「歴史学はこう考える」と「自分がやってきたこと」/「レコンキスタ」と「スペインの国の形が形成されていく過程」
10月12日(土)晴れ
昨日は朝から庭師が入っていて、午前と午後のお茶の用意。午前中は母を病院に連れていき、結構話はできた。天気も良かったので湖畔を走って少し離れたスーパーに買い物に行った。時々ドライブみたいなことができると母も気分もいいかなと思い。
昼前に帰ってきて午前のお茶の片付け、昼ごはん、午後のお茶の用意。だんだん庭が綺麗になっていくのが気持ちがいい。いろいろお願いしているが、今年は若い人が二人来ているので例年と雰囲気が違うなと思ったり。きびきびと動くのをみているのは気持ちいい。
午後は作業場に行ってまた本とマンガの整理。新しく入れた本棚に、単行本と書籍は一応収まった。雑誌は収納しきれてないが、だいぶ数は減ったのでもう一息という感じではある。
「歴史学はこう考える」第3章・論文はどう組み立てられているかの第1節・歴史学の論文と歴史研究の諸分野まで、115/276ページまで読んだ。読み進むほどに面白くなっていく。あまり意識して読み分けていなかった部分を詳しく書いてくれているので頭の中が整理されていく感じである。
第3章は副題が「政治史の論文の例」となっていて、つまり代表的な歴史学のテーマとして政治史・経済史・社会史を選び出し、そのテーマで何を明らかにしようとして研究しているのか、また政治学・経済学などの分野の一部としての政治史・経済史としてのものの見方と歴史学としてのものの見方の考え方の違いなどについて書かれていく、ということのようで、この辺りはいろいろ面白いというか、実際のところどの学部のどの学科に入ったら自分のやりたい「歴史の研究」ができるのか、ということが、特にこれから学部や学科を選ぼうとする人にとっては役に立つのではないかと思った。
実際のところ、自分がフランス革命をやっていた時もかなりの資料(研究書)は英語・フランス語のものを含めて法学部の図書館にあり、文学部図書館で借りられるものだけでは不十分だったり、法学部は他学部への貸し出しを制限していたりするので自費で高価な原書を買ったりしていたことを思い出す。法学部で研究していれば他の学部で貸し出し制限をしているところはなかったから不自由なく研究できたのにと思ったりする。しかし文学部西洋史学科のリベラルで自由な雰囲気が法学部フランス政治史講座にあったかどうかはわからないわけで、そういう選択は難しいなと思う。
また、私はトインビーなどの文明史観みたいなものに興味があったのだけど、文明史そのものは教養学科の科学史の先生が学会を主催していたりしたが、トインビーはそういう感じともまた違うのでどこがよかったかなとネットで知り合った人と話していたらそれなら文学部英文科が良かったのではないかと言われて、その発想は全くなかったなと思った。まあチャーチルも「第二次大戦回顧録」でノーベル文学賞を受賞しているわけだし、英文学という括りで英語で書かれたものならなんでも研究できる、という発想もあり得たのだなと思う。この辺りは本当に学部生やまして大学をよく知らない田舎の高校生にとっては困難な選択だなと思う。
研究というものは結局は何かを明らかにするためにやるわけだけど、工学部ならこれをこういう手法で扱ったらこういうものが生産できる、みたいなことを明らかにするわけだけど、歴史の研究ではこういうことが起こったのは何故なのか、みたいな原因と結果、因果関係を明らかにする、ということを少なくとも研究の題名としては称していることが多いけれども、歴史というのは全て一過性のものであり、実験できるわけではないので歴史的事象の中から比較検討するなどして仮説を立てるしかないわけで、因果関係を本当に明らかにできるかというと結構難しい。
私が研究したのも因果関係を明らかにするというよりはまずは起こった出来事の実際の過程を詳細に記述し明らかにしていくことで何が見えてくるか、みたいなより基礎的な感じのことであって、今考えるとその面でも不十分だったなと思うのだが、「歴史を明らかにする」というのはどちらかというと茫漠とした目標なので、むしろそういう方が歴史学らしい研究なのかもしれないという気はした。ただ実際に読んでいた本はフランソワ・フュレなどの論争的な最先端の論考だったから、彼我の距離の遠さに呆然とするところはあったわけである。
