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柄谷行人『力と交換様式』要約と感想~現代資本主義を乗り越えるDの力~

この記事の時間:17分(長くて申し訳ないです💦)

柄谷行人の文章には感情がほとんど見られない。無感情、無動揺、無興奮で、その論理性のみで構成された文章は、さながら展開された長い数式のような印象を受ける。無味乾燥で、書いていて楽しいのだろうかと思う。
 
氏の文章を、例えば、井筒俊彦の熱情迸る若い頃の文(『マホメット』や『神秘哲学 ギリシアの部』)と比べるとその差異は瞭然である。今回、四百ページ余りを読んで、氏の感情を捉えたのは以下の二カ所のみである。

 ……一九九一年にソ連邦が崩壊し、それとともに、「第二世界」として
 の社会主義圏が消滅するにいたったことのほうである。このことは、「歴
 史の終焉」(フランシス・フクヤマ)として騒がれた。愚かしい議論であ
 る。
このような出来事はむしろ、「歴史の反復」を示すものであったから
 だ

p331

 ……資本や国家の力は、物神や怪獣の“力”であり、人間の意志を越えたも
 のだ。ところが、“ポスト資本主義”あるいは“ポスト社会主義”は、その力
 を見ない。その挙げ句、ろくに読んだこともない『資本論』を再評価する
 考えまで出てきたのである

p314

 しかし、それにも関わらず、この本は面白い。文体やリズムには限定されない“観点”の斬新さが際立っているからだ。すなわち「交換様式」という視点である。


 

柄谷行人との出会い


 ところで柄谷行人とは何者か。

 私は『畏怖する人間』で初めて彼を知った。もっと言えば、そこに収録されている『意識と自然―漱石試論Ⅰ』においてである。なぜこれを読むに至ったか。思えば、二〇二三年の夏は、私が重度うつ病と診断され、目が覚めてのち布団から四時間も出られない日々が続き、その時ふと夏目漱石がロンドンで病んだことを思い出し、同じ英文学徒であったことも重なって親近感を覚え、漱石関連の本をよく読んでいた時期であった。

 部屋の壁に漱石の顔写真を張ったために「息子が遂に狂せり」と心配された。

 『畏怖する人間』を手に取ったのはその最中だ。初めての柄谷行人は難解だった。さっぱり分からない。分からなすぎて私はなぜこの本を読んでいるのか、読む意味があるのかさっぱり分からない。分からないが、分からなすぎて逆に面白くなってきた。なぜ私はこんなにも分からないのか、この人は一体どんな世界を見ているのか。分かりたい。知りたい。同じ地平に立ってみたい。

 そんな調子で読んでいる内に二百ページを過ぎたあたりから段々文章が入るようになり、その後『意味という病』、『日本近代文学の起源』、『トランスクリティーク カントとマルクス』を読んで今回に至る。

 脱線が長くなったので戻る。氏は文藝批評から始め、その後哲学の分野も論じるようになり、その思想圏は見る見る広がっているように思う。ところで『力と交換様式』に関連のある要素について、外せないのは以下の二つである。

 すなわちNew Associationist Movement (NAM)と史的唯物論。NAMとは氏が発足させた資本と国家への対抗運動のことである。Associationとはマルクス主義的史的唯物論と関連の深い単語だ。

 図解雑学シリーズ『マルクス経済学』によるとアソシエーションとは、

自立した諸個人の、自由で対等な合意で営まれる社会関係

松尾匡『図解雑学 マルクス経済学』2010、ナツメ社、p62,63

だという。要するに、マルクスが唱えた未来に来るべき社会形態なのだが、それは社会的下部構造において幾世代もかけて実現されるべきものである。

 つまり、諸個人がアソシエーショニストになることで、上部構造もそれに適合せざるを得なくなるというのだ。言うまでもないが、この思考は史的唯物論に基づいている。

 NAMにおいて、具体的にどんな発見があったかは分からないが、氏がマルクス主義的史的唯物論に反省の目を向けるようになったことは確かである。すなわち、氏はマルクス主義的史的唯物論が社会的下部構造に生産様式(すなわち生産力と生産関係)のみを見ることを斥け、そこに交換様式も加えるべきだと言う。

