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【短編】指輪の行方

やってしまった。
私は、ホームドアの上から、線路を覗き込んだ。
線路の間の床の上に、銀色の輪が見える。
少なくとも落ちた場所が確認できてよかったと安堵あんどする。

今日は、昼休みに会社近くのヨガスタジオに寄って、レッスンを受けてきた。レッスン時は、指輪の類は全て外している。汗を掻くので、気になってしまうからだ。
そのまま午後仕事をし、今は仕事帰りだった。駅のホームの隅で、外していた指輪を着けようとしたら、手が滑って、指輪が落ちた。

指輪はそのままホームの床の上を転がり、ホームドアの下の隙間を抜け、線路に落ちてしまったというわけだ。
しかも落としてしまったのは、結婚指輪だった。このままにしてはおけない。

私は改札まで戻り、駅員さんに指輪を落としてしまった旨を正直に話した。
駅員さんは、その場で何処かに連絡を取った。

指輪を取ることは可能だが、電車が走っていない時に作業をしないとならないので、今日の夜、終電後に作業して、明日渡すことになるかもしれないと、駅員さんは、丁寧に説明をしてくれる。

私としては、指輪が戻ってくるなら、それでも構わなかったのだが、長ばさみをもった駅員さんがやってきて、いろいろやり取りをするうちに、この後しばらく電車が来ないので、その間に取りましょうと、話がまとまった。

駅員さん二人とホームに戻る。
指輪の場所を教えると、駅員さんはホームドアを操作して、その個所だけ、ホームドアを開けたままにした。
そして、長ばさみの端にガムテープを輪にして着け、指輪にガムテープを押し付け、もう一人の駅員さんが持つ網に入れるという見事な連携プレイを見せた。

ガムテープに張り付いた指輪を手に取ると、駅員さんがその指輪をしげしげと眺めた後、私に向かって差し出した。
私は両手を出して、その指輪を受け取った。
指輪を手に取って、自分のものであると確認した後、左手の薬指に嵌める。

駅員さんに視線を向けると、彼は私の視線を受けて、その相好を崩した。
「よかったですね。」
「はい。ありがとうございました。」
何度もお礼を伝えると、駅員さん達は何でもないというように会釈し、ホームドアを操作して閉じた後、改札の方に戻っていった。

私の周りには、結構人が集まって、電車を待つついでに、その様子を見つめていた。一人の婦人に「指輪が戻ってよかったわね。」と声をかけられた。
それは確かだったので、「はい。よかったです。」と答え、夫人と共に大多数の人が乗った次の電車を見送った。
さすがに、その電車に自分が乗るのが恥ずかしかった。

私の左の薬指に、戻った結婚指輪が煌めいていた。


「ただいまー。」
「おかえり。」
玄関で靴を脱いでいると、部屋から詩織が顔を出して、挨拶を返した。
「お腹空いた。」
「用意できているよ。」

荷物を部屋に置いて、部屋着に着替える。その間に、彼女はご飯を2人分器によそった。夕食は曜日を決めて当番制にしている。今日は彼女が当番の日だ。自分が当番の時より、テーブルに並べられた品数が明らかに多い。

「じゃあ、いただきます。」
「いただきます。」
2人で向かい合って、テーブルの食事に手を付けていく。いつもと変わらず、詩織の料理はおいしい。

「あのさ。」
「なに?」
「今度の休みに買い物に行かない?詩織。欲しがってただろ?ペアリング。」
俺の言葉に、彼女は目を見開いた。

「何かあった?真広。あんなにペアリングつけるの嫌がってたのに。」
同棲相手の詩織からは、度々ペアリングを強請られていた。でも、俺がペアリングをつけることを渋っていた。なんとなく、自分が縛り付けられるという感じがぬぐえなかったからだ。もし、このまま結婚する事になれば、その時には確実に結婚指輪をつけるのだから、それでいいだろうとも思っていた。

でも、今日、線路に乗客が指輪を落として、それを救って彼女に手渡した時、こちらに見せた笑顔が忘れられない。
手元に大切な物が戻ってきた安心感。そして、その事による嬉しさ。
それを見た自分がつられて、笑みを浮かべてしまうほどの表情。
あれは明らかに結婚指輪だったけれど、それほど大切にしてくれるものなのであれば、詩織に渡してもいいのではないかと思ったのだ。

本来ならば、結婚指輪を渡すべきなのかもしれないが、まだその勇気も覚悟もないのだけど。

「心境の変化かな。。」
「どちらにせよ、嬉しい。どこに買いに行こうか?」
彼女が笑みを浮かべながら、あれこれと考えをめぐらすのを見て、俺も自分の顔が緩むのを抑えられなかった。

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