かつてりんごや米を育てていた地域もあったが埋め立てられ、宅地や工場に利用されるようになったのだ。また、市街地の拡大に伴って野生動物の生息域が脅かされ、熊が出没する機会も多くなった。
これは果たして、良いことなのか、それとも悪いことなのか、そして我々は今後どうしていくべきなのか、郷土資料館に行けばこの問題について考える力がつく。

余談だが、筆者は最近「地名」の問題について興味を持っている。
地名は、先人がそこの地形の特徴を表して名付けることが多い。特に自然災害が多い日本では、災害を警告する地名が多数存在する。しかし、市町村合併や区画整理などでそうした地名が消えてしまい、また、もとは湿地だったのに埋め立てた後年月が経過し、その事実を知らない人が移り住んで自然災害に遭い、「こんなはずでは」と後悔するケースも少なくないという。また、不動産会社がマンション等を売るために耳障りの良い地名を新造することもある。そうした地名は「イメージ地名」と呼ばれるが、住む際には十分な注意が必要である。これはまさに、

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
というあの格言を思わせる。
我々の生涯はせいぜい100年程度だが、宇宙・地球には46億、あるいはもしかするとそれ以上の歴史がある。この圧倒的スケールの違いを見ただけでも、我々が自分たちの都合だけを考えて自然開発することがいかに危険か、ということが想像できるのではないだろうか。
郷土資料館に行くことは、自分の知らない時代を知ること、つまり我々の人生100年の経験を、拡張することにもつながるのだ。
そして、そうして拡張された経験と認識は、私がこのブログで扱っている「旅」にも大いに役立つ、というわけだ。

4.おわりに

やけに風呂敷が広げすぎた気もしますが、とにかく要点としては、

・連休は混雑しづらい郷土資料館に行ってみよう
・郷土資料館で広がった興味は旅を楽しくしたり、社会問題を考察する際に役立つ

という2点だけ押さえていただければOKかな、と思います。

まあ、私も再三述べていますが、近年はモータリゼーション、グローバリゼーションの影響が日本全国、津々浦々に浸透しつつあります。あらゆることが効率化され、市場原理だけで物事を考える風潮も強くなっている気がします。高齢化が進むのに、削られる公共交通、そして高齢ドライバーの事故など、現実と矛盾するような政策が取られ、その結果として悲惨な事態が起きています。
私は行き過ぎた科学的・論理的思考がこうした悲劇の原因の1つではないかと考えています。

たとえば、私は地方の郊外、とくに木や森が多いところを歩いていると一種の畏怖の念を覚えます。「木の陰から熊が出てくるのではないか?」という不安がよぎるのです。実際に遭遇したことはまだないですが、自然の中を歩いていると、原始人的嗅覚が戻るといいますか、木々の揺れなど「音」に敏感になります。昔の人は、きっとこのようにして危険を察知していたのだろうと思われます。
都市部にずっと住んでいると、「熊にあったらどうするか」という不安がよぎることはあまりないと思います。都市部は人間の開発によって熊が住めなくなっているからです。開発は人間の知性によるものですが、過剰に開発した結果、科学・論理至上主義となり、自然を畏怖する心が薄れてしまったように感じます。
郷土資料館には、自然に対する畏怖・畏敬の念を呼び覚ます効能もあるのではないか…。
私はそのように考えております。

それでは、混雑に気を付けて、充実した旅を。
ご精読ありがとうございました。



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