 なぜか。生産様式のみでは説明できない現象、すなわち“観念的な力”が度々指摘されてきたからだ。その最初期の指摘者として氏はマックス・ヴェーバーとエミール・デュルケームを挙げている。

……最初の重要な批判者として、マックス・ヴェーバーを挙げてよい。彼は史的唯物論を原則的に認めながら、観念的上部構造の相対的自律性を主張した。例えば、マルクス主義では、近世の宗教改革(プロテスタンティズム)を資本主義経済の発展の産物として見るが、ヴェーバーは逆に、それが産業資本主義を推進する力として働いたことを強調した

p2

 つまりこういうことである。史的唯物論の立場から見た場合、経済的下部構造から自立した上部構造の次元(宗教、国家など)が確かに存在し、それは「生産様式」という観点のみでは説明不可能である。

 その不足を氏は「交換様式」という視点を導入することで解決しようというのである。本書を読んで交換様式というのはかなり妥当性のある見方だと感じた。

 ただし交換様式Dについては、完全に私の理解を超えている。

 

要約


とにかく、氏は“交換”を広く深く追求し、その様式を四つに分類する。すなわち、

A 互酬性(贈与と返礼)
B 服従と保護(略取と再配分)
C 商品交換(貨幣と商品)
D Aの高次元での回復

 

Aについて


 Aの起源を問うのは困難だと氏は言う。人類の古代について知れることはたかが知れている。故に推測が主になるのは必至である。

 氏は、定住化が進み、小さな集団の集結とともに形成された共同体において、その内部での規律が必要になったという。また、他の共同体との交換の必要に迫られた。そこに始まったのが交換様式Aだという。

 ここで注意すべきなのは、Aは意識的に作り出されたのではないということ。むしろ、各人の意志を越えたところから到来したということである。

 脱線するが、氏の、人類の定住化の考察は興味深い。通常は、定住化とともに農耕がはじまり、階級社会や国家が誕生したと考えられているが、氏はジェームズ・スコット『反穀物の歴史』を引用しながら、人類は容易に定住しなかったし、また容易に農耕を始めなかったと主張する。

 約言すれば、人類はなかなか定住しようとしなかったし、定住したのちでさえ農耕・牧畜には向かわず、狩猟採集を続けたことが考古学的に示されているという。

 ちなみに似たような話が國分功一郎『暇と退屈の倫理学』にも出ていた。

 人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は、むしろ遊動生活にこそ適している。……現在、人類の大半は定住生活を行っている。そのために私たちは……住むことこそが人間の本来的な生活様式であると考えてしまう。……人類は定住生活を望んでいたが経済的事情のためにそれがかなわなかったのではない。遊動生活を維持することが困難になったために、やむを得ず定住化した

p89~91

 人類は容易に定住化に向かわなかったという点で両者の意見は共通している。正に『人々が放浪生活をやめて定住するにいたったのは、それが楽で快適なものであったからでない』(p80)のだ。では何が人類に定住を強制したのか。

 細かい説明は避けるが、『人類史のなかの定住革命』によると、どうやら温暖化によって狩猟採集の対象が小型化したために、人類は定住化したという推測が、現在説得力があるようだ。

 話を戻す。Aとは、どういった類の交換であるか。それは強制力を伴う。なぜなら共同体の外部において物々交換を可能にするのは、人々の意志を越えるものに他ならない。

 言い換えれば、各人の意志を越えた“霊的な力”こそが、共同体と共同体の間の物々交換を可能にする。

 ちなみに、“共同体の外部”とは必ずしも他者たりえない。“他者”という言葉は曖昧である。

 そもそも他者が不気味さ(Uncanny)を含意するなら、それは、フロイトの言葉で言えば「馴染み深いもの」の回帰である。ゆえに共同体の内部存在である。

 また他者が、特殊性や特異性を含意するものだとしても、共同体の内部の話である。なぜなら、特殊とは一般と対を成す概念であり、まさしくそのことにおいて共同体の規則を共有しているからだ。

 交換様式Aで氏が想定しているのは、共同体規則が全く通じない相手としての他者である。

 他者という単語が誤解を招くとすれば、言うべくんば、異邦人、単独者である。そういう規則が通じない相手を対象とするからこそ、交換を迫る強制力が必要となるのだ。

 