前にも書いたが私がしたかったことはむしろ「民主主義とはなんなのか」みたいなことを歴史的過程で明らかにすることだったから、まあどちらかというと空中戦である。しかし地に足をつけた研究を一度してみてそこから先を考えるというのが本道だったと思うのだが、体力的にもたなくなってそれが続けられなかったことは残念だったなと今考えていて25年ぶりに思った。
ただまあ死ぬ前にそこに気がついたのでまた作戦的にその辺は考えてじぶんなりに研究して行けたらいいかなとは思っている。「歴史学」について書かれた本を読むことは、自分が何をやってきたのかの再確認にもなるのだなと改めて思った。
「レコンキスタ」の方は第5章「一進一退の攻防」を読了。171/290ページ。
昨日読んだのはムワッヒド朝によるアンダルス支配、イスラム側の攻勢により追い詰められ分裂して相争うキリスト教諸王国、起死回生に見えたラスナバス会戦、ムワッヒド朝の退潮と第3次タイーファ時代、アラゴン王国とアルビジョア十字軍、カスティーリャを中心とした大征服とナスル朝グラナダ王国を除いたレコンキスタのほぼ完了、などのところだった。
前半のキリスト教徒にとって困難な時代、ポルトガル版エルシドのようなジェラルドという人物がいて、ポルトガル王国の南下政策に尽力するのだが、最終的にムワッヒド朝側に鞍替えしたらしく、「信仰の差異よりも自らの勲功に重きを置く時代を象徴する人物」という表現がなるほどと思った。
1212年のラス・ナバスの会戦でキリスト教連合軍がムワッヒド朝を破ったことがレコンキスタの象徴のように語られることが多いそうだが、実際にはそんなに決定的なものではなかった、という指摘も面白く、この辺りの脱神話の語りがこの著者のスタンスを語っているのだなと思う。
その後ムワッヒド朝は本拠のマグレブでモロッコにマリーン朝、チュニジアにハフス朝、アルジェリアでザイーン朝と三つの王朝が自立してムワッヒド朝を攻め、滅亡に追いやられる。
アンダルスにおけるタイ―ファ時代は後ウマイヤ朝衰退・滅亡後が第一次、ムラービト朝滅亡後が第二次、ムワッヒド朝滅亡後が第三次とあったわけだが、この第三次タイ―ファ時代はグラナダのナスル朝以外はすべてキリスト教国に征服されることになる。しかしカスティーリャに臣従したナスル朝はその後250年間1492年まで命脈を保ったわけで、むしろそちらを評価すべきという考え方もあるのだなと思った。
キリスト教国家の中ではアルビジョワ十字軍の問題が大きく関わってくるが、アラゴン王国のペラ1世は南仏の諸公国と関係を持っていたためにカタリ派の領民を守ろうとするトゥールーズ伯レーモン6世に助力を求められ、参戦したものの敗死してしまう。
この戦争はフランス史的には最終的にフランス王(つまり北フランス側の)ルイ8世による南フランス制圧という意味が強いということで、アラゴンは南仏への進出の意図を挫かれ、南仏はフランス王とイングランド王の角逐の場になってしまったというのがなるほどと思った。アラゴン王国はその後立て直した後もバレンシア南方まではレコンキスタで領土を拡大したが、カスティーリャとの協定によりレコンキスタは事実上終結し、地中海方面への進出を図ることになったというのもよく理解できた。
第3次タイーファ時代は結局キリスト教諸王国の圧力を逃れることはできず、グアダルキビル川流域のアンダルスの主要地帯はカスティーリャのものになり、イベリア半島はカスティーリャ・アラゴン・ポルトガルの3国でほぼ占められ、北部に狭小なナバーラ王国、そして南部の山岳地帯に僅かにイスラムのナスル朝が残存する、という形になったわけである。
13世紀前半にほぼレコンキスタは終了していたのだが、その後完全にムスリムの国がイベリア半島から駆逐されるのは1492年になるわけで、その間の事情などもまたこの先に出てくるのだろうと思う。その後スペインはゴリゴリのカトリック護持が方針になる時期もあるわけだが、この時代はムスリムもユダヤ人もその信仰を守ったまま居住を許されていたわけで、それが変化する理由のようなものもしれたらいいなと思う。
例えば、コルドバの大ムスリム学者であったイブン・ルシュドは現在のスペインにおいてはどういう位置付けにされているのかとか、そのあたりも調べたら面白いかもしれないと思った。