Bについて


 Aが互酬性を作り出したのに対して、Bは国家権力を作り出す。

 一般的に、国家は支配階級が彼ら自身にとって都合の良いように発明した装置と見做されているが、氏はそうではないと主張する。

……国家という制度は、支配階級が意識的に「発明」したような装置ではなく、人々の意思を超えた、何か観念的な力に基づくのであり、そして、その「力」はAとは別のタイプの交換様式、すなわちBから来たのである。

p106

 ではBはどこから来たのか。一言でいえば、それは人々の自発的な隷従化、つまり臣民の誕生からである。

 人々が自発的に臣民になりたがったのは、そこに双務的な関係性があるから、つまり得をする部分があるからだ。というのは、王―臣民という関係性は、服従すれば保護されるという関係、あるいは、保護されるのでなければ服従しないという関係(すなわち交換)だからだ。

 要するに、人々は保護や再分配を求めて、自ら臣下となった。その最たる例が文官武官などの官僚である。この垂直的互酬性が確立した時点が、まさに王権が形成される時点であり、すなわち国家の成立である。ゆえに国王のカリスマ性や、「聖なる王権」(A・M・ホカート)といったものはすべて交換様式Bに基づいている、と氏は主張する。

 

Cについて


 Bが国家を生み出したように、Cは資本主義を生み出した。交換様式Cとは、商品同士の交換に起源を持つが、この交換は人々が予期せぬものを生み出した。すなわち貨幣である。

 貨幣とは決して人類の発明ではない。AやBが人々の意志を越えたところから到来したように、Cも、そして貨幣も、人間の制御を越えた存在である。

 ところで、貨幣とは一体何か。これをいち早く分析したのがマルクスである。彼は価値形態論でこう分析した。

 全ての商品が、一つの商品によって価値表現されるという形態が、その一商品を貨幣たらしめる。と同時に、その一商品(貨幣)に、他商品を買う力が専有的に与えられる一方で、それ以外の全ての商品は、他の商品と交換する力を放棄する。このようにして貨幣は誕生した


 つまり、こういうことである。ある一つの商品に、他のすべての商品と交換できる「権利」が付与された時、その一商品は貨幣となる。ゆえに貨幣とは必ずしも硬貨や紙幣でなくてもよい。それがその他すべての商品と交換できる力を持っているならば、何でも貨幣たりえる。石でも紙でも何でもよろしい。

 マルクスは、この「権利」や「力」のことを「物神」(フェティッシュ)と呼んだ。言い換えれば、貨幣に諸物と交換できる「力」を付与するのは、そこに付着した何か、つまり貨幣物神である。

 注目すべきは、貨幣は決して人類が自覚的に生み出したものではなく、むしろ、無自覚に誕生させてしまったということである。あるいは、商品同士の結託によって生み出されたというべきか。

 ここで改めて当初の問いに戻る。貨幣とは何か。それは、何らかのモノに、貨幣形態(つまり他のすべての商品と交換できる権利=一般的等価形態)が付着した状態である。

 ただ、国家の保障がなければ、貨幣は機能しない。その意味で、貨幣を貨幣たらしめているのは、商品同士の結託と、それに便乗した人間との共同作業と言える。

 ゆえに、金(貨幣)が貴重なのはそれが金だからではない。むしろ、金に一般的等価形態が宿っているからなのだ。それゆえに人々は現物支給よりも商品券を、商品券よりも貨幣を手に入れたがる。

 マルクスは『資本論』で、この貨幣が資本、そして株式資本へと発展する姿を捉え、このように発展する全過程をヘーゲル的論理に沿って書こうとしたのだ。すなわち、人間の社会史は、人間の意図を越えたものによって作り変えられていくという過程を。  

 繰り返すが、貨幣、そして資本主義は決して人間の意図・設計によって作られたものでもなければ、我々が制御できるものでもない。その証左に、これだけ環境危機や経済危機、搾取の問題が叫ばれても、我々は資本主義から抜け出せていないではないか。

 

Dについて


 DはAを高次元で回復するが、このことは、ひとまずAを否定することなくしては有り得ない。またDは、Aだけでなく、B,Cを否定したところに到来する。つまり国家や資本経済を否定したところに到来するのだ。

 その前に、Aの誕生経緯についてもう一度説明を試みる。

 人類は当初、遊動民であった。その時のことはあまりにも分からないことが多すぎるが、取り敢えず氏は、この原初の形態を原遊動性(U)と名付ける。

 さて、このUから定住化に向かった結果、様々な葛藤や対立が生じた。それを解消したのがAである。なぜか。Aは平等性と自由独立性を保持している、つまり、A以前のUの記憶を部分的に保持しているからだと氏はいう。

 しかしそれはいつでも引き出し可能な記憶ではない。むしろ「反復強迫」的に我々に迫る。

 氏はここでフロイトの観点に立って説明を試みる。

 後期フロイトは、戦争神経症者が、戦争の記憶を次第に忘れていくどころか、毎晩その夢を見て飛び起きたことに注目した。大切なのは、フロイトがこれに注目したのは、「反復強迫」の能動的な側面に気が付いたからだ。

 つまり、毎日戦争の夢をとび起きることが、むしろショックを再現してそれを乗り越えようとする意味をもつのである。

 またフロイトの次のような分析も挙げている。フロイトは、母親不在のとき子供が糸巻きを投げて「あっち」と言い、たぐりよせて「こっち」というのを繰り返しているのを分析して、それが「母の不在」という外傷的体験を能動的に克服する行為であると考えた。

 つまりこの類の「反復強迫」は、能動的な自己治癒の企てなのだ。ただし、能動的ではあるが、意識的ではない。

 氏は、この「反復強迫」説を共同体に、すなわち定住化をはじめたばかりの集団規模で説明しようというのである。

 それによると、原遊動性Uは定住後失われたが、消滅したのではない。それは贈与交換(A)を命じる霊として「反復強迫」的に現れた。

 これによって、Aが反復強迫を特徴としていることは明らかであるが、Dもまた同じ特徴を持っている。氏はそれを預言者特有の宗教体験に見出す。

 預言者がたびたび遭遇する、制御不可能なエクスタシー、つまり神からの強迫的な呼びかけ(力)は、Dに関わる問題であるというのだ。(!?)

 つまり旧約の預言者たちは、A(氏族・部族社会)やB(国家)の優勢下で失われたUを回復しようとし、遊動的(つまり平等で自主独立的)な生活へ戻ることを主張していたというのだ。

 しかし、預言者はそのことを意識して行ったのではない。なぜなら、反復強迫とは、実際は内部から来るものだが、それは自我にとってあたかも外部から来たかのように強迫的に到来するからである。

 つまりDは反復強迫的に、彼らの意志に反して現れた。Dは自己から発するが強迫的に到来するがゆえに、見通すことも理解することもできない。

 ゆえに、旧約の預言者たちがしばしば、自分のしていることの意義が全く分からず戸惑ったり逃げだしたりする現象や、イエスを急き立てるあの終末論的強迫観念や、ムハンマドを襲ったコーラン啓示の体験などは、原遊動性Uとその回帰という問題と切り離せないという。

感想(というか勉強になったワード)

Ⅰ「資本は差異にのみ出現する」


 資本(工場や土地など)が有する増殖欲動によって我々は絶えず差異化することを強いられている。その差異化は大きく二つに分けられる。

 すなわち、空間的差異と時間的差異である。

 前者は専ら重商主義の段階に見られ、それは商品をその価格が安いところで買い、高いところで売る、その差額を利潤とするものである。例えば、北欧で獲ったイッカクの角を、トルコあたりで高額で売り付ければその差額が儲けとなる。

 または、この本を読んだ時、山小屋でアルバイトをしていたのでこの例を出すが、下界の業務スーパーで買った一個2000円のアイス箱を、スプーンでそれぞれすくい取ってカップに入れ、そのカップを一個800円で売る。一つのアイス箱から30個のアイスカップを作れるので、その差額(800×30-2000円)は歴然である。

 後者の時間的差異は産業革命以降の資本主義の段階に見られるもので、これは更に二つに分けることができる。一つ目は絶対的余剰価値生産で、これは労働者一人あたりが入手できる給料は変わらずに、労働時間だけが延長され、その延長分の利潤が資本家のものになるという、一般的に想像しやすい搾取である。

 しかし、そんなことを続けることは資本総体にとって許されない。なぜなら、長時間労働によって労働者(労働力商品)が壊れてしまうからだ。

 労働者とは、同時に消費者でもあるのだから、彼らに生産物を買うようにさせなければならない。

 二つ目は相対的余剰価値生産で、労働生産性を向上させながらも労働時間を変えないことで余剰価値を生み出すやり方である。要するに、労働者に支払われる賃金以上の仕事をさせることである。

 それによって生じた利益は、資本家自身が受け取るべき報酬であると見なされる。

 例えば、今まで手洗いで山小屋の料理プレートを片していたが、今度から食洗器を導入する。すると、時間短縮の分だけ労働者を更なる仕事に回せる。よって利益は増加する。

 さてここで我々が問うべきことは、なぜ資本は差異を志向するか、ということである。これに対していくつかの説明が試みられている。

 第一は、「資本」の本性からの説明である。機械や工場などは、そもそもは個々人の生活をより快適にするために作られたはずであった。しかし、それらは資本家などの一部の者の判断によって、生身の生活を離れ勝手に一人歩きをはじめる。その結果、個々人の自由にならないものとなって、資本(つまりは、会社の自由に使えるお金である純利益や内部留保)の拡大が第一の目的となる。

 これは資本に限らず、理念や制度にも同じことが言える。ちなみに、この資本の暴走のような「社会的なもの」の一人歩きを、宗教の分野において批判したのがフォイエルバッハである。

 人のために律法があるのか、律法のために人があるのか……。

 いずれにせよ、資本自身が持つ増殖欲動によって、資本は蓄積を、そして生産コストをより安くできる技術革新を案出しなければならない。

 しかし、それによって得られる利益は、他の会社や技術による追随によって次第に減少する。

 したがって、産業資本には絶え間ない技術革新が動機付けられる。ゆえにこそ、ただモノを冷やすためだけの機械である冷蔵庫が毎年“新技術“を携え、新型として売られることになる。また、大した新機能も有していない”新型iphone“が世に蔓延ることになる。

Ⅱ「貨幣物神」


貨幣物神に振り回される現代人。物神崇拝とは、本来手段であるはずの貨幣を目的として捉え、貨幣の蓄蔵を血眼になって求める現象。

 貨幣物神という、自分の意志を超えた力の只中にいることの面白さと恐ろしさを感じた。この物神(フェティッシュ)はマルクスが唱えた単語だが、決して時代遅れの単語ではないと思う。ただ、形態が変化しただけである。つまり有形(貨幣)から無形へ。例えば、PayPay、スパチャ、QuickPayなど。いずれにせよ物神が付着している。

 「貨幣物神」と同様に、人にはお金を使いたい欲望もあるのではないか。人間はもはや貨幣なしでは生活できない。山小屋での体験であるが、私は無性にお金を使いたくなった。二万円持って行ったが、山小屋の商品を爆買いした結果、五百円しか手元に残らなかった。

Ⅲ「アジール(アサイラム)」


 Wikipediaによればアジールとは「歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する」。そこに入れば、社会的制約や拘束、階級からも解放された。

 その意味では、現代の温泉や公園もアジールの変種、つまりアジール的な要素を、部分的であれ有していると考えられる。私が公園を好む理由もそこにありそうだ。

 本書の記述に沿えば、アジールは、Aに基づく氏族社会がB,Cによって抑圧されたのちも局所的に残った。例えばカタコンベなど。

 これは見方を変えれば、アジールとは、氏族社会が国家社会に転じたのちに、抑圧されたAが回帰したと言える。つまり「抑圧されたものの回帰」であり、これはDの到来と類似するが、最大の相違点はアジールがたんなるAの回帰であるのに対して、Dとは“Aの高次元での回復である”ことだ。

 アジールに関して、もう一つ注目したい単語がある。それはイソノミアである。氏によると、これは古代ギリシアの概念で、無支配を意味する。そこでは自由と平等が同時に実現されている。

 一方、デモクラシー、すなわち民主主義とは、-cracyが支配を意味するように、多数派による支配政体である。この政体には、自由を志向すれば不平等になり、不平等を是正しようとすると自由が制限されるというディレンマが絶えずついて回る。

 まとまりがないが、要するに私は無支配且つ、階級・身分格差が感じられないような場所が好きだということに、本書を読んで気づきを得た。

以上。


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